オーケストラ。
「だから、何でこんな簡単なことが出来ないの?」
「……。」
「黙ってるだけじゃわからない。すみませんのひとつも言えないの?アンタ社会人何年やってんのよ。」
「……すません。」
社内に重苦しい空気が流れ込む。
「はぁ。もういい、戻りなさいよ。」
俺は返事もせずにデスクへと帰っていく。
「おぉ〜怖い怖い。お前あんだけボロクソに言われてよくケロッとしてるな。」
席に戻るや否や隣の席の同期がヒソヒソと耳打ちしてくる。
「まぁ、今回は俺のミスだししゃーねーよ。」
俺は呆れたように笑う。
「にしても、藤吉先輩って美人なのにほんとおっかねぇよな。俺も気をつけねーと。」
藤吉先輩と言うのは、ついさっきまで俺に説教をしていた人だ。
いつも表情ひとつ変えずに仕事をしており、部下である俺たちにも一切妥協を許さないストイックな先輩である。
別にパワハラをされている訳では無いが、このように堪忍袋の緒が切れた暁にはお説教が待っている。
まぁ、いつも悪いのはミスした自分達だし、頭ごなしに毎回こちらのことを否定してくる訳でもないので、ちゃんとしていれば優しい先輩ではある。
「もうちょいこう、愛嬌があれば絶対モテるのにな〜もったいねぇ。」
「悪かったね、愛嬌が無くて。」
ヘラヘラと話していた同期が、まるでホラー映画の主人公のような顔で後ろをゆっくり振り返る。
「……あれ、き、聞いてましたか?」
「無駄口叩いてる暇があったら早く資料を作ってくれる?それとも、私の愛嬌無い面が二度と見えないような体にしてあげようか?」
「と、とんでもない!一生懸命頑張ります!」
同期は冷や汗をかきながらパソコンへと向き直る。
すると藤吉先輩はスタスタと戻って行った。
その際、俺と目が合った気がする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そろそろ退勤の時間だ。
「なぁ、○○。今日週末だし、今から一杯どうよ?」
同期から飲みの誘いが来る。
「悪ぃ、今日ちょっと残るわ。また誘ってくれ。」
「なんだよつれないねぇ〜。んじゃ、お疲れ〜。あ、凪紗ちゃ〜ん!今からさ〜!」
同期はそう言いながら走っていくが、後輩の小島さんにもあっさりフラれていた。
俺は気を取り直してパソコンへと視線を移す。
「あ、お疲れ様です。」
「ん。お疲れ様。残業?」
帰ろうとしていた藤吉先輩が通り過ぎたので一応挨拶だけしておく。
「あ、はい。ちょっとだけ。」
「早く帰んなよ。上からグチグチ言われるの嫌だし。」
「わかってますよ、30分ぐらいで終わるんで。」
「あっそ。じゃ、またね。」
そう言って藤吉先輩は去っていく。
30分後、予定通り作業を終わらせた俺は家路へと着く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ただいま。」
帰宅した俺は迫り来る足音に身構える。
「……遅い。」
「いや、ちゃんと言った通りに30分で終わらせて帰ってきたんだけど。」
「……うっさい。」
彼女の"夏鈴"はそう言ってハグをしてくる。
「痛てぇ!そんな強くしたらアバラ折れるって!」
驚くほどの強い力で夏鈴は抱きついてくる。
「私を待たせた罰。」
ご覧の通り、職場の"藤吉先輩"と違って普段の夏鈴は甘えん坊だ。
会社の人間がこれを見たらどう思うだろうか。
勿論、職場の人間は誰ひとりとして2人の事は知らない。
「……そろそろ離してくれない?」
「やーだ。」
ここまで甘えてくるのも珍しい。
「……俺、なんかした?」
恐る恐る問い掛ける。
「した。」
「ちなみに聞くけど何?」
「教えない。」
「えぇ…」
とりあえず、こういう時は下手に抵抗すると命はないので身を任せることに。
すると
「私の事嫌いって思ったでしょ。」
「は?」
「今日○○の事叱ったし。酷い事もいっぱい言ったし。」
夏鈴は涙目になりながら口を尖らせる。
「私に会いたくないからわざと残業したんでしょ。」
「違うって。誤解だよ。」
「嘘。○○はいっつもそうやって本心を言ってくれない。絶対信じないから。」
どうしたもんか。
本当に俺は夏鈴の事を嫌いになってなんていない。
むしろ、こうやって仕事に対して真面目で一生懸命な夏鈴の事を尊敬しているし、大好きだ。
……なんて、口に出して言えれば一番いいんだけどな。
「いつもそうだよね、私だけバカみたい。もう無理。別れよ。」
「いや、ちょ、それは流石に話が飛躍しすぎだろ。ちゃんと話し合おうよ。」
「うっさい。もう知らない。」
夏鈴は泣きながら家から出て行ってしまった。
そういえば、彼女と付き合ったばかりの時もそうだった。
お互い口数が少ないのもあって、すれ違っては喧嘩ばかりしていた。
本音を言うのが照れくさくて、中々自分の事を話せない俺と、無表情なうえに自分の感情を出さない夏鈴。
「本当に私のことが好きなのか分からない。」
「怒ってんのかと思うから紛らわしい。」
そうやってお互いがお互いの不満を出せない日々から、何度も糸が切れかけた。
それでも、目の前の人が自分の事を愛してくれることだけは分かっていたから。
何度泣かれても、声を荒らげても。
どうせ戻れるものだと勘違いしていたのかもしれない。
今もこうやって、愛する人を追いかけられない情けない自分がいる。
それからどれくらい時間が経っただろうか。
俺は何も出来ずにただただ立ち尽くしていた。
すると、携帯の着信が鳴る。
液晶画面には『田村保乃』の文字が。
「……もしもし。」
『あ、もしもし?○○くん?夏鈴となんかあったん?』
夏鈴の親友が、電話の向こうから心配そうな声で問い掛ける。
「あ、あー。ちょっとね。」
『さっき電話掛かってきてな、めちゃくちゃ泣いてたんよ。たまたまひーちゃんらと近くで飲んでたからそのまま誘って、ここにはおるけど。』
「そっか、ごめんな迷惑かけて。」
『いや、それはええねんけどな。夏鈴があんなに泣いとんの珍しいから。』
田村さんは続ける。
『とりあえず、今日のとこはお互い頭冷やすんがいいと思うから保乃の家に泊めるけど、また明日家送ってくわ。ちゃんと話し合いしーよ?』
「わかった。ありがとな。森田さんたちにもよろしく言っといて。」
『ほいほーい。ほんなら切るでー。また明日家行く時に連絡するからー。』
「ん、了解。」
そうだ、ちゃんと「話し合い」をしないといけない。
こんなに多くの人に迷惑をかけて、心配をかけて、そして何より。
自分が一番大事な人を不安にさせて。
本来守らなければいけないのはこんなちっぽけなプライドなんかじゃない。
俺は、夏鈴に対する思いを書き出してみる。
それは、日頃の感謝や好きな所ばかりじゃなく。
不満に思っていること、直して欲しいこともひっくるめて全てだ。
すると、筆は止まらなかった。
自分の中でこんなにも多くの感情が、夏鈴に対する思いが溢れだしてくるなんて。
続きを書くのが怖いくらい、泉のように湧き出てくる数多の言葉。
だが、全然ネガティブな感情にはならなかった。
これは、二人が未来へ歩き出すために必要なことだと信じているから。
一通り書き出した俺は、眠りへとつく。
その日、俺は夢を見た。
忘れはしない、二人が付き合うことになった日のことだ。
『藤吉先輩、飲み過ぎですって。』
『……大丈夫。』
会社の飲み会終わりに、飲み足りないからと一度だけサシで飲みに行って以来。
一緒に残業した帰りに二人で飲まないかと誘われることが増えた。
初めは鉄仮面のような人だと思っていたが、話してみると意外とノリも良くて一緒にいるのが楽しくなっていた。
この日も、いつものように話していたら当時付き合っていた彼氏の話をしだす。
どうやら遠距離恋愛中らしく、最近全く連絡をくれないらしい。
愚痴と同時にそこから酒のペースが凄まじくなってしまい。
『だいたい、あの人は私の事全然わかってないの、わかる?』
『わかりますよ、俺の方が先輩のことわかってんのになーなんて……』
『は?』
『やだな、冗談っすよ。』
『……どっち。』
『………え、えっと。』
目を泳がせる俺の瞳には、テーブルに肘をつき、頬に手を乗せた夏鈴が映っていた。
『冗談……じゃないですんん!?』
刹那、口を塞ぐようにいきなりキスをされる。
ワインの味が口いっぱいに広がる。
『藤吉先輩…?』
『私に何か言うことは?』
『…………好きです。』
『ん。』
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そこで目が覚める。
いや、耳元で何か鳴っている。
携帯電話を見ると、田村さんから着信があった。
「もしもし。」
『もしもし〜。あ、ごめん寝とった?お昼食べたら夏鈴家に連れて帰るからなー。』
「わかった。ありがとう。」
『二人で話すやろ?第三者がおった方がええと思うから保乃もおろか?』
「いや、大丈夫。ありがとう。」
『わかったー、また何かあったらいつでも言うてやー。』
田村さんとの電話を切る。
時刻は午前10時。
もう少しだけ気持ちを整理して。
夏鈴が帰ってきてくれるのをゆっくり待っていよう。
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14時頃、玄関のドアが開く音がする。
「……ただいま。」
帰ってきた最愛の人は俯きながらゆっくりと俺の元へと歩を進める。
「……おかえり。」
少しの沈黙の後、夏鈴は口を開く。
「ごめんね。私が悪かった。勝手に勘違いして、不安になって。こんな女でごめんなさい。」
夏鈴は涙を流しながら俺に頭を下げる。
「やめてくれよ、俺の方こそいっつも何も言わずに夏鈴のこと不安にさせてごめんな。」
そのまま俺は続ける。
「昨日考えてたんだ、俺が夏鈴のことどう思ってるか、そしたら見て。こんなにいっぱい出てきた。これからはちゃんと伝えるから。だからさ…」
すると夏鈴は俺の元へやって来て、ハグをした。
「私も、我儘ばっかり言わずにちゃんと○○の事も考えるから。昨日、保乃に言われたの。『我慢』するんじゃなくって、お互いのことを『理解』しないとダメだって。」
「ねぇ、○○。私たちもう一回やり直せるかな?」
「……あぁ。今日から2人で変わっていこう。」
そして俺たちはキスを交わす。
お互い口数が少ないからこそ、思っていることも多いだろう。
想いあっていることも、疎ましく思っている感情も含めて全部だ。
それはまるで様々な音が交錯するオーケストラのようなものだ。
それでも、一緒にいる理由なんて単純なもので。
だから、見つめ合うだけじゃなくてたまには同じ方向を見つめていよう。
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