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マタイ24章の「例え話」の真意 シリーズ3部作 Part1[忠実で賢い僕]

■「目覚めている」とは?

キリストの再臨に関して 36 節から 44 節に、目覚めているべきことが強調されています。しかし、通読していて「??」と思ったことはありませんか。
まずその部分を引用しておきます。

《その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。…… だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。 あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。》- マタイ 24:36-44 ( 一部省略 )


「その日、その時は、だれも知らない。」(36)「いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からない」(42)。つまり「いつなのか知らない、分からないゆえに目覚めていなさい」と語られているのに、「泥棒が夜のいつごろやって来るかを【知っていたら】目を覚ましてい」るはず。と続いているわけです。

「目覚めているべき」というこのマタイの記録を、同じ内容の黙示録の記録と混同していると「???」と困惑させられます。

《だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。》ー黙示 3:3
《見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。》- 黙示 16:15

似ているようで実は異なっているのです。
比べて見ると分かるのは、福音書の方は「目覚めている」目的は「泥棒(盗人)」に入られないように用心する【例え話】であり、黙示録の方は2つとも「わたしは盗人のように」という表現で、キリストの到来の仕方に関する【比喩】です。

それで、マタイの方の例え話の「どろぼう」は到来するキリストを指しているわけではなく、ゆえに「中に入らせないように防護する、そして当然追い返す」ということになります。
しかし盗人のよう思いがけずに来られるキリストは逆に迎え入れるべき方です。

しかし、どちらも「目覚めているべき」と「盗人」に関するイメージはリンクしているわけですが、「目覚めている」とは言っても、(あくまで例えの中の話として、文字通り)闇雲に四六時中というわけにはいかないのも現実です。

ですから、現実的な観点からの実際的な知恵として、マタイの例え話の「知っていたら」という表現の中に読み取れるのは、どの日、時刻は誰も知らないが、目覚めている度合いや緊張感などのバランスを保つための手立てとして、

しかし終わりまだだから慌ててはいけない。~
このときは上着を取りに帰ってはいけない。」まで、

様々な段階があり、いちじくの例えどおり、「夏の近いことは」知り得るように、すべてのことを見たなら主が「戸口に近づいた」ことは「知り得る」ということで、結局「目覚めている」とは、他ならぬ、常にキリストの思いを鋭く意識しつつ、いざ、これら預言された出来事が実際に生じ始める時、そしてのその後の進展に「鋭い注意を払うこと」ですから、「知っていたら」というのは「その日、時刻を」ではなく、「近づいている」と間違いなく確認できる兆候を正確に「知っていれば」ということでしょう。

《もし、目を覚ましていないなら…》(黙示 3:3)
ということは、目を覚ましていれば「盗人のよう」ではない言うことです。

《しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。》-Ⅰテサロニケ 5:4

■「忠実で賢い僕」について

《だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。  まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。》マタイ 24:44-51

「新改訳」では「家のしもべたち」を任された「忠実な思慮深いしもべ」と、両方共「しもべ」で分かりにくいので、ここでは新共同訳の訳語で解説します。

「主人がその【家の使用人たち】(ギ語:オイケテス:単数形)の上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い【僕】(ギ語:ドウロス : 単数形)は、いったいだれであろうか。(24:45 )

【家の使用人たち】も忠実で賢い【僕】も原語では両方共、単数形です。
ただ、「オイケテス」は「オイコス(家)」からの派生語で「家族のために働く家庭奉仕人」のことで、ほとんどの英語訳はこれを 「household 」と訳しています。
「オイケテス」は 「家の使用人たち」というふうに「家」を伴って訳される場合が多く Family,team, class などと同じように、いわゆる集合名詞として、単数でも複数形に訳されることはあります。
もちろん オイケテスの複数形も随所に見られます。
一方「ドウロス」は単数、複数の区別があります。

それで、厳密に言えばこの例えは、おそらく数人からなる「家の使用人たち」の一団の食事の世話を任せられた「僕」の内、どのような認識、特質、行動を現す者が「忠実で賢い僕」と主人からみなされると思うか。(主人はそうした個人に注目する)ということのようです。
「塚本訳」 ではこのように訳されています。

「(旅行に出かける)主人が一人の僕を(えらんで)奉公人たちの上に立て、時間時間に食事を与えさせることにした場合に、いったいどんな僕が忠実で賢いのであろうか。」

ともかく「忠実で賢い僕」を選んだのではなく、主人が帰宅した時に、任された仕事をちゃんと果たしている僕が、その時点で「忠実で賢い僕」と見做されるということです。
24:45 は関係代名詞「ギ語:ホン (whom)」を挟んで 2 つの文節からなっています。
まず、先行詞は(忠実で賢い)「しもべ」です。そしてカンマで区切られ、続いてその関係詞節(下画像 whom以降)(さらに詳しい説明となっている文)が「家の使用人たち」に食物を供えるという仕事を任せた。という部分です。

つまり、まず「賢くて忠実なしもべは誰か?」と訪ね、「それはつまりこれこれの僕のことだけど」という構成になっています。
「忠実で賢いしもべ」が「誰」なのか分かっていない(特定されていない)ということです。
まだ証明されていないからです。
「誰でしょうか?」と尋ねられているのは、あなたはどう考えますか。どうすれば自分もそのように見做してもらえると思いますか。と各自に考えさせるためでしょう。

「仕事を任される」一つの目的は、それを身をもって証明するために課されたテストとしての役割を持っているということでしょう。
主人のお眼鏡にかなうのは「帰って来たときに、そのようにしている」僕です。
他方、ふいに帰宅した主人に、仕事もせず醜態を見られてしまうなら、「悪い僕」として厳しい罰を受けることになる。
つまり再臨が実際になされるその時点までは誰も、どちらの側かは区別されていないということです。

これがまず「例え話」の基本的な内容です。
この悪い「僕(ドウロス)」も単数形です。
「たとえ話」を読む限り、仕事を委ねられた一人の僕が、その態度によって「忠実で賢い僕」にも「悪い僕」ともみなされ得ることを示しているのか、複数の僕に仕事が割り当てられたのかは定かではありません。

■「忠実で思慮深いしもべ」は未だ一人も存在しない

これは預言的な例え話ですので、これが適用される成就の場面を考えて見ましょう。

この例えはともかく、キリストが到来されるその時に、どうしているかということでありその時点で生きている人に限定されます。
仮に、長年忠実に「そうしていた」としても、再臨前に亡くなった場合その範疇には入りません。
あくまで終末期の期間内での出来事です。

「例え話」では「忠実」さが求められていますが、なぜか、長年ずっとそうしていたかということを問題にしていません。
「悪い僕」の場合も同様です。主人の不意の帰宅のそのタイミングでのことしか問題にしていません。
なぜなら、そもそものこの話の目的が、「人の子の思いがけない到来に備えて、用心している」べきことを明記させるために話されたものだからです。
このことは言い換えれば、いつ仕事を託されたかとか、西暦何年に食物分配係として任命されのかなどという発想がまったくのナンセンスであるということでもあります。
そして、主人の帰宅つまりキリストの到来は「大患難」後ですから、この例えが当てはまる人は未だ一人もいません。

「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」- マタイ 24:29,30

■御国に関するすべての例え話の共通点

たとえでは、忠実な僕も、家の使用人も、悪い僕もみな単数形ですが、現実の成就においては当然、非常に多くの人が関係します。
他の喩えや預言でも皆共通して、終末期には主に受け入れられて天の御国に入る人と、退けられる追随者の2 グループが描かれています。

【小麦と毒麦】
「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」- マタイ13:,42

【魚の引網】
「網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」-マタイ 13:48-50

【王の婚宴】
「そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」- マタイ22:13,14

【10 人の娘】
「そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。」- マタイ25:11,12

【タラント】
「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。 」-マタイ 25:30

【狭い戸口】
「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、
はいれなくなる人が多いのですから。
家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。ルカ 13:24-28

「しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」。- マタイ 8:12

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」- マタイ 7:22,23

もう一度「小麦」と「魚の引網」に注目してみたいと思います。

「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」- マタイ 13:39-43

天使たちによる刈り入れの手始めは「毒麦を集める」「 つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせる」ということです。
つまり、小麦が収穫され、毒麦は刈られず放っておかれるのではなく、まず、毒麦の方を残らず刈り取って「集める」ということです。
次に小麦の方が収穫されます。どこにですか。「天の父の御国」にです。

「魚の引網」の例えも同様の手順です。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、 火の燃える炉に投げ込みます。」- マタイ 22:49,50

まず、み使いによって、先に悪い者が選り分けられます。

「毒麦」である不法を行う者どもが、キリストの国つまり、Christendom(キリスト教世界)、クリスチャンを自認する全ての人々の中から、採り集められるということですが、この「集める」ということが、現実世界でどのように見られるのかは、その時が来ないと分からないでしょう。

■先に悪い僕すべてが地上で集められてから、忠実な僕が天に招集される

しかしともかく、「成就」として見極めやすいのは、是認されたクリスチャンが天の御国に入ることよりも、退けられたことを悟ったクリスチャンが全世界におり、しかも何らかの仕方で「集められている」と表現される状況が見られるということです。
「小麦」にしろ「良い魚」にしろ、この収穫、漁獲は、その時生きている人々に限定されますので、この採り入れは「復活」ではなく一般に「携挙」と表現される出来事(私は、「空中携挙」や「患難前 / 中携挙」などと表現されている様々な教団 / 個人の教義の特定のイメージを払拭するために、単純に「Ⅰテサロニケ4章」の「生きたまま空に挙げられる」という記述そのものを端的に表現する名称として「生継空挙」と呼んでいます)ということになります。

「忠実で賢い僕」「小麦」「狭い門を入った」等と表現されるクリスチャンが、この「生継空挙」を経験する時、文字通り全世界のそこかしこで、突如空中に上がってゆくのを目撃するのであれば、前代未聞の出来事ですが、実際に一般の人々にどのように認識されるのか、その時になって見なければ分かりません。
しかし、「入ろうとしていたのに入れなかった」「招待されていたのに選ばれなかった」ことを自覚する、地に残された「大勢の人」の存在は,否が応でも明らかになります。

全世界で『ご主人さま。あけてください。』と叫ぶような出来事、「泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする」程のパニックに陥った世界的大集団が生じたら、聖書もキリスト教も知らない人々にも、何事が起こったのかははっきり分からなくても、とてつもなく大変なことが起きていることは分かるでしょう。

ですから、そのような集団も見られず、大患難も起きていない訳ですから、今のところ「忠実で賢い僕」も存在していません。
最終的に「忠実で賢い僕」とされる「食物を任される僕」とは、次の聖句などで言及されている大患難の際に起こされる、証の業を行う人々のことに違いありません。

「自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。民の中の【思慮深い人たち】は、多くの人を悟らせる。」- ダニエル 11:32,33
「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民(イスラエル人)で、あの書にしるされている者はすべて救われる。 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。【思慮深い人々】は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」- ダニエル 12:1-3

「それから、わたしがわたしの【ふたりの証人】に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」ーマタイ 24:14

「人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」-マルコ 13:9-11

大患難の最中にこの世界的な証の業(食料の分配)を行うには「忠実さ」だけでなく、一層の「思慮深さ」も同時に求められることでしょう。


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