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逃げてもよい議論

ある人は「逃げてもよい」と言います。また別のある人は「『逃げてもよい』と言う人は逃げた結果の責任を取ってくれない」と言います。二項対立のように語られがちな議論ですが、冷静に考えてみれば、逃げる自由があることと、その選択の責任を自分で取るしかないことは両立します。

実は逃げなくても、今度は逃げなかった結果の責任を取る必要があり、「逃げてはいけない」と言う人や「『逃げてもよい』と言う人は逃げた結果の責任を取ってくれない」と言う人はその責任を取ってくれません。「『逃げてもよい』と言う人は逃げた結果の責任を取ってくれない」と言う人は自分の無責任を隠しながら他人の無責任を糾弾すると言う卑怯なことをしているのです。そんな卑怯な人間の言うことは気を付けた方が良いです。

同じような卑怯な人間がよく言う言葉に「逃げ癖が付く」というものもあります。一度「逃げる」という選択肢を取ると、その選択を行うハードルが下がるというようなことを言いたいのは分かりますが、それは「逃げない」ということについても同じなので、つまり逃げないことで「逃げない癖」が付きます。「逃げ癖」が付くと確かに良くないタイプのジョブホッパーになりやすいので避ける理由は存在します。ですが「逃げない癖」の果ては肉体や精神の死です。これを隠すのは本当に卑怯なことです。こういう卑怯な人間の言うことは慎重に取り扱いましょう。

しかし、そこで「じゃあ逃げてもいいんですね」となるのは早計です。「逃げてもよい」と言う人の欺瞞を指摘するという体でやってくるのに、同じ欺瞞を抱えているどころかそれを隠しているのがより悪質というだけで、「逃げてもよい」と言う人も逃げた責任は取ってくれない欺瞞を抱えています。そういう人の言うことも慎重に取り扱いましょう。

ということで他人が言っている「ああした方がよい」「こうすることもできる」「そんなことはしない方がよい」というようなことは慎重に取り扱うべきですが、その「慎重に取り扱う」とはつまりなんなのかを、実は説明していません。それを説明せずに話が終わったらその人は卑怯な人間です。私は(少なくともこの記事においては)卑怯な人間にはなりたくないと考えているので説明をしていきます。

慎重に取り扱う最初のステップは、議論や主張を『事実』に関することなのか『価値』に関することなのかで切り分けることです。

『事実』に関する議論とは、正しく演繹を積み上げれば誰でも同じ結論に辿り着くものです。国家の運営では官僚が担当する分野の話です。一方の『価値』に関する議論は、人によって結論が異なる可能性があるものです。国家の運営では政治家が担当する分野です。

例えば、私は退職した企業の確定拠出年金の移換手続きしていないので国民年金基金連合会へ自動移換され何かしらの手続きをしないと運用されずに管理費だけが減っていく状態です。ここまでが『事実』の話です。それはもったいないので手続きをした方が良いと言うのが『価値』の話です。『価値』の話なので人によって結論が異なる場合があり、私は「まあたかがお金のことだしいいや」で手続きをしていません。

他にも、インターネットのみんなが大好きなトロッコ問題では、設問までが『事実』の話で、回答は『価値』の話です。トロッコ問題の回答は『価値』の話なのでそこに絶対的な正解はありませんし、設問は『事実』の話なのでそこを変えたら別の問題になります。

話がそれてきましたが、つまり最初のステップとして「逃げる」ことで何が起きるのかと、「逃げない」ことで何が起きるのか、それらをできるだけ正確に把握することが重要となります。大事なのは「できるだけ」というところです。現実の世界は様々な要素が相互作用する複雑なシステムなので、その動作を予測することは困難です。どうしても「かもしれない」がたくさんでてきます。その「かもしれない」を「かもしれない」のまま扱うことが肝要です。これは人間の認知にとって負荷が高い傾向があるので、意識していないと「かもしれない」を無根拠な決め付けでどんどん潰していってしまいます。恐ろしいことですが、そのような認知機能があることを知っていれば立ち向かえます。

『事実』の把握が十分にできたところで、次はその『事実』に対して、どのような『価値』の判断をしているのかを分析していきます。例えば「逃げてもよい」と言う人は、職歴が細切れになることや、嫌なことを回避することによって経験が偏りスキルの成長が歪になることや、その他長期的な不利益を軽く見ている可能性があります。

同じように「『逃げてもよい』と言う人は逃げた責任を取ってくれない」と言う人は(文字上はそこまでは言っていませんが「逃げるべきではない」と主張する以外にこのようなことを言うことは極めて少ないため「逃げてはダメだ」と主張していると推定するのが妥当であるため)、嫌なことを我慢する苦痛や、それによって容易く人間の心や身体が壊れることがあることや、長期的な積み立ては心身の健康が絶対必要な前提になることを軽く見ている可能性があります。

ここまできたらあともう少しです。最後のステップとして、整理した『事実』と『価値』について自分はどう思うのか、個人の感想を付けていきます。これは個人の感想なので徹底的に自分勝手になりましょう。他人がどう言おうが、「これは大事にしたい」「これは嫌だ」という主観的な『価値』は動かない絶対的なものです。もちろんこの工程における『事実』の把握はできる限りの不完全なものであり、人間の想像力にも限界があるので、経験に裏打ちされた『価値』の方が高い精度を持つ可能性はあります。しかしそれは主観的な『価値』についても言えることです。主観的な体験に基づく『価値』を正しく理解できるのは、究極的にはその本人だけです。

このようにして慎重に取り扱って、『事実』と『価値』を整理してそれらに個人の感想を付ければ、悔いのない選択をするための材料は十分に揃います。

さてここまで「慎重に取り扱う」とはどんなことなのかを説明してきましたが、こんなことを毎回やっていては人生が何回あっても足りません。ある程度はリスクを取って簡略化していく必要があります。つまり、他人の『価値』を借用します。主観的な体験に基づく『価値』を正しく理解できるのは、究極的にはその本人だけですが、経験に裏打ちされた『価値』の方が高い精度を持つ可能性はあります。その『価値』を借用するのは十分にありうる選択です。

ではどのような人の『価値』を借用すべきでしょうか。語弊を恐れずに端的に表現すれば「信頼できる人」でしょう。これは本当に語弊を恐れずに端的に表現したので、人間の一般的な認知で「この人は信頼できる」となる人ではありません。人間の一般的な認知で信頼できる人は、毎朝会うたびに朗らかに挨拶し友好的にコミュニケーションを取ってくる人を信頼しますが、そのような信頼を頼って良いのは誰の仲介で保険を契約するかだとか車を買うときに誰を担当者にするかだとか、どの新人を期待のプロジェクトへアサインするかだとか、そういう選択ぐらいです(つまるところ、人生のだいたいの選択では頼っても良いです)

そうではなく『価値』の借用ができる信頼を測るにはどうすれば良いかを考えると、やはり『価値』の判断が似ている人は信頼できます。

例えば、プログラミングで遭遇するエラーは謝ってもなんともならず、怒られ続けるのでしんどいという人がいます。ですが私は、コンパイラが返す決められた理屈に従ったエラーは与しやすいもので、人間よりも話が通じると思っています。このような二人の間で『価値』の借用をするのは危ないかもしれません。このような齟齬を見付け出すには「慎重に取り扱う」ことがまず挙げられます。

他にも「騙されてみる」という方法があります。「騙されたと思って」というフレーズがありますが、まさにそれをやります。昔の賢い人が「愚者は経験に学ぶが、自分は歴史に学ぶ」と言っていたように経験にはとても学びが多いので、「騙されて」経験してみるのは「騙される」コストを考えても悪くない選択です。騙される前提なら、その相手は究極的には誰でも問題ありません。人間の一般的な認知に従って「この人になら騙されても悔いはない」と思う人に騙されましょう。実は人間の『価値』の判断はわりと似かよっているという話もあり、騙されにいったら騙されなかったということはまあまあ発生します。さらに言えば、「慎重に取り扱う」なんてせずに、人間の一般的な認知で「信頼できる」人から『価値』を借用し続けて満ち足りた一生を送るような人生は想定できます。

「じゃあ今までの話はなんだったんだ」という話にもなってきますが、騙されることも無い訳ではないので、一生騙されない人生は当然のものではありません。『価値』を借用するとうまくいかないこともあるということを知っておくことは大切な事です。絶対にうまくいくと思ってうまくいかなかった時の認知負荷はとても大きなものですが、うまくいかないこともあると思ってうまくいかなかった時にはその負荷は小さくなります。

ということで騙された時に備えましょう。人間は騙されたと思った時に騙したやつが許せないという強い気持ちが生まれます。これをしっかりコントロールしましょう。そのためには本当に悪いやつが誰なのか、黒幕を見破る必要があります。そうしなければ見当違いの方向へ許せない気持ちが向かってしまいます。

さて、「騙されたと思って」他人の『価値』の判断を借用した結果「騙された」場合に、本当に悪いやつは誰でしょうか。人間の一般的な認知では借用した先の他人なのですが、黒幕は別にいます。借用した自分です。ここから逃げてはいけません。『価値』の判断をしたのが自分ではないとはいえ、その判断を採用したのは自分です。その選択の責任は自分で取るしかありません。ここに気付かないとめちゃくちゃになっていきます。これは部下の仕事の失敗の責任を、仕事を任せた上司が取るのと同じ話です。

という事で黒幕が判明したところでどう責任を取らせるかです。ここで気を付けたいのは、責任を取らせる段階だと、後知恵や裏目で「ああすれば良かった」がたくさん見えてくることです。ここを自然な人間の認知に任せると、黒幕に対して「ああすれば良かったじゃないか」という気持ちがむくむくと膨れ上がっていきます。これもコントロールしましょう。そのためには世の理不尽を受け入れる必要があります。すなわち、「誰も悪くなくてもよくないことは起きる」し、「起きてしまったよくないことの責任は誰かが取る必要がある」ということです。これらを受け入れないと、誰かが悪いと結論できるように間違った検討をしてしまったり、責任を取ったあるいは取らないといけない人が悪いと誤認してしまったりします。「誰も悪くないがよくないことが起きて、誰かがその責任を取る必要がある」という素朴な感覚ではおかしなことが正常な帰結の一つであると認識してフラットに捉えることが必要不可欠です。

必要な前提を受け入れたところで早速「ああすれば良かった」の分析方法を説明していきます。これにも『事実』と『価値』を切り分ける分析が有効です。まず『事実』として「判断した時に予期できたことなのか予期できないことなのか」を検討していきます。こう書くと「予期できたこと」と「予期できないこと」の1か0かに見えてしまいますがそうではなく、多くは1と0の間のどこかにあります。まずはそれぞれの「ああすれば良かった」がこの1と0の間のどの辺りにあるものか考えて配置していきます。例えば今まさに雨が降っている中へ傘を差さずに歩いて行って濡れたのはほとんど1ですが、隕石が降ってきてヘルメットを着用していなかったので怪我をしたのはほとんど0です。これが降るか降らないか微妙な天気予報を見て傘を持たずに出かけて雨に降られたのなら0.5とか0.8とかになるでしょう。

次にそれらについて、よくないことの元になった判断の段階ではどう評価していたのか、『価値』の判断を振り返っていきます。つまり、どの程度起きうると評価していたのか、どの程度よくないことだと評価していたのか。これを見越してどのように判断したのか記録を残しておくのも悪くない手段です(とは言え粒度に気を付けないとたくさんの時間がかかってしまいます)。

この振り返りを行うと「あの判断が間違っていた」が嫌でも目についてきます。ここで気を付けることは「どの程度起きうる」の評価です。人間の一般的な認知では、現に起きたことの起きうる確率の見積もりが非常に高くなる傾向があります。そのため、現に起きたことに対して「めったに起きないだろう」と評価したことが、実際には妥当な評価だったとしても間違いだったと思いやすくなります。これはしっかりと強く意識しておきましょう。例えば、傘を持たずに出掛けて雨に降られた人は、その後しばらくは少しでも雨が降りそうなら傘を持って出掛けるようになりがちです。傘なら邪魔でない限りはどうでも良いですが、判断の振り返りにおいては確率の見積もりはできる限り正確に行う必要があります。

このように意識して人間の自然な認知による判断の歪みを排していっても、「見積もりが甘かった」、「今ならもっと良い判断ができる」と思うこともあるでしょう。そういう時は本当にそうである可能性が高いです。次にいかしましょう。

逆にここまでの検討を耐え抜き、妥当な判断だったと思えるのであれば、表面的にはよくないことが起きた原因になった失敗だったとしても、「判断」の点では文句の付けようがありません。後悔のない選択ができたということです。

これは他人の『価値』を借用せずに自分だけで判断した場合にも同様の分析ができます。むしろそちらがメインのような気もしますが話の流れでこうなりました。

このような分析は「慎重に取り扱う」と同様に非常に手間がかかるので、ここぞという時にやるのが良いと思います。騙されるつもりで他人の『価値』を借用する時の他には、重大な決断をした時だとか、大きめの失敗をした時などがあるでしょう。なお、何が重大な決断であり、何が大きめの失敗であるかは、『事実』と『価値』による分析が有効です。他人の『価値』を借用してきても良いでしょう。

恐ろしい無限ループはさておき、このようなことが「慎重に取り扱う」ということです。ぼんやり思っていることを、理屈の穴を埋めながら書いていたらなかなかの分量になっていました。noteから毎月投稿の記録が消えると言われなければもっとダラダラ書いていた気がします。本当にこんなことをやっているかと言えば、正直やってないですし、やった結果が確定拠出年金を手数料ですり減らしながら、異常中小企業を渡り歩き、夫婦同時に仕事を辞める人生なので、実はやらない方が良いかもしれないです。

何はともあれ、逃げても逃げなくても騙されることはありますし、それでもなお後悔のない選択ができます。『事実』として過ぎ去ってしまった変えられない現実について悩んでも答えは出ないので、そんなものに悩まずにすむ後悔のない選択は思考リソースの節約になりますし、これは『価値』の話ではありますが「後悔のない選択だった!」と叫びながら開き直るのは清々しい気持ちになれて最高です。筆者のおすすめです。

せっかくの人生ですし、後悔のない選択をしていきましょう。


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