絶望道中行き倒れ、雨時々ノコギリ紀行

2002年02月26日、私は産まれた 

ノコギリで切り付けられたような傷跡は、21の今でもグロテスクな波を見せている。

はじまりはじまり

仲の良くない家に生まれた私は、どういった理由で作製されたのか今考えても分からない。
顔を合わせば火花を散らし、語れば爆発する。そんな離婚していない両親の喧騒に巻き込まれた日には、更に分からなくなる物です。
私が覚えていない赤ちゃんの私は、幸せな空間に居たのだろうか?

おわりおわり

私の左眉の近くには、ギザギザと肉が抉れたような傷がある。
ぼんやりと覚えている、鏡を見ると思い出す。
温泉か何処か、温かい湯に入れられていた小さい私は、父親のゴツい指輪で殴られたのだ。
これが何故私の頭の中にあるかわからない、これ以外に心当たりが無いのだ。
小学~中学辺りだろうか、PSPでモンスターハンターをするのにハマっていた。
私は父親と一緒にゲームをした。八つ当たりされた。
自分がした事に対して全てバッシングを喰らい、全ての行動を否定されキレられた。
私が悪かったのだろうか?
高校生の頃、父と母の仲がさらに悪化した。
大喧嘩、家出、なんでもござれなこの一軒家で、私の脊髄は横たわっていた。
大学生の頃、知的な話が好きになった。
ですが、父親には2言目に「しらねぇよ。」と8切りされるのでした。

はじまりはじまり

幼稚園に通っていた私は、2日目で登校を拒否し泣き叫んだ。何故と言えば家の方が楽しかったからだ。
家で一人、ブロックで遊んでいる時間の方が有意義だったからなのだ。
しぶしぶ幼稚園に行くも、永久に迷路と車を描き続ける園児になっていた。
これといった友達は居ただろうか……思い出せない、恐らく居なかったのだろう。

小学校に居た私は、過度ないじりに合っていた。
これが社会、ないし集団か。と思いながらも学校に通っていた。部活はしていたが、途中から行くのが嫌になった。
工作が好きだった、そして工作は簡単に出来ると思っていたので、夏休みの自由研究は「石の性質と岩盤環境について」にした。とても頑張ったが、最優秀賞を工作に奪われ理解に苦しんだ。

中学校に通っていた私は、過度ないじりに合っていた。
社会、集団は変わらないなと思いながらマズマズその別に嫌いではない、面白い時の方が多いそのいじってくる友達周りと過ごしていた。
部活は剣道部、そこそこ頑張っていた。だが顧問がカスだったので行くのが嫌になった。
それが連鎖して、学校に行くのが嫌になった。
だが、ズル休みは月に1度位で割と健全な方だったと思う。
夏休みはよくプールに行ったり、部活で苦しんだりしていた。
よく泣いていた。

高校に入って、あまり友達ができなかった。
偏差値が高いところに無理に入学したおかげが、あまり趣味の合う人が居なかった。
そして勉強についていけなくなった。もともと出来る方ではないが故に、完璧に置いていかれた。
更に2.3年と担任が最悪だった。
体育会系+理屈+嫌われ者の私が一番理解できない存在だ。
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日怒られた。
そして、何が原因が分からないが幼馴染との縁が切れた。
(私は何をしているのだろうか…?)
苦しさから見つめる自分ほど苦しい物はない。
鬱ではない一番厄介な、行動はできるが精神がギザギザに切られた状態に陥った。
3週間ほど学校を休んだ。学校を辞めたかった。泣いていた。
だが、それでも、私の悪性とも言える善性は両親の迷惑を考慮して耐えたのです。

大学に入った私は、バイトを3つクビになった。

分からなかった、自然とこんなもんだろうとアルバイトをしていたら、クビになった。
適度にサボれと言われたからサボり、理解し得ない二足歩行生命体に媚び諂えば、それが仕事と言われる物ではないのか?と私は思ったが、そうではないらしい。
そして同タイミングで彼女が幼児退行をした。
今思い返せば恐らく演技だったのだろう。
半年間介護をした後、フられた。
次の日に新しい彼女ができた。
大学の課題では講師に怒られ詰められ世界の構築模様にケチをつけられた。 
それから、酒に逃げるようになった。
最近、別れた。
そして私は就活を続ける気力が無く、そのままデザインの会社に就職する。
ただ、不満ばかりの人生ではない、山あり谷ありといった所である。
だが、山の時ほど短く、谷の時ほどその谷を奈落のように感じ歩いてしまうのです。

おわりおわり

この足跡はいつまで続くのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?