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死なれた直後の[眠っていた多くの聖者の体が生き返った(マタイ27:52)] に関する合理的な考察

まず該当聖句の前後を引用しておくことにしましょう。

《イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。  そのとき・・墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。  そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。  百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。》マタイ27:50-54

キリストの復活前に、聖徒の復活があったという、誰でも首をかしげたくなるような記述なので、一般にこの聖句に関する解説は多くありません。殆どはあまりこの記述に触れたがらないという傾向が見受けられます。

幾つか見つけた解説を以下に挙げてみましょう。

「それはイエスの死には、「死の力を滅ぼす」、または「無力化する」という意味があったことを示します。」
「これは、やがて私たちキリストにすがる者たち自身が身をもって体験することを予言しているのです。」
「これら描写はこの十字架の死から三日目の復活の出来事を示唆するものとして受け止めることができます。」

おおよそこうした見解が一般的なようですが、それ位しか言いようが無いのでしょうが、そのように捉えるべき明確な根拠は示されていません。

さらには、あまりにも不可解なためと、マタイしか記していないという理由で、次のような「マタイによるでっち上げ説」まであります。

「この復活物語は歴史的事実としての信憑性がきわめて薄いのです。この物語は創作された可能性が高いのです。」

さて、ではこの聖句を紐解いてゆくことにしましょう。

一つの問題点は、起きるタイミングを別にして、この記述を文字通りの「聖徒の復活」と捉えてしまっている点にあると私は考えています。

まず、下に挙げた2つのギリシャ語を考慮しましょう。

「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とは、何を伝えようとしているのでしょうか。
「体(ギ語:ソマ)」
「生き返った(ギ語:エガロ)」

「体が生き返った」という表現は、よくよく考えると幾分奇妙に思えます。
「生き返った」で十分でしょう。わざわざ「体が」と断る理由は無いはずです。

その辺の違和感から、原語の意味を確かめてみました。

《あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。  これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体(ソマ)はキリストにあります。》コロサイ2:16,17

あなたがたはキリストの体(ソマ)であり、また、一人一人はその部分です。》1コリント12:27

これらの用法から「ソマ」は文字通りの「肉体」だけでなく、比喩的な意味合いでも用いられていることが分かります。

また「エガロ」は「目覚める、起き上がる」という意味の動詞であり「生き返った」という断定的な意味はありません。「生き返った」は「死んでいた」と言う状況を断定したものと言えますが、この語に生死の有無を特定する意味はありません。

まあ「墓が開かれ」と言う部分からそのように意訳したのでしょうが、本来の言葉の意味を逸脱したもので、勝手な意味を追加している時点で、限りなく「誤訳」に近いと言って差し支えないでしょう。このように言える一例を上げみますと、

《ヨセフは眠りから覚めると(エガロ)、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ・・》マタイ1:24

この時ヨセフは「死んでいた」のではなく、文字通り眠っていた状態から眼が「覚めた」だけで「生き返った」わけではありません。

それで、「生き返った」という翻訳に因われず、ひとまずここで、必ずしも文字通りの「復活」に限定されるわけでは無いということを押さえておきましょう。

このことを踏まえた上で、改めてこの記述が、すべて「文字通り」の出来事を記述していると仮定して考慮してみましょう。

文字通りこの翻訳文のとおりだとしたら、キリストの死のタイミングで、その時生き返った聖なる者たちは、「生き返った」のに引き続き墓の中に留まり「墓から出てくる」まで(「イエスの復活の後」は必ずしも「直後」という言うことを意味しませんが)最低でも3日の間、どうしていたのでしょうか。
墓の中で、飲まず食わずのまま、排泄もぜず、更には「墓」の中で呼吸ができるのかどうか分かりませんが、せっかく「生き返った」のに、墓の中での現状維持では、生存者はいないにちがいありません。
3日以降に「墓から出てくる」のは不可能でしょう。

「イエスの復活前に聖徒の復活はあり得ない。」というだけでなく、記述そのものが論理性を欠いているのが分かります。

それは、一般の解説によくある「キリストの復活後に生じる聖徒の復活の予言、或いはその確実性を強調するために示した」ということすら、真顔で言えないほど、論理が破綻しているのです。もし、そうした解説にあるような目的をもって記したのであれば、少なくとも、もう少し順当な記述の仕方があったはずです。

ですから、この数節の文が「文字通り」の意味だとするのは到底無理です。つまり、どう考えてもこの記述は「比喩」的表現であるに違いないということです。

とにかくマタイは、そのタイミングを「息を引き取られたとき・・墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」と記しているのですから、「本当はそうじゃなく・・」というように無視せず、このままの記述を受け入れて、納得の行く聖書的な解決を図るべきでしょう。

先にも少し述べましたが、もう少し原語の本来の意味を探ってみましょう。

「眠りについていた」という訳ですが、この訳し方ではそれは文字通り「死んでいた」と言うことの比喩的表現であると、誰もが受け止めることでしょう。
しかし、原語は単に「眠っている」という意味であり、「生き返った」は「起き上がった(或いは目覚めた)」というのが字義的な意味です。

そして「体が目覚めた」という言い回しの不自然さのことも触れました。
それでここでは、わざわざ「体が」という単語が付加されている理由は、《あなたがたはキリストの体》という比喩的表現からの用例としておくことにしましょう。

弟子たちは、自分たちの主が捕縛され、死刑に処されたことへの不可解さと落胆は頂点に達したに違いありません。
それでも心のどこかで「一発逆転」の可能性を期待していたかもしれません。

《ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。  それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。  わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。》ルカ24:19-21

しかし、キリストの死が現実確実となった故に、自分たちの勝手な期待は脆くも崩れ去り、信仰あるいは思考の再構築と言うか、改めて、事の全容を理解し直さねばばらないことを気づかせる重大な動機づけを与えることになったはずです。

この時意気消沈して、為すすべもなく、あたかも「眠って墓の中」にいたキリストの「体」である弟子たちは、目覚めされられたに違いありません。

《「イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。》ルカ24:25-27

まとめますと、キリストの逮捕と死刑執行に及んで「眠っている】かのような状態にあった聖なる者たち(キリストの体)は覚醒したというような意味なのでしょう。

確信を与えられた彼らは「墓から出て」聖徒エルサレムに集まっていました。

《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、  突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。  すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、  この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。》
使徒:2:1-6

《エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。》使徒1:14

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