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「役に立つ」ということ

3月に東日本を、大きな地震と津波が襲った。そして、福島の原子力発電所でもとうとう大きな事故が連続した。僕が住んでいるのは新宿の古いビルで、七階だったために、帰宅してみたらけっこう大きな家具がいくつか倒れていたけれど、同居人も友人も誰もケガをすることもなかった。けれど、そこから何週間か、どうにも力が湧かない自分に苛立った。ひたすら眠く、twitterばっか眺めていた。長く関わっていた仕事から少し距離を置いたことも関係があったのかもしれないのだが、自分の役立たなさに辟易した。とりあえず被災地に行こうにも金がないのだ。役に立てないと思うことが、こうまでしんどいことだと初めて知った気がした。
そんな時に、自転車で街に出た帰り道にふと思いついて、ひさしぶりにバーを覗いてみた。新宿二丁目から道路を挟んだところにある、ぼくが15年前に初めて入ってみたゲイバー。ドアを開けて黄色い灯りが、しみじみと有り難かった。本当は必要のなかった「計画停電」のニュースが流れて、街がまだひっそりとしていた時だったから余計にあの灯りは眩しいくらいだった。「また来るねー」などと言いながら、信用ならない「またね」の言葉をものともしないで、待っていてくれるバーという存在は思っているよりもずっと大きなものだった。

久しぶりに訪れたそのバーで、隣に座った若い男の子が、「ぼく農業やってるんです」と話しかけて来た。仕事をまだしていない学生時代にぷらぷらしていたときに、ふと目についた『わら一本の革命』(福岡正信・著)を読んで、そこに書かれている自然農法に魅力を感じたことがきっかけだったらしい。リベレーションはいろいろあるけれど、ゲイである彼が作った野菜を食べてくれる人がいて、その彼らがその野菜を美味しいと思ってくれる。そういうことの積み重ねが、ゲイにとっても暮らしやすい世の中を作っていくんじゃないかな。そうだといいんだけどな。煙草を吸うために出た階段の踊り場で彼はそう話してくれた。
爪はたぶん土で真っ黒だった。次の日、同じバーで彼が作った野菜を食べることが出来るというので、行ってみた。マスターが塩をまぶした採れたてのラディッシュを二つに割って出してくれた。味は苦くて甘くて、とにかく優しかった。
別の日に、別のゲイの若者と話していたときのこと。週刊誌の表紙をIKKOさんが飾っていた。なんでかわからないけれど、ゲイの人たちで彼らのようなテレビに出ているいわゆるオカマタレントを嫌う人が多いなあと感じていて、どう思うか彼に訊いてみた。すると「ぼくは好きなんだけどなあ」という答えが返って来た。「彼らがこんなに人気があるのって、見た目とか、話口調の面白さがもちろん大前提だと思うんだけど、それに加えて、すごいメイクのテクニックや蘊蓄(うんちく)を持ってたり、秀でた芸を持ってたり、編み物が凄腕だったりすることも大きいと思うんだよね」彼らをタレントとして使う側の意識はまだまだそんなに高くないのかもしれないけれど、視聴者は違う眼差しを持ちはじめているんじゃないかというのが彼の言い分だった。ぼくもずっとそう思ってたから、なんだかとてもうれしかった。おすぎとピーコを嫌うゲイの人たちも多かったから、その「伝統」の続きだったりもするんだろうけど、ぼくは小さい時から好きだったよ。彼らのオネエ言葉には闘志が隠れていたから。小さい頃にはわからなかったけれど、大人になってわかった。お二人は引退したら箱根のさびれた温泉旅館の隣でゲイバーを開くのが夢なんだって。「一杯五百円なのよ」って言ってたよ、たまたまつけたテレビで。行ってみたいなあと思っている。

半月ほど前に、同性愛者がかなりひどい差別を受けているウガンダで、彼らを死刑にすることのできる法案が通りそうだということで、Twitter上で署名を集める運動が展開されていた。その中で、ぼくがフォローしているノンケの人たちが、本当に怒り、自らの言葉を付記した署名フォーマットのサイトを広めているのを見て驚いた。驚いたなんて言うと彼らにとても失礼だと思うけれど、最初に見た時にはやはりとても驚いたのだ。さらに印象的だったのは、(こういうことを言っているゲイは数人いたのだけど)ゲイの若者が、「結局、ゲイなんて生きててもしょうがない存在なんだよ」と呟いていたことに対して、「そんなこと言わないでくれよ」と数人のノンケたちが彼らを「諭そう」としていたことだ。そのうちのひとりには渋谷で行われた脱原発のデモで会って、話をしたことがある。彼はイデオロギーや差異を越えたところで、とにかく原発を止める人々の意思を示そうと手を尽くしている人で、ぼくは彼のひたむきさがとても素敵だなあと思っているのだけど、彼は、「俺にとっては去年の夏に代々木の東京プライドを見たことと、それからなにより映画の『MILK』を観たことがすっごく大きかったんですよ」と言っていた。「ミルクが死んだときに、誰が言うともなしにキャンドルを持った人たちが集まって、どんどん人の波が広がっていって・・・。あのシーンには本当に痺れました」同じ頃に、去年プライドの代表をしていた砂川秀樹さんが、自身が「今の現状を見ると自分がふがいない。(代表を)やるべきではなかったのではないだろうか」というtweetを残していたりしたのを見た。東京の「パレード」をめぐる状況は今また岐路に立たされているように思える。せめて砂川さんたちに、このデモをやってる彼の言葉を聞かせたいなと思った。思わぬところに種は飛んで行ったりするものなのだね。

パレードの形を取るのであれば、このままセックスやセクシュアリティーの多様性を言祝ぐすべての人による行進として進化していくといいなあと思っている。沿道の人たちの、行進に対する眼差しはどんどん変わって来ている。数年前に歩いていたら、ピンク色のド派手な車に乗って、衣装もピンクの超有名なラッパーが、身を乗り出して「おーい! みなさんがんばってー!!」と大声で手を振ってたのが、いかにも祝祭的で印象に残っている。歩く者たち、歩かないけれど沿道に立つ者たち。それが性的に少数派であろうとなかろうと、その百花繚乱っぷりを祝いあう「パレード」として大きくなって行けばいいのになと思う。「歩く我々」だけでなく、日本に暮らすすべての人の性の多様性を祝ってしまう。そんな贈り物を、パレードの外側にいる人たちにさえ渡してしまえるようなものになっていくと良いのになと、ぼくは思っている。媚びるのではなく。ちょっと胸を張って。
「なんの役にも立てねーなー」と4月の頭、ひどく落ち込んだジムの帰り道のバス停に、煙草の空き箱が落ちてたから、拾おうとしゃがんでいたら頭上でおじいさんとおばあさんの声がした。「えらいねえ」「ほんと。えらいよ」照れくさくなって足早にその場を去ったけれど、子どもに戻ったような気がしてうれしかった。なに言ってんだ、42にもなって。だけどやっぱり誰かの役に立てて褒められるのは子どもじゃなくても嬉しいものなのかもしれない。ぼくはゲイで、日本で生まれた日本人で、42歳、東京で暮らしている。免許と名のつくものはなにも持っていない、あんまり金まわりも良くない美術の作家をやっている。けれど、この条件、このラベルを、特になにも隠すことも恥じることもなく、通り過ぎる人の役に少しは立てるようにもうしばらく歩いて行けたらなと思っている。それぞれの持ち場、それぞれの条件のもとで、そんな生き方をしてる「LGBT」が昔からも今も、少しずつ増えていってるような気がしている。権利を訴えることは大切なことだ。あとを歩いてくる子どものたちのために。けれど同時に、自分がいる場所に対して、なにを贈ることができるのか。そんなことも一緒に考えてけるといいのかもしれない。

2011.7
(初出: NHKハートネット)


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