30年前の自動販売機より少しは人間らしく話せるようになったのだろうか
30年以上前、大学を卒業して、実家の薬局で働き出した私はある事に悩んでいた。
その時はちょうど、自動販売機などに音声が組み込まれるようになりだした時期だった。私のいた薬局の前に設置されていた自動販売機からも「イラッシャイマセ」「アリガトウゴザイマシタ」とまるで安っぽいSF映画に出てくるロボットのような音声が流れていた。
でも、そんな安っぽいロボットのような音声よりも、私の声は人間らしくないのではないかと、感じて悩んでいた。
もともと人見知りで、喜怒哀楽、感情がなかなか表に出ず、何か言われても「別に」が口癖。話すことも苦手で、話しかけるタイミングを掴めなかったり、何度も聞き返されたり、お店で店員さんを呼ぼうとしても気づいてもらえない、そんなことばかりでした。
でも、まさか、自動販売機よりも感情がない、人間らしくないと感じて悩むことになるとは思わなかった。
人間らしく、気持ちを込めて、話そうとすればするほど、口から言葉を発した瞬間、虚しさに押しつぶされそうになっていた。
なんとかしようと、話し方教室に参加したこともあった。
挨拶や、一言かける大切さ、どんな点に注意して話せばいいか、声を出すにはどうすればいいか、など教わりましたが、形の上ではできたように見えても、悩みがはれることはなかった。
発声や話し方、心理学などについて多くの本を読む中にあったのが、竹内敏晴さんの『「からだ」と「ことば」のレッスン』
一言でいえば、自分の体が感じていることを感じるためのレッスンの本。
読んでいるうちに、本から、今どう感じているの? それは感じていること、それとも判断していること? などと問われている感じになる。
隣の人がいたとして、「上品そうな人」と感じるのは、それは体が感じるのではなく、頭による判断。それに対して、感じるとはその距離は居心地が悪くて、離れたいとか、近づきたいか、話しかけたいかなど、心地よい関係や距離感が大切であると、説明している。
実際にこの人との距離感を意識してみると、実に快適である。
もちろん、時には電車内などで、イヤな感じの人の隣になることはあるが、さりげなくその場から移動したり、場所を変えられないときは顔の向きをずらせてみたり、まるで心地よい場所を自然と探すネコにでもなった気分である。そして、行動も緊張した場の後、ホットくつろげる場所を見つけると、伸びをしたり、体をブルブルと震わせたりして緊張をほぐしたりするようになった。ホント、まるでネコのようである。
それは口癖にも変化を及ぼした。「別に」や「どうでもいい」という言葉を口にすることが少なくなってきた。「どうでもいい」場所や人や物と接することは少なくなってきたし、そのような場でも、少しでも快適に過ごせる工夫も身についてきた。
さらに、本のレッスンにあったように、その声の形や届き方などが自然と感じられるようになってきた。
そうすると、話す言葉の内容よりもその声の形や届き方の方が雄弁に語り、そちらのほうにあらわれる本心がつかめるような気がして、無駄に動揺することも、緊張することもなくなってきた。
実はこの声の形や届き方を感じるのは第三者として見るのは実に楽しい。それこそ、妻と息子の口げんかなんかは、互いに相手に伝えることよりも、的外れな大砲を撃ち合っているだけのようである。ただし、ボーッと静観していると、思わぬ流れ弾が飛んでくることがあるので気を付けないと。
肝心な話し方も実は段々と気にならなくなってきた。
滑舌が悪いのは未だ治らないし、聞き返されることもしばしばある。声がきちんと届いているのかも不安である。
ただ挨拶をすれば、なにか雑談に応じれば、そんなふうに機械的に話すことはすくなくなった。そのときに自分の感じているものを意識でき、口にするようになってきたからだと思うし、「いらっしゃいませ」のひと言も、相手を意識して話すようになってきたからだ。
ただ、疲れたり、機嫌が悪いときは、ふと昔のように扉を閉ざして、ロボットのようになってしまうことがある。そんな時、この本を開いて、感じているだろうかと、チェックをしている。
できることならば、30年前の自分と話をして、自分の声はきちんと届いているか? 少しは人間らしく話せるようになっただろうか? と聴いてみたい。
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