あいことば。
「ただいま〜」
最愛の人が帰ってきた。
玄関で待っていた私は彼の元に走ってハグをする。
「お〜よしよし。ひかる、ただいま。」
彼は私の顔をじっと見つめながらそう言う。
︎︎”おかえり。”
私は手を動かしながら彼に伝える。
そう、私は生まれつき耳が聴こえない。いや、正確には大きな音だと少しは聴こえているのだが、補聴器を付けてもほとんど聴こえないのだ。
︎︎ ︎︎”お仕事お疲れ様。”
「ありがとう。お腹すいたよ〜」
”ご飯できてるよ。”
「やった〜!」
彼は私の作ったハンバーグを美味しそうに頬張ると、笑顔で「美味しい!」と言ってくれる。
結婚をして早1年。出会ってからは8年ほどが経つ。
初めて会った日は今でも鮮明に覚えている。
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あの日、高校生だった私はお母さんと近くのショッピングモールに買い物へ来ていた。
お母さんのお手洗いを待っていると、見知らぬおばあさんに声をかけられた。
突然のことにあたふたしていると、たまたま通りかかった彼が助けてくれた。
あの時、彼が何て言っていたかはわからない。でも、多分おばあさんは道を尋ねていたんだと思う。
名前も知らない人たちのことを、何の躊躇いもなく助けてくれた彼。
いつも、私は耳が聴こえないと言うと、「可哀想に」と同情されてしまう。
それがたまらなく嫌だった。
でもなぜか思ってしまった。
この人になら。
この人なら私のことも理解してくれるだろう。
私はおばあさんに手を振る彼に、精一杯の勇気を総動員して伝える。
”私は耳が聴こえません。助けてくれてありがとうございました。”
私は携帯のメモ画面に文字を入力し、伝える。
”そうだったんですか。実は僕も、生まれつき右目が見えません。お互い辛いことも多いと思いますが、頑張りましょうね。”
彼の見せてくれたメモにはそう綴ってあった。
そして同時に思った。
『これは、運命だ。』
と。
”すみません、また後日お礼がしたいので連絡先を教えていただけませんか?”
私はまた、勇気を振り絞って伝える。
”いいですよ、LINEのQRコード出しますね。”
そこで私たちは初めて混じりあった。
『よろしくお願いします。ひかるさんって言うんですね、素敵な名前ですね。』
彼から受け取った初めてのLINE。
一生忘れることはないと思う。
後日、待ち合わせた私たちは初めて会ったショッピングモールにあるパスタ屋さんに来ていた。
正面に座る彼からLINEが届く。
『ひかるさん、実は今日のために少し手話を勉強してきたんです!間違っていたら教えてください!笑』
彼は私に笑顔を見せてくれる。
そして、たどたどしい挙動で覚えたての手話を使い、会話を試みようとしてくれる。
なんだか、それが嬉しくて、温かくて。
どこか可笑しくて、可愛くて。
愛おしくて。
同時に私は、初めての感情に出会ったことに気が付く。
「この人の声が聴きたい。」
こんなことは初めてだった。
だって、聴きたくても聴こえないから。
無駄な願いだと押し殺してきた。
それでも、私は彼の声を聴きたくてたまらなかった。
メニューを左目で一生懸命に読んでいる彼。
左目の視力もそこまでよくないらしく、小さな文字は読めないらしい。
『パスタの大盛りがプラス150円で出来るみたいですよ。』
私は彼にLINEを送る。
『ありがとうございます。下の字が小さくて読めなかったんです。』
『大丈夫です。見えづらかったら遠慮せずに教えてくださいね。視力はAなので!笑』
『わかりました。なんだか、僕たち相性抜群ですね!笑』
私は、店員さんにオーダーしている彼の唇をじっと見た。
彼が、私のために手話を覚えようとしてくれたのだ。
だったら、私は彼がなんて言っているのかを、聴こえなくても解るようにしよう。
”美味しいです。”
私は手で表現する。
「えっと...」
彼は一生懸命に携帯で手話のことを調べて。
”僕も美味しいです”
と、手話で返してくれた。
あぁ、人と会話することはこんなにも心地良いのか。
この人となら、私が諦めかけていた大切なものたちを、見られる気がする。
その日は特に何も無く解散したが、私はその日からお母さんに頼み込み、読唇術の練習を始めた。
全ては、彼の声を聴くために。
音がなくたって、彼の言葉は聴こえるのだ。
その一心で、何度も何度も練習を重ねた。
その後デートを重ねた私たちは、晴れてカップルとなった。
その頃には私も短い日常会話程度なら、口の動きだけで読み取れるようになり、彼も簡単な手話は覚えていた。
彼が私の耳となり、私は彼の目となる。
普通に生きている人よりは、遠回りばかりの人生なのかもしれない。
それでも、私は彼と同じ音を感じられるだけで、彼と同じ景色を見られるだけで幸せだった。
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「ひかる?」
彼は私の顔を覗き込むと、怪訝な表情を浮かべる。
「どうかした?」
私は首を横に振る。
”少し昔のことを思い出してた。”
「へー、この前ひかるがポケモンのガチャガチャで沼ったやつか?」
”💢”
私は怒ったような表情で彼の肩をバシッと叩く。
今では彼の口の動きだけで会話はほとんど成立するし、彼も手話はほぼ全て完璧にマスターした。
今は、私が声を出して会話が出来るように練習中だ。
「ふぅ、ごちそうさま。美味しかったよ、ありがとうひかる。」
彼は私の頭を撫でてくれる。
こんな日常の一瞬を切り取るだけで、私の世界は息づく。
あなたがくれたものは。
プロポーズの時の指輪でもなく。
二人で重ねた苗字でもなく。
愛のことばを伝えられる世界だ。
表情や仕草だけで、お互いの気持ちが解ること。
そんな、二人だけが知るあいことば。
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