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「最も難解、不可解な記述の一つ」と言われている、ルカ16章の「不正の富」に関する考察

 学者や牧師などが、最も難解、不可解な部分の一つと評するのが、ルカ16章の「不正の富」に関する例えです。
今回はこの「難解なたとえ」に取り組んでみたいと思いますが、この「たとえ話」は、「永遠の命」に関わりのある記述なのですが、先ず、なぜこの話が「難解」なのか、多種多様な解説が飛び交っているのかという理由について、初めにお伝えしておきましょう。

この「たとえ話」は、「永遠の命を得ることはクリスチャンになることとは別問題」だということが理解できなければ、決して、正しく理解することは不可能でしょう。(このことについては下の記事で扱っています)

さて、話しの概要はこういうものです。
主人の財産を浪費しているのが発覚し、クビになるのは避けられないと知った、ある管理人が、そうなったときのための方策として、主人に債務のある者を呼んで、その契約書を偽造して負債を軽くしてやることにより、恩を着せ、後でその見返りとして、自分の面倒を見てもらおうとする。というものです。
どう考えても、不正の上にさらに不正を働いて自分の利益を計ろうと言うのですから、とんでもない話しです。
ところが、この例えの主人は、[意外なことに]を通り越して、驚くべき事に、その不忠実な奴隷を褒めるのです。
その理由として挙げられたのがこれです。

「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」(ルカ 16:8)

もちろん「不正」を褒めたわけではありません。「抜け目のないやり方」をしたことに注目しているのです。
しかも、(サタン支配下の)この世で生活している人々は、そうした実利的な知恵に対して、「光の子ら」(クリスチャン)より賢いと言って褒めているのです。

「ええー そんなことでノン・クリスチャンが褒められるのなら、自分ももっと抜け目なくやらないとダメなのかー」などと考えないでください。
確かに「こりゃぁ 一体全体どうなってるんだ。何かの間違いぢゃないのか!」と一瞬思ってしまうほど、不可解な内容で、聖書中で、極めて難解な部分の一つと言われるのも確かにうなずけます。 そして結論はこうです。

続けて「主人」はこう付け加えます。
「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、【彼らは】あなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」(ルカ 16:9)新改訳 【】は私の挿入です。

ここで【彼らは】に注目した理由はこうです。
新共同訳は原文のギリシャ語に含まれる、[ギ語:デコーンタイ](彼に受け入れられる)「彼らは」を省いていて、誰が永遠の住まいに迎えてくれるのか不明瞭なので、ここは新改訳を引用しています。

【彼ら】とは一体誰なのでしょう。はたして、「永遠の住まい」はこんな「友達のよしみ」で、しかもこんな不義の人が、ついでに入れてもらえるものなのでしょうか。
この解き明かしをする前に、例えの残りの部分をまとめて整理しておきましょう。

「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」。(16:10-13 )

この結論の部分と たとえ との繋がりも難解です。
内容の区分をしておきますと、1-8までが例え話しです。9節は「不正な家令」に関するたとえ話の「適用」としてキリストが解説された部分です。つまり、不正の富を用いて友達を作るという実際的な知恵を働かせることの有用性に注目させています。

そして残りの10-13節は例えに関連してはいますが、例えの適用ではありません。それはすでに 9節で終わっています。
明らかにこの部分は内容的にはむしろ正反対の事を述べています。

「あなた方」クリスチャンが、この世での金銭の扱いや、他の人の資産に対して不忠実なら、誰が真実なもの、つまりさらに貴重は霊的な富、そしてその報いである、神の国での立場などを与えるでしょうか。 ということであり、この点から言えば、先の「不忠実きわまりない管理人」は完全に落第です。

そして、最後に「不正の」は、ともかくとして、「富」についてのクリスチャンとしての健全な見方、とりわけ、「富」が人の霊的な視力を損なう影響力を持っていることに注意を促しておられます。
10-13節をまとめますと、「不正の富に不忠実=No!」「富=神のライバル」ということです。

この1-9節と10-13節の食い違いは、どういうことでしょう。
この理解のヒントは冒頭の16:1と、結論の次の聖句16:14から得られます。

「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」16:1
「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」16:14
もともと、この話を始められた経緯はこうです。
「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。」15:1-3

ですから話の対象は主に「徴税人や罪人」たちであり、ファリサイ派も傍聴していたということですが、「不正な管理人」の部分に関しては、「弟子たちにも」向けられたということです。
それで、「ですから、あなたがたが・・」と述べているように弟子たち向けのストレートな部分が10-13節であり、1-9は弟子たちにとっては「参考資料」といったところでしょうか。
この話を聞いていた「徴税人や罪人」たちは、自分たちの富の用い方に関して、神との関係の中で「抜け目のないやり方」とはどういうことなのか考えさせられるものとなったことでしょう。

これで、この一連の話しは終わりとなりますが、ここで「不正の富」で友を作る」とはどういうことなのかを明らかにしておくことにしましょう。
まず、推察して分かるのは、友にすべき【彼ら】とは何らかの意味で「永遠の住まい」に関わりのある人でなければならないということでしょう。
そして当然、「永遠の住まいに迎えてくれる」とは、「永遠の命が与えられるということに他ならないでしょう。
さらに言えば、その人【彼ら】が、自分をそこに連れていってくれるわけですから、ほぼ確実に【彼ら】自身は、永遠の住まいに住むことになっている人のはずです。
であるなら、それはつまり「召し」を受けたクリスチャンのことに違いありません。

そのように言えるさらに別の点は、それらの人は主人に債務がある人々だということです。 キリストの弟子は、その主人に対して果たすべき努めを負っています。タラントのたとえ話でも「彼らとの勘定を清算」する時について述べています。
では、不正の富をどのように用いて、クリスチャンが主人に対して負っている努めを幾らかでも軽くしてあげることによって、彼らを「友達」にすることができるのでしょうか。
そのことが具体的に示されているのがマタイ25章35節以降です。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』。・・・『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。・・・『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
・・・正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」マタイ25:35-46

それで、「抜け目のない」やり方であったとしても、クリスチャンに善行、同情、支援をした人は、その行為の故に、キリストはそれをご自分に対するものと、敢えて好意的にみなされ、滅ぼされることなく「終わりを生き残り」その後の千年王国の支配に順応するならば、永遠に続く命を得る見込みが与えられるということでしょう。

それはあたかも、面倒をみてあげた友達が、自分を永遠の住まいに行けるように一役買ってくれた状況だというのが、この例えの意味する所でしょう。
ところで、この「永遠の住まい」と訳されている部分のギリシャ語は「永遠の天幕(テント)」という語が使われていますので、やはりその語句のニュアンスからも、地上の住まいであり、しかも、 「家」ではないので、当分仮住まいという感じがします。

ヤギとは違う「羊」と認められた人々、すなわち「不正の富」(サタン支配下の政府発行の紙幣等)を意識的に「クリスチャン」のために有効活用した「管理人」に告げられる言葉がこれです。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。マタイ25:34 (新改訳)
  (ここでも敢えて「新改訳」から引用した理由を「巻末」に記しておきます)

最終的に「永遠の命」が確定するのは千年後に「命の書」に名前が書き込まれる時ですから、その見込みに入れると言うことでしょう。
これらのことが、さほど明確に語られず、むしろ、殊更に分かりにくく描かれているのは、恐らくその温情につけ込んで、その救いを侮る事がないようにという神の親心からなのではと私は考えております。
「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」ローマ2:4

このたとえ話に先立って語られた「失われた1匹の羊」「放蕩息子」などから、この「神の温情」の奥深さがよく示されています。
それらの話しの中では、神の厳しさより、 神の本音というか優しさが際だっていると言えます。

かつて私はこう感じました。
「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 とは一体どういうこと?
まだ「同じくらいの喜びが…」なら分かりますが、「…義人以上の喜び」は、喜び過ぎではないのか・・などと。 しかし今は分かります。

神の救いを受ける人々(基本的に全人類)とその救いを供給する側である、キリストと花嫁(「王また祭司」としての役割を担うことになる)とは、同じ「救い」といっても異なっていますし、その両者に対する神のご計画や扱い、要求を区別できないために、ありとあらゆる、奇妙な教理や解説が出回ってしまっているようです。

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巻末: (下記は、この記事の論題とは直接関係ありませんが、良い機会なので、ここに記しておこうかと思います)
マタイ25:34を新共同訳から引用しなかった理由はこれです。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」新共同訳

「天地創造の時から」?
「神の国」が用意されたのはいつか、明確には記されてはおりませんが、考えられるもっとも早いタイミングとしては、創世記3:15の「女の子孫」に言及されたときでしょう。この中に、メシアの到来、贖い、すべての神の解決法が含まれています。

つまり「罪が生じる以前には当然必要のないものです。
「神の国」は2面あります。治める側の「天の国」と治められる側の「千年王国」つまり地の国です。

「世の始めから」(新改訳)、「天地創造の時から」(新共同訳)と訳されているのは次の部分です。

マタイ25:34-3

新共同訳がここで「創造」と訳している語は
「ギ語:カタボレー (名詞)」でκαταβολή 基礎、depositing 寄託,
sowing 種蒔き,deposit 寄託 などの意味を持つ語で、ギ語:カタバロー (前置詞kata 落ちる、向かう + balló 投げる)という動詞から派生した語です。

「年齢が盛りを過ぎていたのに子を【もうける】(ギ語:カタボレー)力を得ました。ヘブライ11:11(字義的には「胤の基礎」)

字義的には「世界の基礎から」という意味である。[the foundation of the world]を新共同訳は一貫して「天地創造の時」と訳しているのです。
これは、意訳どころか全くの誤訳と言っていいでしょう。
なぜなら、それでは、完全に時系列が破壊されるからです。以下に数例を挙げますが、もうめちゃくちゃです。

「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について」 
ルカ11:50
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
エフェソ1:4   
「キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。」ヘブライ9:25,26
「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」黙示13:8




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