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選べない人たち

三十代ではじめて同居したパートナーは複数の相手を同時に愛することの出来る人で、ぼくもそのコンセプト自体はいいなと思っていたけれど、今思えば僕のそれは若さゆえの頭でっかちでしかなかった。実際にそんな相手が彼に現れたとき、何回かの衝突の果てに自分から家を出て行ってしまった。別れを告げた時の彼の目から零れ落ちた涙を今でも覚えている。彼はどうしても選べなかっただけだったんだと思う。それは彼の不誠実なんかじゃ決してなかったことを今なら理解出来る。自分は選べると嘯いて、生活も、彼との細やかな暮らしの積み重ねも、いとも簡単にうっちゃってしまった自分の不甲斐なさと共に。

今のパートナーは、僕と同居を始める時に、前のパートナーとの暮らしを解消した。それまでの数ヶ月は文字通り顔が浮腫みまくるほど悩み抜いていた。ボロボロになって這々の体で「お付き合いを解消した。あなたと一緒にいたい」と告げてくれた時、うれしさよりもその重みにしんとしてしまったことを覚えている。彼らは今も一年に一回だけ少し遠出をして二人で初詣に行っている。大事さはきっと変わりはないのだろうと思っている。8年経ってもまだ申し訳ない気持ちがある。僕は選ばせてしまったのだ。この重みはずっと背負っていかなくちゃいけない。一緒にいる幸福と抱き合わせで。

一ヶ月前にはじまったドラマをきっかけに原作の漫画を読んで心を吹っ飛ばされた。夫婦共に恋をしても、人間関係が錯綜しても互いのこともどの関係も、どうあっても選別できなかった二人の物語。真心で紡いでいった暮らしのなかで、もはや捨てる訳にはいかない出会いは望まずとも生まれてしまうことだってある。

倫理に反して婚姻外の誰かと恋をして多くはセックスをすることを、たとえそこに愛や友情が存在していたとしても「不倫」と呼ぶらしい。戦争のニュースよりも、差別や不公正に苦しむ人々の声よりも、不倫のニュースに激昂する声は響き渡りがちだ。だが物語の中の彼らのそれぞれの関係をそう呼ぼうとすれば大きな軋み音が鳴り響く。倫理や常識にしばられて大切な人間関係をおろそかにする/させる恐ろしさはあとから延々と続くボディブローだ。時に苦しくても大切な人たちが誰なのか見失わずにいられはしないだろうか。そして共に囲む食卓に降り注ぐ光を思えば、その人達に時にはがんじがらめになる面倒くささを選べればなとあらためて思ってしまっている自分がいる。

#ゆりあ先生の赤い糸 #入江貴和

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