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パウンド欲求と人生のコンセプト

自分なりに日々をいとおしむ試み、はーじまーるよーという話です。厳密にはすでに始まっているんですけれど。

インターネットでとてもおいしいパウンドケーキを食べたというエピソードを見てから私はパウンドケーキ巧者になりたくてたまらなくなりました。初めてだったのでプレーンなものをレシピ通りに焼きましたが、いずれ具沢山のリッチなパウンドケーキを自在に錬成できるようになって週末のティータイムを最高にしたいものです。


太陽神のささやきにより米粉を使用しました

私はこれまで食への関心が薄いほうだと思っていました。実家にいたころは私の味見はおいしいの範疇が広すぎて参考にならないなどと言われており、また自分で料理を作ることへの興味もありませんでした。なお興味の有無については母が料理上手であったり、姉が休日を利用してお菓子を作ったりなどしていたのがあって「自分が料理をしようものなら絶対に二人に劣るし、であれば最初からなにもしないほうがマシ」などといった感情が根底にあったようにも思います。誰しも最初はゼロからのスタートなんですけどね。

また、自分自身も含めた人の咀嚼音がかなり苦手だったり、食べている時の人間の表情がどうにも間抜けに見えたり(これはいまは個人差があると思っています)、グルメリポートでの異様な高音の「んー!」がものすごく嫌いだったりなど、おいしいものを追求すること自体への漠然とした忌避感のようなものがあったように思います。

そんなこんなで進学のために実家を離れて必要に迫られるまで調理自習を除き料理をしなかった私は食や料理についての苦手感を拭い去れないまま、出来合いのものを食べたり、味気ない餌のようなものを食べたり、たまに思い立って料理らしい料理をしてみるものの目的意識もないので続かなかったりと、若さに任せて食を蔑ろにしていました。大学はメンタルに矢を受けてしまって中退してしまったのですが、いま思うと食の不健康さももしかしたらひとつの要因になっていたかもしれません。

なにも決まらないまま社会に漂流することになり、目標もなく就職したところはシフト制かつ勤務時間や場所が不規則で、生活リズムはかなりめちゃくちゃでした。体重は人生最大値を記録し、この生活を続けるのはよくないと思って2年目が終わるころに転職しました。体重はストンと落ちて、入社から約1年後に前職で着ていたスーツを着てみたところ(現職は私服通勤のため社外に用事がある場合を除きスーツは不要です)ぶかぶかで驚いたのを覚えています。その後30歳を超えて体感でも以前より無理がきかなくなってきたのがわかるようになり、健康への関心は高まる一方です。

興味の方向は健康のみならず、自分の望みや未来、幸せとはなにかだのそういったところにも向かっていきます。大人が子どもに期待することが正しいあり方なのだと信じていい子を続けていって、大きくなってなにをすればいいのかわからなくなって普通のレールを逸脱してしまって、体感するところいまはオリチャーを進まざるを得ない状況です(誰しも人生はオリチャーでしょうけれど、心許なさのたとえです。なお人生はRTAではないはずです)。たぶんみなさんがびっくりするほど他人軸で生きてきたのではないかと。社会に出て何がしたいとか、どういう人生にしたいとか、何がもっとも重要な価値観なのかとか、そういったものは考えませんでした。よい学歴でよい企業に入ってよい人に出会ってよい家庭を築くような人生がおそらく望ましかろうし、それがゴールなのだと思ってそのように子ども時代を過ごしていたのです。善を積み上げればそれでいいのだと。ただ実際にはそんなことはなく、人生にゴールがあるとするならば死の瞬間です。20歳になった先の数十年、心に指針のないまま走り続けるのはあまりに無謀なことでした。この先なにをして生きていくんだろうなと。社会通念的な幸せが難しいとわかったいま、いよいよ自分の心と向き合わなければならない時です。

ここ半月ほどは価値観や生き方、感情のコントロールのしかたについての本をよく読んでいました。私の考えの基礎には「万人が誠実にそれぞれを尊重しあえば万事円満に滞りなく運ぶ」というものがあります。助かると信じられる限り助けることもできるからです。そのこと自体には以前から自覚的でしたが、基礎を形作る要素のなかには私を他人軸で生かす原因となったであろう献身性が含まれています。私の特性としてははっきりしたもののようで、かつて内定を取り消された企業で受けた適性検査でもそれが表れていたことを最終面接の際に聞いたことがあります(他人の役に立ちたいことを前面に押し出していたけれど、適性検査の結果がその発言と矛盾しなかったとのことです)。ただ「誰かのために」を価値観として重視するのは危険なことでもあります。人が人に優しくできるのは自分の心が安全な状態であるときなのだそうです。精神が揺らいでいる時は他者を思いやる余裕がありませんし、それどころか攻撃的になることすらあります。すると「誰かのために」行動できなかったことで価値観が蔑ろにされ、さらに自尊心が傷つく結果になるのです。私はかなり長いこと自分は人が嫌いなのだと思って過ごしていましたが、おそらくそんなことはありません(好きでもありません。人にどう接するかは好悪ではなく正しさの問題です)。私が安らぎを欠いているために十分に他人に優しさを発揮できず、「誰かのために」という価値観が常に傷つけられることが耐えがたいために人を避けているのです、逆にいえば自分の心さえ安全であればいつだって人に優しくできるし、それが重要な価値観である私は私をもっと肯定できるはずです。本来自然にできるはずのことができなくなっている状態を解決する必要があります。

大事にしたいものを大事にするために、まず私自身の安らぎを全力で確保することにしました。心身健康に心地よく過ごしているとき、理性の助けを得ずとも価値観に基づいた行動がよい方向で自動的に選択されるはずですから。
ということでこの先しばらくのコンセプトを「シンプルな毎日をユーモラスに過ごす、生活(くらし)に真剣(マジ)な人間砂漠のサバイバー」にしてみます。不運(ハードラック)と踊(ダンス)っちまった的なノリでルビを振りました。私が私の信じる正しさを遂行して生きるためには自分自身の安心を確保するのが早道です。私にできるのはあくまで献身であって自己犠牲ではないので、日常をハッピーな感じにして自分の準備を整えておいたほうがいいのです。ただ、情報過多では疲れるので、なるべく複雑にならない方向にしたいところ。

不安が募るほどに自分のよさは眠っていくように思います。もがくことに全力になるからです。そうしなければ生きられないからもがくわけですからそれは悪いことではありませんが、たぶん私はもっと優しくて勇敢だったはずなんだよなあと、まだ何も怖くなかったころをぼんやりと思い起こすのです。寝汚いそれらを叩き起こしてやりたいなと、そういう気持ちでいます。毎日には楽しみがあって、人は敵ではないということを少しずつ自分に教えていこうと思います。それは周りに分け与えても減るものではないことも。

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