「666」に関する黙示13章全体の聖書的考察
【666】に関して巷では、IDカード説、マイクロチップ説、肌に刺青されるバーコード説など様々な説が飛び交っていますが、黙示録13章の獣の数字と獣の像の実態に関する聖書的な推考について記したいと思います。
赤い龍であるサタンが天から放逐されて始まる終末期のステージ(70週の最後の1週)の悪の主役として初めに、1匹の獣が海から登場します。
(これを端的に表すために「海起獣」と呼んでいます)
そして直後に強力なサポーターが加わります。
「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」ー黙示 13:11
(こちらの方は「地起獣」と呼ぶことにします)
この地から上がった獣(地起獣)が先の海から上がった獣(海起獣)の像を作らせます。
「また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、そのその獣の像を拝まない者をみな殺させた。
また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも買うことも、売ることもできないようにした。
ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」ー黙示 13:13-18
さて「666」は置いておいて、まずは先に「獣の像」に注目したいと思います。
地起獣は像を自分で作るのではなく地上の人々にその制作を命じます。
・・さて、ちょっと余談になりますが、ここで時代的背景を念頭に置いておくのは有益だと思います。
これに続く黙示録の記述から、この時点で世界は、支配的にかなり集約された状態、すなわち、New World Orderは整いつつあり、その総仕上げの場面に突入したという段階だろうと思われます。
ですから像を作らせるというのも、おそらく具体的には「地の王たち」つまり地上の諸政府にそうした命令、通達を出すということでしょう。
「像」は単数形で現されています。であれば、全地の人々がただ一つの巨大な文字通りの像を建造するのでしょうか。どこに?
こう考えてみますと、少なくとも全人類がその像を拝むことを目論んで作らせるわけですから、文字通りの物理的な像ではその目的に適わないと言えるでしょう。
ですから、(単数であるというのはおそらく、統一された単一の仕様書や指示書のようなものがあるというようなことかも知れません)各国政府は それぞれに「海起獣」の像を作成することになるのだろうと思われます。
「息を吹き込んで、獣の像がものを言うようにした」のは地起獣、当人でしょう。
しかし、実際に像が何かを「言った」ということは記されておらず、それが自ら行動したという記述などはありません。
息を吹き込み、ものを言うという比喩表現は、像を作らせるには目的があり、それが目論見通り効力を発揮するようにしたということに違いありません。
つまり地起獣は、作らせた「像」を承認し、活性化させます。
地起獣は誰に「像を拝まないものを殺させた (15 節 )」のでしょうか。像作成命令と同じ諸政府にそれを強要するということでしょう。
さて、時系列的に言ってこの時点で「みな殺させた」という表現が文字通りであるなら、続く16節の「大小、貧富関係なくすべての人々」はこの時点で全員、殺されずに生き残った、像を拝む人しか存在しません。
そして、17 節の「その名の数字を持っている者以外」も、おそらくその時点で一人も存在しないことになりますから、わざわざ刻印を受けさせて売り買いできなくさせる必要性もまったくありません。
ですから、この 15 節の「獣の像を拝まない者をみな殺させた」という表現は、タイトル的な役割で、そのための詳細な方法が、続く16,17節の内容であるということでしょう。
ですから、「殺させた」とは諸政府に対して、自国の像崇拝忌避者に対して売買を不可能にする法律を施行するようにさせたということだろうと考えられます。
しかし、「皆」殺させたとありますが、続く14章以降の記述から、逆に像崇拝者に対する神からの災いが及ぶということですから、この「獣の像を拝まない者を【みな】殺させた」という表現は文字通りの意味ではないということになります。
「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」ー黙示14:9-12
こうして一連の流れを考えてみますと、黙示録特有の書き方ではありますが、どうも時系列的に全体を把握するのにモヤモヤ感が残りスッキリしません。
そこで改めて、この一連の流れを現実的にシミュレーションしてみて気づいたことがあります。
ここに黙示13章の主なできごとを、それについての素朴な疑問を挟みながら、引用してみます。
「全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。」-13:3,4
「あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」-13:7
しかし目に見えないサタンをほぼ全人類がどのように拝むのでしょうか。
「悪魔、サタン、ルシファー、龍」どんな名で呼ぼうが、全知の少なからぬ人々にとってそれらは漫画やアニメの世界の話として一笑に付すであろう唯物的な人々が、そう簡単にいきなり龍を拝むようにはならないでしょう。
「地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。」-13:12
全地の人々が獣を拝んだのであれば、その後「像」を作る必要性はどこにあるのでしょうか。 ダメ押し?
「あの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。」-13:14
「その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」13:15
「その名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」13:17
順を追って読んで見ますと、単なる出来事順の記述と言うより、
「全地は獣に従い、龍を拝んだ」
という出来事が具体的どのような方法でなされるかを順を追って詳述していると読み取れます。
すなわち「刻印」を作らせ、持たないものを売り買いできなくさせることによって「殺させ」るという実力行使によって、作らせた「像」が息をし、ものを言うという活性化に成功し、やむを得ず「刻印」を受ける事により、それは結局、像を認め拝む事になり、ひいては獣そのものに従い拝む事になり、実質的にそれらを通して全地の人々は「龍」すなわちサタンを拝むことになるという図式が完成するのでしょう。
さて、ここからしばらく、使われている主な語句を聖書的に理解するために、原語に注目しながら改めて取り上げておくことにしましょう。
【「像」とは?】
まずは獣の「像」の実態に迫ってみようと思います。
[ 像 ](ギリシャ語 : イコン(アイコンの語源)en:image 意 : イメージ、肖像、似たもの)
「イコン」が出てくる参照聖句 :
「これは、だれの肖像 ( イコン ) ですか。だれの銘ですか。」- マタイ 22:20
「御子は、見えない神のかたちで ( イコン ) あり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」- コロサイ 1:15
「御子のかたち ( イコン ) と同じ姿にあらかじめ定められた…」- ローマ 8:29
「男は神の似姿 ( イコン ) であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。」-1コリント 1:7
「神のかたち ( イコン ) であるキリストの栄光…」-2コリント 4:4
「像」と聴くとどうしても、十字架上のキリスト像とか、西郷隆盛の銅像のような立体物を描きがちですが、むしろ見えないもののイメージを具現化したものという感じですから、平面的なものあるいは、WEB上で誰でも確認できるグラフィカルなデザイン物ということもありえます。
【「刻印」とは?】
「刻印」(ギ語:キャラグマ) 意 : マーク、彫像
英語ではどの訳も全て[ mark ]です。
聖書中にこの語が使われている全8箇所中、7箇所はすべてこの黙示録の獣の像について用いられています。
黙示録以外では「使徒」の次の聖句に1箇所使われています。
「神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像(キャラグマ)と同じものと考えてはいけません。」ー使徒 17:29
獣の像(イコン)と獣の刻印(キャラグマ)
どちらも 獣の像と訳し得るということです。
改めて次のローマと使徒の2つの聖句を比較して見てください。
「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像 ( イコン ) と取り替えたのです。」- ローマ 1:23
「神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像(キャラグマ)と同じものと考えてはいけません。」ー使徒 17:29
これら「像」や「刻印」は獣崇拝、延いてはサタン崇拝を達成させるためのアイテムですから、この二者はその役割において同じのものということができます。
これも文字面で「刻印」と読むと、刻みつけられたレリーフなどを思い浮かべますが、単にアイコン、肖像画のようなものと受け止めていたほうが良いようです。
【[ 名前 または 名の数字 ] とは:】
16節に《その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字》という表現が見られます。
「名前」あるいは「名前の数字」のどちらかという意味でしょうか?
「または」と訳されている原語は(ギ語:エイ)
この語は、次のような英単語に訳されています。(( ) 内は訳出回数) either (4), nor (1), or (282), or else (4), other than (1), rather (1), rather than (2), than (36), than...or(1), whether (1).
[nor] の訳出例 :
[will be able to resist nor to reply to all]
「どんな反対者でも、対抗【も】 [ エイ ] 反論もできないような言葉と知恵を、あなたがたに授ける」- ルカ 21:15
ほとんどの日本語訳はここで「ギ語:エイ」を「も」と訳しており、どちらかではなく、両者を含むニュアンスで用いられています。
「対抗であれ反論であれそうしたことが一切できない」、という思いを伝える表現となっています。
[rather than] の訳出例 :
「神に聞き従う【より】 [ エイ ]、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」- 使徒 4:19
[but rather] の訳出例 :
「地に平和を与えるために来たと思っているのですか。そうではありません。【むしろ】 [ エイ ]、分裂です。」- ルカ 12:51
「平和 または 分裂」のどちらかの可能性があるということでもなく、また両方でもなく、上記のケースよりも更に強く平和を否定して「分裂」であると断言しています。
「または」と「むしろ」ではだいぶ違います。
「または」は両方に可能性がありますが、「むしろ」は後者のみという選択になります。
それで、この黙示 13:17,18 の意味するところは、こういうことなのだろうと思います。
《「刻印」とは端的に言えば「獣の名前」です。というよりむしろ、より的確に表現すれば「獣の名前の数字」であり、それは確かに一人の男の数字であり、その数字は 666 です。》
ということになると思います。
ここまでで分かるのは、「刻印((キャラグマ)」とは像(イコン)の名の数字である。
また「刻印」とは、売り買いが関係する「不法の人」(北の王、小さな角)なる一人の男の肖像であり、「数字」によって象徴されるものだということです。
ついでながら「名の数字」と訳されている部分ですが、この「数字」という語は原語で「アリスモス」といい、数[number], 合計[total] という意味であり、いわゆる算用数字とか漢数字という概念で日本人が捉える「かずを表す文字」ではなく「数」そのものだということです。
他の例:「その数[ アリスモス] はおよそ五千人であった」(ヨハネ6:10)
「男の数[ アリスモス] が四百人ほどあり」(使徒5:36)
【刻印を「受けさせた」とは :】
ギ語:ディドミー 提供する、与える、置く。
この語句はごく一般的な語句で頻繁に使われています。
使用例 :
「求める者には【与え】(ディドミー」-マタイ 5:42
「私たちの日ごとの糧をきょうもお【与え】(ディドミー)ください。-マタイ 6:11
「聖なるものを犬に【与え】(ディドミー)てはいけません。-マタイ 7:6
「求めなさい。そうすれば【与え】(ディドミー)られます-マタイ 7:7
「受けさせた」と言うと、否応なく強制、強要されるような響きがありますが、対象が人そのものではなく、右手や額なので、「受けさせた」と表現されるのでしょうが、語の意味としては単に「与える、提供する」という以上の意味はありません。
17 節ではこの同じ単語は「持っている」と訳されています。
「あの獣の名、またはその名の数字を【持っている】者」黙示 13:17
実際その後に何度か出てくる同様の聖句は、それを拒むべきだということが強調されています。
「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。」(黙示 14:9,10)
ですからそれは、選択可能で自発的な行為として許容されるもののようです。
ましてや知らないうちに勝手にこの刻印が体内に施術されてしまうというようなものでは決してないということです。
さて、その「刻印」とは「すなわち」獣の名またはその名の数字であるとされています。
そしてこの語の同様な表現からみますと、その刻印を受けた人 と 獣 or 像を拝む(崇拝する)する人とは同類であるとされています。
「獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々」(19:20)
「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」(20:4)
しかし、あえて繰り返し、別々に表現されていることを見ますと、この両者は同一ではなく、仮に獣を拝まなくても刻印を受けるということはあり得るわけですが、いずれにしてもこの両者は神から見て同罪とされるということです。
「拝む」というのは宗教的な行為です。
しかし、「刻印を受ける」というのは(売り買いできなくなる故に)経済上やむなく受けるという可能性が高いでしょう。
しかし、そもそも、地起獣が人々に売買の可不可を決するこの刻印を受けさせる目的は、「海起獣」を崇拝させることが目的で、その決定打としての具体的方策としての狡猾な手立てなわけですから、この「刻印」を受け取るための交換条件として何らかの「獣崇拝」に関与させるというのは十分有り得るでしょう。
さて刻印を「右の手 か 額かに」という表現ですが、ここでの「か」というのも先に示した「名前または名前の数字」の「または」と同じギリシャ語「エイ」です。
右手もしくは額のどちらか(どっちか好きな方を選ぶ?)ということかもしれませんが、ここで、右手や額が他の聖句中でどのように使われているかをいくつかの例を見てみることにしましょう。
右手 :
「右手に七つの星を持つ方」 - 黙示 2:1
「御座にすわっておられる方の右の手に巻き物がある。」黙示 5:1
「御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。- 黙示 5:7
これらの句の場合、わざわざ「右手」と言わずとも「手」だけで十分その意味は伝わると思いますが、ことさらに「右」に何らかの意味があるのでしょう。
「海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて…誓った。」- 黙示 10:5,6
「宣誓」の際に決まったように右手を上げるのはどうしてなんだろうと思いますが、(おそらく左利きの人も右手を上げるのでしょう)
その右手を上げる動作に「私は今ここに」というような誓う人の思いの強さが強調されるような気がします。
「施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」-マタイ 6:3
大抵の人は右利きなので、施しに限らずおおよそ何をするにしても「右の手」は他のどの肢体よりもよく動き目立つことでしょう。
「右手」は当人の心の動機、願望、欲求などが表明される象徴と言えます。
額:
「神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」- 黙示 7:3
「…額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。」- 黙示 9:4
ここで使われている「印を押す」という語は「スフラギス」という名詞の動詞型で、それは「シール、印鑑」などの意味だとされています、
「信仰によって義と認められたことの証印「スフラギス」として」- ローマ 4:11
「神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘「スフラギス」が刻まれています。」-2テモテ 2:19
また黙示録の7つの「封印」と約されているのもこの「スフラギス」です。
それで、「刻印(キャラグマ)」と「証印;封印(スフラギス)」は同義語のような大変似通った意味の語句だということが分かります。
「小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」- 黙示 14:1
「神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」- 黙示 22:4
これらの聖句は次の祭司に関する記述を彷彿させます。
「純金の札を作り、その上に印を彫るように、『主への聖なるもの』と彫り、…それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。…これは、それらの物が主の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。」- 出エジプト28:36-38
「額」と「名前」は密接な関係があるようです。
そして額は当人の身分の証というか、誰に属するかを対外的に明示する際の象徴として描かれています。
そして大バビロンにも「額」に名前が書かれています。
「その額には、意味の秘められた名が書かれていた。「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。」- 黙示 17:5
それで、それらの語句の象徴的な意味を聖書から理解するなら、右手か額かに獣の名の刻印があると言うのは、文字通り身体に付ける、刻むというようなことではなく、誰からもその人の立場、帰属が否応なく明らかに分かるというようなことだと考えられます。
さてではいよいよ、「像」「刻印」「獣の名の数字」そして「666」の実体について纏めに入ります。
全てに関連しているのは、獣崇拝とその強制手段としての方策である金融 / 経済の掌握というものです。
像や刻印に関する限りその主な影響力は金融、経済的上のものに限定されているようです。
「像」に関してここで改めて先に引用した聖句を取り上げます。
「これは、だれの肖像 ( イコン ) ですか」- マタイ 22:20
前後を含めて引用してみます。
「どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。 納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。
そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」マタイ 22:17-21
ここでの場面では、税金に関するカイザルの肖像の入ったもので額面の数字(1?)に象徴される「デナリ硬貨」、つまり「お金」ですが、これがなければ「売り買い」はできません。
それで、売り買い(経済)に関わる単一の制度(「像」が単数形である理由)というか、おそらく、史上初の統一国際通貨システムというような制度を確立することが「像」であり、そのための通貨(紙幣などの現金か、ビットコインのような仮想通貨の類かどうか分かりませんけど)が「刻印」ということでしょう。
聖書中に「666」という数字のヒントと思えるものが 1 列王記 10:14 にあります(2歴代誌 9:13 も同様)
「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」- 列王記 1: 10:14
金は売り買いのための最も直接的なものであり、これが 666 タラントであるという記述は、単なる偶然とは考えにくいように思えます。
ではその数字を「数えなさい」とはどう言うことでしょうか
「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。」- 黙示 13:18
ここで「数えなさい」と訳されている語「ギ語:プセフィゾー」ですが、この語は他にもう一箇所ルカの記述に見られます。
「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。」- ルカ 14:28
たとえ話の中で考えて見てもこの「費用を計算する」というのは文字通りの算術的な計算の問題と言うより、資材や人件費を具体的に想定して計画性や全体像を把握するという意味で語られていることが分かります。
この記述は、クリスチャンになることに関して、単なるその時の思いつきや衝動で行動に移すべきではなく、十分な熟慮が必要であることを教える際にキリストが語られたたとえです。
ところで、「数える」と訳される語は他にもあります。
「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」- マタイ 10:30;
「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」- ルカ 12:7
「・・だれにも数え [ アリスメモー ] きれぬほどの大ぜいの群衆が・・」- 黙示 7:9
ここで「数える」と訳される原語は、「ギ語:アリスメオー(動詞)」です。これは 先程取り上げた「数、合計」という意味の [ アリスモス ] という名詞から派生した語です。
この関係は「数(名詞」と「数える(動詞)」ですから日本語でも同じでわかりやすいです。
この、「ギ語:アリスメオー」は文字通り「算術的な」カウントするという意味で用いられています。
しかし黙示 13:18 は「数字(アリスモー)」を「数える(プセフィゾー)」となっていて、単に加減乗除の算術のように「数える」というのであれば「アリスメオー」が用いられたでのはないかと推論します。
「ここは知恵を働かせるというのが不可欠な箇所です」という趣旨の言葉で、予め断っています。
そして「思慮」のあるものにだけ、それが可能になるということです。
「ここに知恵がある」と訳されている(「知恵」ギ語:ソフィア 知恵、洞察、技能、知性 (哲学と訳される英語 philosophy の語源)
しかし預言を扱う際の「知恵」とは他でもない「聖書そのもの」の中にヒントがあるかどうかを探ることであり、それ以外の推察は、単なる推理、憶測、想像の域を出ることはありません。
「こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」1コリント 1:19-21
「666に関しても、とりわけそうした「神の知恵」が必要となるところだということでしょう。
そして数えよと言われているのは「思慮ある者」だけです。
「さて、では果たして「思慮深い人」であるなら、数えることが可能になるのでしょうか」
答えは NO !です。
どんな「知恵」をもってしても不可能です。 「数字」は単数形ですから、あえて表現すれば「獣の名前に関する一つの【数】」であるということですから、当然[666] のみです。
一つの数字は、数えようがありません。数えてもひとつです。
数式そのものが無いのですから、あるいは複数の数字なら足したり、掛け算をしてみたりできますが、単数はどんなに「思慮のあるもの」であっても、数え(計算し)ようがありません。
もし「666」が何らかの四則演算などによって導き出される「解(答え)」であるとしても、特定の数式を勝手に想像、想定してみても何ら意味あるものにはならないでしょう。
そこで、改めてこの666を「数える、計算する」と言われている理由を考えますと、この表現そのものも(獣などと同じように)一種の比喩に違いありません。
なぜなら単に数を数えることが「思慮ある人」にだけ釈されているということは無いだろうと思えるからです。これくらいの数なら、小学生でも暗算でできるくらいでしょう。
対象が数字なので、「数える」と表現されているのであって、実のところは、聖書中の記述から導き引き出しうる故に、聖書を行き巡って「霊的な考察」を勧めていると考えるほうが理にかなっていると考えられます。
ですから、「獣の数字を数えよ」という部分を(いくらか意訳的ですが)「獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。」と訳している新共同訳は、むしろ本来の聖句の意図したところを伝えているのではないかと思います。
ですから、文字を数値に換算したり、ゲマトリア(ヘブライ語およびヘブライ文字の数秘術であり、聖書の言葉に隠された意味を読み解く神秘主義思想カバラの一部をなす。)などを使用してある特定の人物の「名前」を成すアルファベットの数値を足し算して合計が 666 になるというような文字通りの「計算」を試みることを勧めているわけでは決して無いでしょう。
さて「思慮のある人」とはどういうでしょうか。
「思慮」ギ語:「ノウス」は全部で 24 箇所に使われていますが、その殆は「心」と訳されています。
この語を「思慮」と唯一例外的に訳しているのが黙示 13:18 です。
《理性のある者》 [ 岩波訳 ]
《賢い人》 [ 新共同訳 ]
《心あるもの》 [ 前田訳 ][ 文語訳 ]
《理知ある者》 [ 塚本訳 ]
以下は「ギ語:ノウスが」用いられている、「新改訳」からのいくつかの抜粋です。
「聖書を悟らせるために彼らの心 [ ノウス ] を開いて」- ルカ 24:45
「この私は、心 [ ノウス ] では神の律法に仕え」- ローマ 7:25
「だれが主のみこころ [ ノウス ] を知ったのですか」- ローマ 11:34
「神のみこころ [ ノウス ] は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために」- ローマ 12:2
「それぞれ自分の心 [ ノウス ] の中で確信を持ちなさい。」- ローマ 14:5
「同じ心 [ ノウス ]、同じ判断を完全に保ってください。」-1コリント 1:10
「人のすべての考え [ ノウス ] にまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」- ピリピ 4:7
「ここに知恵の心 [ ノウス ] があります。」- 黙示 17:9
それで、この句を単純に訳せば [ 前田訳 ] や [ 文語訳 ] のように「ここに知恵がある。心のある人は獣の数字を熟考しなさい」という感じになると思います。
この「心 [ ノウス ]」がある人というのは、「耳のあるものは聞きなさい」というイエスがよく語られたフレーズに通ずるものがあると思えます。
単に物理的に耳があると言うわけでも、聴力に優れているというものでもありません。
同様に単に知性や思考力が高いということではなく、霊的な洞察力を働かせることが勧められているということでしょう。
「666」という一人の人間を指す数字を挙げて、数えるようにという勧めの言葉を持ってヨハネに記させたイエス・キリストの意図はどのようなものなのでしょうか。
獣や像が実際に出現したときにしか分からないないのであれば、その時点で数えてみたところで、まったく無意味でしょう。
しかも、そこには知恵も思慮も必要なく誰にでも明らかです。
やはり、心あるものは数えよ(熟考しなさい)という勧めの言葉は、聖書の探求によって予め知りうることが意図されていると言えるのではないでしょうか。
黙示 13:18は「心のあるものが知恵を働かせて、聖書中の記述だけに基づいて計算(熟考)するなら、獣の数字の実体を正しく推測しうるということを示すために記されたと言えるでしょう。
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