Tele『ことほぎ』①
大好きなアーティストがいる。谷口喜多朗のソロプロジェクト、Teleだ。好きなところはたくさんあるけれど、その中でも特に彼の紡ぎ出す歌詞が本当に大好きだ。
なぜ好きなのかとか、好きな曲はとか色々書きたいのだけれど、あまりにも長くなってしまいそうだから今日は新曲をひとつだけ。
初めてこの曲を聞いたとき、詰まっていた胸に爽やかで冷たい突風が吹き込んできたような感覚になった。ハッとさせられたというか。
この曲で特に好きなところを紹介する
「正しくはないけど、間違っちゃないだろう。」
生きていたらこういうことってたくさんある。少なくとも私は多い。これは自分の好きなところのうちのひとつなのだけれど、私は物事に適当に投げ出した経験がほとんどない。というか、記憶のうちでは皆無である。もちろん何かを継続することをやめたことはあるけれど、きちんと考えてやめることを「選択」してきた。それでも、そう言い切ることはできたってうまくいかなかったことだってあるわけだから、たまにちょっと不安になってしまうこともある。そういうときは自分の行動が大正解ではなかったことばかりを見てしまう。けれど、Teleの言葉で、「私の今までは正しいことばかりではなかったけれど、間違ってもいなかった」と改めて思うことができた。だってあれだけ頑張って、その時できる最適解を選んできたもの。自分がしてきたことは正しいかどうかはわからないけれど、少なくとも間違ってはいないだろうと思う。そういう肯定の仕方があったっていいはずだ。
「さよならだけを抱き寄せないで、愛される権利は君にある!」
今までに重ねてきた別ればかり自分が握りしめていたことに気がついた。そして無力感に襲われる日々。でも、それってさよならの前を疎かにしていることにならないだろうか。
「愛される権利は君にある!」という言葉が私に向けられたものかは自信が持てないけれど、ずっとさよならを握りしめていた手を緩めてみてもいいかもしれない。
「思い出を美化はしないぜ。だって素晴らしかった。美しかった。」
私の中で美化というのは、意味を作り上げるということでもある。私は先の恋人とのさよならは悲しい思い出として胸にしまってあって(完全にハッピーに別れられる人っているのかしら)、つい自分の救いとなるように別れに意味を見出そうとしてしまう。でも意味を作り上げる必要なんてないのだ。だってそのままで確かに素晴らしくて美しかった!さよならそれ自体は悲しくても、その前にたくさんの素晴らしくて美しいことは確かにたくさんあったはずなのだ。だから、さよならはそのままでいい。純粋で、つめたくて、透明なままでいい。
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この曲のきっかけは、言祝ぎ(ことほぎ)を呪言と誤変換したことだと彼は言っていた。確かに、「ことほぎ」とiphoneで入力すると1番に呪言と変換される。不思議。
それが彼にとってはすごく示唆的で偶然とは思えず、曲を書いたという。
言葉を生業にしている人の感性の瑞々しさや考えの深さにはいつも驚かされる。
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冒頭に長くなるから一曲だけと書いたけれど、それでも長くなってしまった。2000字なんて大学の緩めの授業の期末レポートくらいの分量だ。
だからとりあえず、今夜はここまで。
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