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人はなぜ願望と逆のことを言ってしまうのか

主語の設定が強気すぎんか?
それはそれとして、自問自答ファッション講座で私が張っていたクソデカ見栄に気づいてしまった事実を報告します。人がなぜ願望と逆のことを言ってしまうのかの答えはこの投稿に含まれていません。残念ながら私にもわからないのです。

結論から述べると私は実のところかわいくなりたいしめちゃくちゃ愛されたいです。ステイゴールド(競走馬です)のキャッチコピーとか理想すぎる! あと賢さとハートの強さがほしいです。

ここにおける「かわいい」と「愛される」がどのような状態であるかの話をしますね。これはどちらも私にとっては「望まれる」存在であることを指します。
生きていると自分の存在意義であるとか人生の意味であるとかそういったことをあれこれ思い悩むものです。自分のような人間がこの世に存在していることが許されるんだろうか、という不安。これはおそらく一生ついて回るものです。え、全然そんなこと思ったことないですか? そうですか。でも私にはついて回っているのでそういうものとして考えてもらって……。なので私のかなり根っこのほうにある願望は「(存在することを)許されたい」です。
で、この願望がさらに進むと「望まれたい」になります。許されるどころかいてほしいとすら思われたい。そこまでいけたら超安心。存在していいどころか存在することがメリットになりうる。盤石ですね。より多数の人のメリットになれたらさらによい。

「かわいい」「きれい」「かっこいい」のワークがありましたけれども、「きれい」「かっこいい」も望まれる存在であるにかかわらずどうして「かわいい」なのか。それはこれら3つのなかで唯一力の抜けた存在が「かわいい」であると考えるからです。パワーの必要度でいえばかっこいい>きれい>かわいいではないでしょうか。
「かっこいい」は力強いエネルギーの放出、あるいはストイックにそぎ落とされたものに見出されるかと思います。個人の能力が最大限に発揮された状態ってかっこよくないですか。たとえば一流のスポーツ選手。熟練の職人による作業風景。わかりやすい技術でなくとも、会社勤めの人が真剣に仕事に打ち込むのはかっこいいと思います。見た目はかわいらしいアイドルでも日々の研鑽に裏打ちされたパフォーマンスはかっこいいですね。
「きれい」は自然の奇跡、あるいは綿密な計算によって生まれたものに見出されるかと思います。たとえば世界のさまざまな絶景。緻密に整えられた庭。指先まで気を使った所作。整ったものはきれいです。アンバランスなものもまた絶妙なアンバランスに整えられているように思います。
「かわいい」だけは力が抜けていることもありうるように思います。動物や赤ちゃんはありのままでかわいいですね(動物はあらゆる年齢でかわいいですが人間はそうではない。動物はいつでもとってもかわいい。いいですね?)。ゆるキャラなんて名前からして「ゆる」キャラです(ゆるキャラ自体はデザイナーの努力によって培われた技術から生み出されるので出自としては「かっこいい」から発生したものとも言えますが)。前述のアイドルのように持って生まれたものだけでない研鑽によるかわいさももちろんありますが、「かっこいい」「きれい」と比べて「かわいい」の間口は広いように感じます。私はかつて赤ちゃんだったり幼児だったりしましたので、「かわいい」だけは言われたことがあるのです。

で、どうして「かわいい」とか「愛されたい」に対してメンタルブロックがかかっていたのかという話をします。
きっかけはおそらく小学校3年生か4年生かそれくらいの頃です。今の時代の小学生がどうかは存じませんが、当時はなんらかの行事があった場合は学校で写真屋さんに依頼してその様子を撮ってもらっていたのです。行事のあとに現像されたものが廊下とかに貼り出されて番号が割り振られて、自分の写った写真(のうち希望するもの)の番号を申請して購入するという方法がとられていました。それで、私は今でいう他撮りを見ることになってこう思いました。「私ってものすごいブサイクだな!」と。
なぜその時になっていきなりそう思うようになったか。大きな要因は度の強い眼鏡をかけるようになったことです。子どもの頃の私はいわゆる本の虫で、外が暗くなってきたことにも気づかず夢中で物語に没頭していました。電気もつけずにページに顔を近づけるようにして文字を追っていたものですから急激に視力が低下し、あっという間に0.2程度にまで落ち込んでしまいました(今はもっと悪いですし乱視も追加されました)。今でこそおしゃれな眼鏡も色々と選べますし自分で稼いだお金で購入する選択肢もありますが、子どもの時分では選択肢も限られます。母に連れられて眼鏡屋さんに行き、迷いながら選んで買ってもらったのはつるの部分にスヌーピーのイラストが入った子ども用眼鏡でした。自分で選んで気に入ったもののはずでしたが、写真のなかの自分はあまりに冴えない。それまで特に気にしたことのなかった外見へのコンプレックスがその時に初めて生まれたのではないかと思います。それから写真撮影をものすごく嫌うようになり、高校にいたっては卒業アルバムに私の写真が載っていません(厳密には卒業アルバムではなくそのようなものであって、撮影に参加するかどうかは任意でした)。コンタクトレンズを使うようになっていたにもかかわらず。
私には「かわいい」の土俵に入る資格がないと思っていたのです。だから酸っぱいブドウよろしく「かわいい」は私に必要ない、と唱えていました。手に入らないなら手に入れたくないと思うのが手っ取り早いです。完璧主義なのです。実らない努力ならしないほうがマシと思うほど(最近JJGの方がこのような内容の呟きをしていらして「おっ、シンクロニシティ!」とワクワクしたことがこの投稿のきっかけの一つになっています。また、この完璧主義すぎて手をつけないまである、というのは山羊座あるあるで、私は月星座とかがこれです。たのしい西洋占星術の時間でした)。
「かわいい」はその資質に恵まれた者、あるいは人間の赤ちゃんや動物にしか許されない。けれど「きれい」「かっこいい」は努力によって到達しうる。知らずそう考えるようになった私は「かわいい」を忌避し「きれい」「かっこいい」を求めている風を装ってきました。これらは大人になった私にも資格があるからと。けれど、これらは結構無理をするのです。何もかもを美しく整えたり、人を圧倒するエネルギーの発露を見せる生き方は私の望むところではありません。私の生涯という名のオリチャーに多少のガバがあってもそれはそれでお茶目として許されたい。肩の力を抜いていてもポジティブな影響を与えられるほうが持続できそうな気がするのです。そして今更気づいたのです。「チャーミングなおばあちゃん、全然いるじゃん!」「可愛いは作れるってCMでも言ってたじゃん!」と。

健康的でチャーミングなおばあちゃんになり、やがておばあちゃんになっていく人たちに希望を与えてから生涯を終えたいものです。

余談ですが私の好きなゲームに「戦国無双Chronicle」というものがあって、敵を討ちまくると味方のネームドキャラクターが褒めてくれたりするんですけれど、中でも豊臣秀吉の正室であるねね(なぜか忍者で、バリバリに戦います)が「強くて賢い、いい子だね!」「しっかりした子だね、しかも可愛いよ」という褒めかたをしてくれました。これが未だに覚えているくらい嬉しかったということはつまりそういうことなんですね。これは2011年発売の作品なので、嬉しかったと思ってから10年以上経ってようやく気づいたということになります。緑萌ゆる(草生えるをお上品に言い換えた表現なので皆さんも使うがよろしいです)。

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