Rの法則「歌い手特集」で何故荒れるのか。

今から10年以上も昔、あるところに小さな惑星が誕生しました。その星は、砂でできていて、少し他の星とは変わっていました。

そこへ他の惑星からやってきたパイオニアたちは、砂の惑星の特性に合わせて自由に遊び始めました。おもしろそうだと、ほかにもたくさんの人がやってきました。
長い年月が流れる間に、砂の惑星は興隆を経ながらも、豊かに広がりを遂げ、独特なカルチャーを確立していきました。いろんな人が入っては出ていく場所でしたが、中にはその遊び場を大切に長い間ずっと残っている人もいました。

ずば抜けたセンスや洗練された技術で、たいへん立派な砂のお城を築き上げる人たちもいて、たくさんの人を惹きつけていました。砂のお城を作る人も、それを鑑賞する人も、お互いにとても楽しんでいました。土台をコツコツと作っている段階から見ている人たちにとっては、特に感慨深いものがありましたし、壊さないようにとても大切に見ていました。

ある日、その砂のお城の噂を聞きつけて、古株で今なお巨大な力をもつ惑星から、人がやってきました。

砂のお城を見ていた人たちは、よそからやってきた人を警戒しました。
砂のお城を作った人たちは、何でもないような雰囲気でしたが、砂のお城を見ていた人にとっては、これまで楽しくやっていたところなのに、よそからなにか不穏なものを引き連れてきやしないか、脅威の存在に思えたのです。

例えば、砂のお城をそっちのけで、それを作る人ばかりをちやほやする存在には来てほしくありません。砂のお城を作る人に、先に知っていた方がお姉さんなんだから後から来た人を受け入れてあげるべきだといわれても、同じ場所を共有して鑑賞することになるのはこちらなので、素行もつかめない相手に無条件に心を開くのは難しく感じてしまうものです。

だから、手に持っていた小さなスコップで、よそからきた人に向かって、砂をかけ始める者もいました。そんなことはするべきではなかったのです。といっても、相手はその程度のちっぽけな反撃をものともするような人じゃないのですが。

後日、よそからやってきた人は、砂のお城の一部分の写真を切り取って、いい感じに加工して、古株の惑星で砂のお城を作った人について紹介しました。砂の惑星の人たちも見に行きましたが、自分たちはそんな風に絶対紹介しないような表現の仕方をしていたので驚きました。

みんながみんな、不満だったわけではないですし、あの惑星で紹介されただけで名誉なことだし、良い部分もあったと喜ぶ人もいました。
その一方で、たとえ偉大な惑星だからって、自分が大切に思っている人を粗末に扱われるのは許したくないと思う人もいました。
周囲から見るとなぜそこまで怒るのか不思議でしたが、それは小さなプライドだったのです。

これが文学。日常的なことを、別の形に置き換えながら記述していく作業。具体的な名前を出さなくて済む良い方法(タイトルでアウト)

(文章はだいたい適当ですが、ハチさんの『砂の惑星』の比喩はお借りしました)

昨今、歌い手、特に大手の歌い手のリスナーは荒れがちに思われ、何かと問題を起こしては民度が低いと言われ、それは年齢層が低いからだねと冷ややかな目で見られ…。

若いと馬鹿なのは、確かにそう。自分の過去を振り返っても…(ここで頭を抱える)
でも、若いから愚かだというのは間違っている。お行儀のよい子どもはたくさんいる。

家庭環境が複雑だったり、学校で悩んでいたりと、深刻な問題を抱えていて、構ってほしいがためにやらかしてしまう問題児もいるかもしれないが、歌い手リスナーがそんな人たちばかりの集団であるはずがない。

そこで、ことあるごとに界隈が荒れる原因を探ってみたい。

(※1口に歌い手といっても規模も活動方針も多様だが、今回はフォロワー百万人規模の最大手歌い手を対象とする)

仮説①自己愛が満たされない

自己愛とは、自分への愛。自分の心の中に理想の自分像があって、その自己像と現実が一致することで、自己愛は満たされる。
例えば、幼い頃に、パパやママに王子様扱いやお姫様扱いされることで、自己愛は満足する。
ところが、いつまでも王子様、お姫様ではいられるわけではなく、成長するにつれ、だんだん、理想の自分と現実の自分の不一致を実感し始めて悩むのだ。

自己愛が高まる思春期
中でも、思春期は人生の中で最も自我意識に目覚め、最も自己感が高まり、最も攻撃性が激しくなる年代である。(中略)
思春期の少年少女が大人社会とうまくやっていくためには、この攻撃性や自己愛の高まりを、世の中の枠にはまった同世代の集団や仲間と共有し、社会化された形でみたすことが望ましい。サッカーや野球で、または親や教師が提示する受験コースにのることで、そしてメディアが提供するアイドルやスターへの熱狂で
みんなと一緒の一体感を持つ中で、自己愛や攻撃性がみたされれば、その満足が続く限り、その少年少女は社会化されたコースをたどることができる。(小此木啓吾『「ケータイ・ネット人間」の精神分析』)

要するに、思春期に高まっていく衝動的なエネルギーを、大人の保護のもとで上手に発散させることが思春期の課題といえる。
いくつかの例の中で、太字の部分が興味深い。アイドルやスターに夢中になることは、自己愛の高まりを消化する健全な一つの道として認められる。"憧れのあの人を追っている自分"を維持することに、エネルギーを投入するのだ。
現に、ファン心理には、自己愛が関係するという見方がある(参照:自己愛傾向とファン行動との関連性について

ここで問題になるは、歌い手はアイドルなのか。熱狂する対象としてきちんと社会化されているのか。

ー答えは否だ。

歌い手もアイドルのような側面を持つから惑わされるが、通念上のアイドルの枠組みを外れている。テレビに顔を出したくないだなんて、むしろ積極的に映りたいのがアイドルだろう。
もちろん、歌い手の独特の文化をわかったうえでリスナーも享受している。
インターネットの内輪のコミュニティで盛り上がっている分にはそれでいいかもしれないが、地上波でお茶の間に引っ張り出されたことで、社会的な枠組みとのずれが浮かび上がってくることになる。

通常アイドルがテレビに出ていて、ファンが共演者というだけで嫉妬していちいちネットで炎上したりしないから、リスナーの反応は周囲からすると異様に映る。
歌い手の場合はライブでしか顔を見ることができなくて、
いつもチケットの高い倍率を勝ち抜いて苦労して会いに行っているリスナーが、番組内容がまだわからない段階で、テレビの出演者に対する敵対心や、視聴者の中から”顔ファンが増える”懸念を抱いてしまっていたのも、この文化のずれによる。

(事前の反応が過剰すぎた感は否めないが、ネット上で常日頃応援してるリスナーにとっては、歌い手は気軽には会えない大きな存在であり、遠い存在であり、やっとの思いをして会いに行っている健気な姿勢は報われてほしいと思う)

界隈の事情にテレビ側がすり寄ってくれることはなく、大人の都合に心理を引っ掻き回された結果として、特に若い子にとっては自己愛を脅かされる形になり、攻撃性を発揮し始める。

…だが、自己愛が満たされないことを原因に攻撃行動に出るのは、ごく一部のリスナーに限るような気もする。
つまり、このタイプは推し一筋という、時に過激なまでに推し中心の生活をしている人であって、別に目標をもって、例えば勉強や部活を頑張っていれば、社会的節度が身に付いているので、若干の動揺はあっても、嫉妬心から攻撃まではしない。

仮説②自尊感情が低い

自尊感情とは人の評価に関わらず、自分をきちんと受け入れることである。
自己愛においては外部の存在が重要であったが、自尊感情では、自分自身で、自分を評価できることが大事になる。

自尊感情が低いから自己愛が強くなってしまうといった記述も見かけるが、私としては愛と評価は別の軸でとらえた方がよい気がする。両者はとって代わるモノではなく、バランスの問題だと考えている。
チョコが好きだからチョコしか食べない!は体に悪いからだめだし、かといってもう健康的な食事しかしない!って極端に走る必要もない。たまにチョコも食べたい。自尊感情も自己愛もほどよく持っていた方が人生は豊かになる。

日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』という書籍のタイトルの通り、日本の子どもたちは、自尊感情が低いらしい。

まずは、なぜ自尊感情が大事なのかー。

海外の報告では、自尊感情の高い子どもは、情緒が安定し、責任感がある、社会的適応能力が高い、成績も良い、他の子どもたちや先生とのトラブルが少ない、社会規範をよく守る、授業態度がよくクラスのまとめ役の行動をとる、などの特徴が見られると指摘されています。
さらに重要な指摘は、逆境に強いことです。いじめに屈することなく、他人の目を気にしない、失敗に動じない、悪い仲間の誘いを断り、「いやだ」と拒否することができるなどといった報告があります。自尊感情の低い子どもは、その逆であると言えます。(p. 49)
逆に自尊感情が低ければ、一つの悪い情報をきっかけに、そこから脱却できなくなるのです(p. 50)

子どもの傾向としてそうだから、当然なのかもしれないけど、歌い手リスナーさんは、とにかくこの自尊感情が低い、と思う。(※ちなみにこの書籍では、高校生まで言及されている)

情報化が加速した現在、子どもたちも過剰な情報の中で生きています。子どもたち自身が、世の中の急速な変化に取り残されてしまう危険を感じ、自分の努力だけではどうしようもない勝ち負けが社会に存在するという考えを持つようになっていると感じます。(p.50)
子どもは大人が思っている以上に社会を観察しています。そして、自分自身で何とか問題を解決したいと努力しますし、評価されたいと思ってがんばっています。(p. 227)

もともと自尊感情が低い、控えめなリスナーが多く、お金だったり時間だったり知識だったり制限のある中で、ネット上の小刻みな情報を日々追っていくというのは、精神的にも不安定になりやすい。
だから、何かちょっとでも普段と違うことがあると、爆弾が投下されたような動揺を覚えて、過度に反応してしまう節がある。
それは、もはや一種のコンプレックスのような気がする。

昨今リスナーは酷評に晒されてるから、"歌い手リスナー"としての自尊感情ももてないと思われる。非難されることは多いけど、肯定されることはほとんどない。自分が悪くないとしてもそこに自信はないから、歌い手を否定されること、侮辱されることに過敏に反応してしまう。自信があれば、何か起きても動じることはない。
潜在的に無力だと感じてしまう意識や自分の環境を脅かされる不安から、スマホを唯一の武器のように錯覚し、大人社会に参加できるような気持ちになれるインターネットで、リスナーは受け皿の無い声を上げ続ける。小さな牙を剥くことで必死に自分を守っている。

…この問題は、もっと根深いものがある気がしてきたので、これ以上は踏み込まないことにする。

最後に、自尊感情はどうやったら持てるのか。

自分自身を評価するには多くの尺度があります。他の人よりも一つ、二つは苦手な尺度があっても、逆にすぐれている尺度もあり、そしてそれが自分である、だからそのよいところを生かしていこう…という前向きの考えができるかどうか。これができれば、自尊感情を保つことができます。この能力は社会生活、対人関係を保つうえで、最も重要な要素です。成績、運動能力、見かけなどは、一つの尺度にすぎないのですから。(p. 50)

(こういう価値観の人、私よく知っているので載せたかっただけ)

◇◇◇◇◇◇◇

十分に解明していないような気がするけど、考えあぐねているうちにお腹が痛くなってきたので、ここで放棄。

いつも批判されるのを見ていて、擁護したかったのが本音。
悪い子なんていない。未熟なだけ。それを本気で断罪する大人もどうかと思う。

(…といいながら、自分の若かりし頃の愚行も弁明したい気持ちになっている。)

私は、10代のリスナー各位が心身ともに健やかに育ってくれればうれしい。

AY

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