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隠されているもので知られずに済むものはない - [ 黙示 ] に関する考察

「黙示録」という単語を画像検索すると、身の毛のよだつような、あるいは気が滅入る用な画像ばかりが出てきます。本当の黙示録とこれほどのイメージのギャップのあるものは他にないでしょう。
アポカリプスは闇に光が注がれるような出来事です。

聖書の最後の書「黙示録」、この書の名称は、冒頭の1:1の単語に由来します。
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」(黙示録 1:1 )

「黙示」とは何でしょうか。

【黙示(もくし、ギ語:?ποκ?λυψι?、アポカリプス)は、初期のユダヤ教およびキリスト教において、神が選ばれた預言者に与えたとする「秘密の暴露」、またそれを記録したもの。黙示を記録した書を黙示文学(もくしぶんがく)という。(Wikipedia)】

※黙示録はキリストからの啓示の書なのに、「黙示」というネーミングはまったく正反対の意味の書名と言えます。「黙示」とは「秘密の暴露」という意味だと言うことですが、この語が用いられている他の幾つかの聖句を拾い上げてみましょう。

「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に [ 現れる ](アポカリセオース)でしょう。」(ローマ 2:5)

「主イエスが力強い天使たちを率いて天から [ 来られる ](アポカリプセイ)とき、神はこの報いを実現なさいます。」(テサロニケ第二 1:7)

「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが [ 現れる ](アポカリプセイ)ときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(ペテロ第一 1:7)

これらの用法からみますと「アポカリプス」には、秘密の暴露という意味だけでなく「顕現」(意:神などがはっきりした形をとって現れること。)という意味もあることが分かります。

「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を [ 啓示する ](アポカリプシン)ものです。(ローマ 16:25)

「福音」とはすなわち「啓示」そのものであるということも分かります。

「初めに手短に書いたように、秘められた計画が [ 啓示 ](アポカリプシン)によってわたしに知らされました。 あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。」(エフェソ 3:3)

「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの [ 啓示 ](アポカリプセオース)によって知らされたのです。」(ガラテア 1:12)

「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と [ 啓示 ](アポカリプセイス)してくださった事について語りましょう。」(コリント第二 12:1)

これら(エフェソス、ガラテア、コリント)の記述をみると、パウロはこれらの書簡を、キリストから直に与えられた啓示について記していると言う事ですから、言ってみれば、「パウロの黙示録」と言っても何も差し支えないということです。
少なくとも「キリストによる黙示」を与えられたのは使徒ヨハネだけでない。ということが分かります。

結局、聖書筆者たちは皆、何らかの啓示を与えられ、それ故にその書き記された書が聖書の一部として残されてきたというこなのでしょう。 それで「アポカリプス」は神の隠された目的(秘儀、奥義)の啓示と、人間の闇の業の秘密の暴露の両方が扱われていると言えます。「秘密の暴露」についての言及は少なくありません。それらの幾つかを列挙してみましょう。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」(マタイ 10:26)
「暴かれるためでないのに隠されているものはなく,あらわになるためでないのに注意深く秘められているものはありません。」(マルコ 4:22)
「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」(ルカ 8:17)
「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(コリント第一 4:5)
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカ 12:2‐4)

「ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。」(テモテ第一 5:24‐25)

これらは、明確な預言と言うよりは「神の摂理」ともいうべきもので、いずれ必ずこのようになる、という類の表現かも知れませんが、次に挙げる明確に「預言」として記されているペテロの記述を「秘密の暴露」という観点から捉えてみたいと思います。

「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。」ーペテロ第Ⅱ3:10-12 新共同訳

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この聖句について、一部の人々は、文字通り「地球、宇宙の破滅」と捉えているようです。また、ほとんどの聖書学者、牧師、聖書注釈書は、「終わりの日に天変地異が生じる」「この地球と天体は滅び去る定めにある」と言うような解説をしています。そして続く節も文字通りに新たな天体と地球が造り直されると述べる牧師などは少なくありません。

《しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。》ペテロ第二 3:13

そうした解説者たちは、地は神の足台として永遠に保つと営所にはっきりと記されているだけでなく、実際、都合が悪くなったら、新しく造り直せばいいというものであれば、全能者という認識は永遠に崩壊することになるということぐらい思考できないのでしょうか。

神の言葉は絶対であり、永遠というのが基本認識です。
昔、あるプロ野球チームの有名な選手が現役を引退する際に「我が○○軍は永久に不滅です」と語ったという話がありますが、実際にそんなことは決してありません。

しかし神の言葉や業は文字通り「永遠に不滅」です。
あるいは昔から「武士に二言はない」という大和魂というか日本男児の心意気を著した表現がありますが、神に二言はありません。
この地が文字通りに崩壊し、新たに設けられるなどという解説は神の業を愚弄するものであることを自覚するべきです。
これほどの勘違いと言うか、聖書と神についての無知さの程は呆れるばかりです。

さて、ちょっと話が逸れましたが、まあ確かにペテロの記述は難解です。中でも特に、難解とされているのは、10 節、12節の「自然界の諸要素」という表現です。
これはギリシャ語で「ストケイア」と言う語ですが、その意味は「天体、原基、要素、初歩的な原則」などとされていますが、あまりにも広範な意味と漠然とした表現の故に、実に様々な解説があるようです。
一例を挙げますと次のようなものです。

「『ストケイア』は(キリストの時代の前)に教え込まれた ... 人類の初歩的な宗教的訓練、あるいはユダヤ人の礼拝と異邦人の儀式戒律の似ている共通の要素を指す(J. セヤー)。
改訂標準訳聖書※では、"elemental spirits" (精霊)、すなわち "spiritual powers"(霊的な力)あるいは "cosmic spirits"(宇宙霊)であるとしています。
※「改訂標準訳聖書(英語:Revised Standard Version, 略称:RSV)は、20 世紀中頃に出版された英語の翻訳である。1525 年のウィリアム・ティンダルの新約聖書の翻訳に歴をたどることができる。1901 年のアメリカ標準訳聖書(American Standard Version)の公認された改訂版である。」

参考までに、この「ストケイア」がどのように訳されているか、他の幾つかの翻訳を挙げておきましょう。[ ] 内がストケイアの訳語です。

「諸天は大きな音をたてて去り行き、[ 天体 ] は火に包まれて崩壊し」 (岩波翻訳委員会訳)
「天は響きを立てて消え、[ 天体 ] は燃えてくずれ」 (前田訳)
「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、[ 天の万象 ] は焼けてくずれ去り」 (新改訳)
「天は轟然たる響きと共に消え失せ、[ 日月星辰※] は燃えて解け去り」 (塚本訳)
※(日月星辰(にちげつせいしん) 意:太陽と月と星。)
「天は大音響をたてて消え去り、[ 天体 ] は焼けてくずれ」 (口語訳)

ストイケイアが使われているペテロ以外の他の聖句:
ガラテア 4:3;4:9、コロサイ 2:8、20、ヘブライ 5:12
これらの聖句を引用して、順に考察することによって、パウロがこの語をどのように理解し、イメージしていたのかが分かります。(このように、同一の語が、聖書中のどこでどのように使われ、そこでどのような訳語が当てられているのかを比較検討する手法は、伝統的な神学や単なる憶測ではなく、聖書そのものが伝えるメッセージを捉えるのに優れた方法だと思っています。)

ガラテア 4:3 の考察:[ ] 内が [ ストケイア ] の訳
「わたしたちも、未成年であったときは、[ 世を支配する諸霊 ] に奴隷として仕えていました」(新共)
「・・・[ 宇宙の諸力 ] のもとで奴隷状態にさせられて」 (岩波)
「・・・[ この世の諸霊力 ] のもとに奴隷で」  (前田)
「・・・[ この世の幼稚な教え ] の下に奴隷と」 (新改)
「・・・信仰のいろはである地水火風というような)この世の元素の霊]の(支配の)下に奴隷に」 (塚本)
「・・・ [ この世のもろもろの霊力 ] の下に、縛られていた者」 (口語)

ペテロⅡでは主に「天体」と訳されている同じ語がここでは「霊」を含んだ訳が多く見られますが、これは前述した「改訂標準訳聖書」の見解を踏襲したものと言えます。
字義的には「ストケイア」に「霊」を意味する、あるいは暗示するニュアンスは含まれていません。
このガラテア 4:3 の前後の文脈を要約すると、「未成年者は全財産の所有者であっても、後見人や管理人の監督の下にある。同様に , 我らも「ストケイア」の奴隷であるが、キリストが遣わされ、律法の支配下から贖い出された故に子とされたので、もはや奴隷ではない。」(4:1-7)という内
容からすると、「ストケイア」で表現されている比喩は「後見人、管理人」、「律法」を指して用いられていることが分かります。

これは、同じ文脈の少し前の方に記されていることからも、明らかです。

「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラテア 3:23 -25)

それでパウロは、律法の役割を「養育係、監視役」というイメージで捉えていたことが分かります。
それをまた、別の「ストケイア」で表現していることが分かります。

コロサイ 2:8、コロサイ 2:20 の考察:
「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を [ 支配する霊 ](ストケイア)に従っており、キリストに従うものではありません。」コロサイ 2:8
(字義訳:「それはキリストによらず、世のストケイアによるもの)
「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を [ 支配する諸霊 ](ストケイア)とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き・・」(コロサイ 2:20)

ここでも、続く文脈からパウロが「ストケイア」という語にどのような意味あいがあると理解していたかが分かります。

「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。」(2:21,22)

コロサイから分かるのは「人間の言い伝え、哲学、戒律、人間の規則や教え」などが「世のストケイア」によるものとしていることが分かります。

ヘブライ 5:12 の考察:
「 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の [ 初歩 ](最初のストケイア)を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。」(ヘブライ 5:12)

続く 6:1 に「基本的な教えを学び直す」という表現があることからも、ここでは「ストケイア」は「(基礎的)な教え、知識」という概念で語られていることが分かります。
これらのストケイアの用法を総合して判断しますと「要素」という漠然とした単語ですが、それには、律法や教えなどの概念があることから、恐らく、法律、条約、条例、常識、教育、世情、世論、世間体、ステイタスなどが含まれると捉えて良いでしょう。

これらのことをふまえて、改めてペテロⅡ 4:10 を考えますと、そこで挙げられている四つのもの、つまり「天」「ストケイア」「地」「地の業(地で造り出されたもの、地の中のなりわい)」という表現を分析しますと、二つにまとめられると考えられます。つまり「天と天の業」、そして「地と地の業」ということです。

これはすなわち、これらが過ぎ去った後に「新しい天と新しい地」があると言われているように「今ある天と地」とは人間を支配してきた側と支配されてきた側という意味であろうと思われますので、その意味するところは、分かり易く表現すれば「政府とその法令など」と「人類社会とその常識」
(その中には当然、あらゆる宗教上の誤った慣行、教理なども含まれるでしょう。)
などの人間を奴隷にしてきた要素は全て、火によるかのように跡形もなく完全に消滅する、そしてその具体的な手だてが「白日の下にさらされる完璧な暴露」ということでしょう。

そして、新たにキリストとその花嫁が王また祭司となって 1000 年間治め、その元に、人間製の法律や常識の奴隷状態から解放された新しい人類社会がその後に続くという事だと考えられます。
さて、この預言が成就するタイミングですが、これは「主の日」に起きるとされています。つまり「終末期」であり、これは後半の3時半、42 ヶ月、二人の証人による証しの業によって決定的なものになるのであろうと考えられます。

しかし、少し前のペテロⅡ3:3,4 には、 「まず次のことを知っておいてもらいたい。終りの日々になると、嘲る者たちがやって来て、嘲笑うであろう。彼らはおのが欲望のままに歩み、次のように言う、「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠りについて以来、すべては創造のはじめからそのまま存続している」と。」とあるように「終わりの日々(ギ語:エスカトン トン ヘメロン)英:last of the days)」の出来事、つまり「主の日」に至るまでの前の時代に言及しています。

(「主の日」はすでに大患難の時であり、「主の臨在はどうなったのか」などと言ってられる時ではなく、すでにそれに突入していることが明らかになっている時です。)
それで、人間の業の暴露は、主の日までの短い期間、つまり「終わりの時の困難な時期」(テモテⅡ 3:1)である、最終部分の日々に明らかになり始めるのであろうと考えられます。
つまり、少しづつですが、闇の支配者、闇の業などの陰謀はすでに暴露されつつあるようですので、今日「DECLAS(機密解除)」の動きとして現在この預言は成就しつつあるのかもしれません。

さて、この「天と天の業」「地と地の中の業」について、別の角度から考察してみたいと思います。
これらの四つはいずれも全て「人間の業」に他ならないのですが、「終わりのしるし」として挙げられている要素に関して、福音書と黙示録の4頭の馬の記述の中で示されているのは、偽預言、戦争、地震、疫病、飢饉などです。
地震は天災と認識されています。疫病の蔓延も多くの場合不可抗力であり、いわゆる自然災害の類です。飢饉も同様に天候不良などによる影響のためで、やはりこれも天災とされています。
私は、かつて、その時代に、いわゆる自然環境の変化、つまり地球やそれを取り巻く宇宙環境により、地殻の変動や異常気象、ウィルス等の突然変異、異常発生などが多発するようになる時期と、人間の行為である戦争や偽預言が重なり合う時代になることが預言されているのだと考えていました。

しかし、聖書の記述では、これらの出来事は、白、赤、黒、青白い馬の登場によって「引き起こされて」いるものです。つまり意図的に生じさせているということです。
つまり「終わりのしるし」の災いは、どれも全て人工的、人為的なもので「100%人災」であり、天災(天からの災い)が関与することは全くないと言えます。
同時にそれは、人間が単に他の人間を攻撃するだけに留まらず、また、大気汚染、森林伐採などの環境破壊をさえ超越した、さらに悪質な、意図的な破壊行為、気象兵器、生物兵器、ワクチン強制などの医療行為詐欺、放射能汚染など、人類と地球に対する暴挙悪行の限りを尽くそうとすることなのでしょう。

黙示録には、第7のラッパが吹かれた時に関する記述に「地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来ました。」(黙示録 11:18)という表現があります。
「偽預言」の範ちゅうに政治的なプロパガンダ※も含まれると考えられます。そうであれば、いわゆるマスメディアなども「偽預言者」と言う取り巻きの中に含まれるに違いありません。

※(「プロパガンダ:( 英 : propaganda) は、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為である。通常情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。」)

人類の大多数を騙し、搾取し、隷属化させるために、人工的なウィルスなどの開発、製造、拡散、気象制御、地震誘発など手段を選ばないテロ行為などを行って来た者たちの正体は、ことごとく暴露され、そして「地を滅ぼす者」として主の力により断罪される事になります。


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