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『世界の中心でAIをさけぶ』 片山恭一 新潮新書

 最初にシンギュラリティ(技術的な臨界点)のことや人間のアルゴリズム化について書いてあるだけで、あとは米国ワシントン州を車で旅して巡る旅行記じゃないか、本を売るためにAIをタイトルに付けたのかなあ、そう思いながら読み進めていた。
 133ページで突然、ハイデガーの技術論が言及されていて、ハッとする。そうか、AIは、他もたくさんある、ステキな技術と同じく、人間の自己疎外と表裏一体のものなのだ。「技術とは人間に制御しえない何かだ」このことばを膨らませて、考えてみた。
 疎外論の元祖は、マルクスだ。マルクスの時代の疎外が資本主義体制下の労働によるものであるとすれば、AIによる疎外は、知的労働にまで及んでいる。長期的に考えれば、このインパクトは半端ない。
 現代短歌を例にしよう。AIは既に、人間よりもずっと上手に短歌を詠む。人間としては(少なくとも私は)、下手な自作短歌を発表しているよりも、AIに詠ませた短歌を解釈したり鑑賞する方が、面白くて有意義に思える。いや、そのうちに、AIは短歌評論も書いてくれるようになるだろう。AIが短歌を詠み、批評する、そんな歌会があったら、人間はどこに座ればいい?

 B&Bあり、キャンプあり、星空ありの、なかなかうらやましい旅の最後に、著者はシアトルのマイクロソフト本社を訪れる。そこで著者が想像したのは、世界から国家や通貨が消滅して、個人が、モナド状(精神的な構成単位という意味?)の「一人」として、ネットワークで繋がっている未来像だ。人間とAIとの完全な融合としてのシンギュラリティが、それを可能とする。自己が希薄化され、他者を内包することが容易となり、親鸞の言ったような、大乗仏教的な幸福と愛が実現する、、、そうか、この本のタイトルが言いたかったことが、やっと分かった。

 紀行文であるが故か、この本の帰着はやや唐突で楽観的すぎるような気がするが、確かに、ネットワークは疎外を克服できる可能性があるだろう。ただ、そのためには、AIを開発者の手だけに委ねたり、巨大企業や政治体制に左右されてはいけないように思う。マイクロソフトは最初から、単なる大企業だ。グーグルは最近、面白くない。アップルは、ジョブズが亡くなってから、新しいものを生み出せていない。
 AIは疎外を加速させるのか、止めるのか、それを決定づけるのは結局、AIの使い手にかかっている。もっと言えば、一人ひとりが、AIを搭載したスマホを使ってどんな行動を起こすのか、ではないか、と思う。その時、本当に、その「一人」は、世界の中心にいる。