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「プロレタリア映画の夕」とエイゼンシュテイン『ハリウッド征伐』について私が知っている二、三の事柄

https://quod.lib.umich.edu/c/cjfs/prewar-journals.html

 第一回プロレタリア映画の夕

 今から90年前、1930年5月31日18時頃、読売新聞社講堂で日本プロレタリア映画同盟=プロキノ公開映写会「第一回プロレタリア映画の夕」が開催されました。検閲及び所轄署の妨害をうけ、定員450人の会場で主催者10名+観客225名の計235名のみ入場可、という制限が課されましたが、千人を超す観客が駆けつけました。また入場人数以外にも「レコード伴奏以外一切の説明を加うるべからず」という条件が検閲官から課せられていたそうです。

 上映会の最後、『第11回メーデー』映写に併せて「インターナショナル」のレコードをながすと、期せずして観客から合唱がおこり、最終的にはプロキノ員共々銀座へ流れ出し、デモへと発展しました。プロキノ員であり、ポール・ローサ『ドキュメンタリィ映画』翻訳者であり、日本の女性ドキュメンタリストの先駆者でもある厚木たか氏はこのデモの最中、警察に名前を訊かれた際に咄嗟に応えた「厚木たか」という名前をそのまま生涯のペンネームにしています。

 「第一回プロレタリア映画の夕」では『隅田川』『こども』『第11回東京メーデー』、京都支部提供童映社製作『煙突屋ペロー』およびアメリカの映画『弥次喜多従軍記』(エディ・サザーランド監督作品Behind the Front)が上映されました。文献によっては『プロキノ・ニュース第一報』が上映されたと書かれることもありますが、検閲で間に合わず、先述の『弥次喜多従軍記』に代わったようです(後にこの映画は観客から「プロキノがブル映画をみせるとは何事か!」とお叱りを受けたとか)。

 ともあれ本邦で初となるプロレタリア映画のお披露目からちょうど90年が経ったわけです。

『煙突屋ペロー』と『弥次喜多従軍記』。その他の上映作品は現存せず↓


 プロキノとは何か

 そもそも日本プロレタリア映画同盟=プロキノとは何か。掻い摘んで言えばプロレタリア映画の製作・上映組織です。1927年トランク劇場映画班(佐々元十)が9.5mmパテ・ベビーでメーデー・デモを撮影したことに端を発し、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)の構成団体として1929年2月2日に正式に結成されました。メンバーは佐々元十をはじめ岩崎昶、上野耕三、北川鉄夫、並木晋作、戸山ペロー、能登節雄、厚木たか等々…度重なる弾圧、メンバーの投獄等により1934年に解散するまで、日本全国に支部・同盟員を獲得しています。詳細な歴史はプロキノを記録する会編、並木晋作著『日本プロレタリア映画同盟[プロキノ]全史』に記されていますのでご参照ください。以下、プロキノ結成綱領を引用します。

一、プロレタリア映画生産発表のために闘ふ。

一、一切の反動的映画の批判克服のために闘ふ。

一、映画に加はる政治的抑圧撤廃のために闘ふ。

一、同盟組織の拡大強化。

プロキノは「傾向映画」と同時期に生まれた、日本におけるアヴァンギャルド映画運動の嚆矢といっても過言ではありません。


 セルゲイ・エイゼンシュテイン『ハリウッド征伐』

 さて。「第一回プロレタリア映画の夕」はプロキノについて述べられている書物、というより日本映画史について書かれた書物には必ずと言っていいほど登場する伝説的な催しでした。同年の傾向映画『何が彼女をさうさせたか』(鈴木重吉監督)の大ヒットと共に、戦前日本映画史における一つの「事件」と言っても良いでしょう。

 伝説的なこの「第一回プロキノ映画の夕」以降も継続して上映会が行われているのですが、詳しい記述はあまり見当たりません。第一回の会場に入りきらず、なかなか解散しない観客を諭す為に公約された「第二回プロレタリア映画の夕」は6月13日、報知講堂でおよそ千人の観客を迎えて開催されました(第一回に間に合わなかった『プロキノ・ニュース第一報』はここでお披露目となります)。そして日本各地への上映活動へと発展して行きます。

 しかし「第二回プロレタリア映画の夕」において個人的に見過ごせない記述が『プロキノ全史』にあります。日本のみならず世界の映画史的にも非常に重要な作品が上映されていた(かもしれない)のです…!それが、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の幻の作品『ハリウッド征伐』(1929)です。

 セルゲイ・エイゼンシュテイン『ハリウッド征伐』は英語タイトルだとThe Storming of La Sarraz、映画評論家の山田和夫氏は『商業映画にたいする独立映画の闘争』(別名『ラ・サラズの嵐』)と著書『エイゼンシュテイン 映像世紀への飛翔』に書いています。1929年スイスのラ・サラで開かれた国際独立映画会議で即興的に製作された作品、とのことです。あらすじは以下の通りです(『プロキノ全史』より)。

**「商業主義の鎖にしばられた映画の女神を解放しようと映写機の軍馬にうち乗って出動した反商業主義軍の総師エイゼンシュテインが、商業主義軍の大将セシル・ドミルとタイプライターの機関銃でわたりあい、これを撃破して女神を助けだす」 **

 このあらすじだけでも面白そうですが、出演者がすさまじいのです。ラ・サラの会議に出席したハンス・リヒター(この映画の発案者らしいです)、ヴァルター・ルットマン、アルベルト・カヴァルカンティ、ベラ・バラージュ、レオン・ムーシナック等々映画史上における超重要人物達が出てたとか出てないとか…。その他アイヴォア・モンタギュ(この方の経歴も調べると面白いのですが割愛します)、後の英文学者ジャック・アイザック(セシル・B・デミル役?)、評論家ジャニーヌ・ブイスヌーズ(女神役)、日本から出席した肥後博、槌谷茂一郎も出演してたとかしてないとか…共同演出はエイゼンシュテイン組のグリゴリー・アレクサンドロフ、撮影は同じくエドゥアルド・ティッセ。ハンス・リヒターとモンタギュが共同監督であるとか、脚本を共に執筆したとか、リヒターが本来監督だったけどエイゼンシュテインがのっとったとか…諸説あるようです。

 この『ハリウッド征伐』が何故幻かというと、上映されたという話が「第二回プロレタリア映画の夕」以外にないロストフィルムだからです。それどころか「ハンス・リヒターが編集の為に持って帰ってそのまま無くした」説(山田和夫氏はこの説を採用)、「そもそも映画自体存在しない」説もあります。確かに「第二回プロレタリア映画の夕」のチラシには記載がありません。(↓画像は中川成美・村田裕和編『革命芸術プロレタリア文化運動』(森話社)から拝借🙇🏻‍♂️)

 …しかし、同年発行のプロキノ機関紙「新興映画」および「プロレタリア映画」には確かに上映前の告知と上映後の記録が記載されているのです…

https://quod.lib.umich.edu/c/cjfs/prewar-journals.html

 ただ、当時既にエイゼンシュテインを始めソビエトの映画理論が広く紹介されていたにも関わらず(とはいえ戦前日本で上映されたソビエト映画は33本のみ)、また千人もの観客がいたのにあまり記録がないのも不思議ではあります。また、エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』はこの数年前、日本にやってきたけど検閲官向けの上映で突っ返され、戦後しばらく経つまで日本で上映されなかったことは有名な話です。『ハリウッド征伐』はすんなり通検したのか?という疑問もあります。「第二回プロレタリア映画の夕」の翌々日、6月15日には京都で上映会が催されていますが、『プロキノ全史』によると『ハリウッド征伐』は上映されていないようです。本当にただ一度きりの上映で失われた…ということになります。

 上映の真相はさておき…エイゼンシュテイン『ハリウッド征伐』を日本に持ってきたのは先に触れた肥後博という方だそうです。この方についての詳しい経歴はググッただけではよくわかりませんが…こちらの論文↓

『十字路』の1929年パリでの評価 -当時の新聞・雑誌の批評の検証とその評価の背景を探る-

https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=27343&file_id=162&file_no=1

によると武蔵野館支配人と紹介されています。その他共産党員だとかアルベルト・カヴァルカンティ『時の外何物もなし』を日本で上映したとか、小津安二郎『宗方姉妹』のプロデューサーだとか…断片的な情報しか見つかりませんが、色々と映画興行に携わってた方のようです。シネマテークフランセーズのサイトにラ・サラの会議の集合写真がありますが、エイゼンシュテインとハンス・リヒターに挟まれているのが肥後博氏のようです。

…『ハリウッド征伐』が実在するのか、あるいは本当はそんな映画は存在していなかったのか。真相はわかりません。もしかしたら今もどこかの倉庫でひっそり眠っているのかもしれません。しかし、幻とはいえエイゼンシュテイン程の大家(が関わったらしき)の作品ですので、きちんと調査されている方がいらっしゃると思います。何方か良い資料をご存知でしたら教えてください。

 「第一回プロレタリア映画の夕」から90年後...

 2020年5月25日ミネソタ州ミネアポリスでジョージ・フロイド氏が白人警官に押さえつけられ、後に亡くなる事件が起きました。その際の映像及び事件に端を発する暴動、抗議活動等々...の映像が連日SNSで拡散されています。日本でも渋谷でクルド人男性が警察に押さえつけられる映像が拡散し、抗議活動へと発展しています。

 プロキノの佐々元十は「玩具・武器―撮影機」(初出『戦旗』1928年6月号、アーロン・ジェロー、岩本憲児、マーク・ノーネス監修『日本戦前映画論集―映画理論の再発見―』(ありな書房)に再録)において玩具のパテ・ベビーでも武器になりうると主張しましたが、現在、当時のパテ・ベビー以上に安価なスマートフォンのカメラで撮影された映像が、瞬く間に数万数十万といった世界中の人々に見られています。その規模はプロキノ映画の比ではありません。とはいえ「プロレタリア映画の夕」は現代においても驚異的と言えるほどの動員を達成し、日本各地にその活動は波及しました。戦後まで含めてもこれほどの規模の自主上映活動というのはなかなかないのではないでしょうか。

 また、エイゼンシュテイン『ハリウッド征伐』は巨大資本に対するインディペンデント映画の闘いを描く風刺的な作品(たぶん)だったようです。コロナ禍で自粛が続いたこの数ヶ月、インターネットを通じて多くのインディペンデント映画、個人映画が配信されました。上映権の問題等もあり、大手映画会社の作品よりもはるかに多くのインディペンデント、個人映画作品を無料で見ることができたのではないでしょうか(たぶん)。資本の多寡が映画の質を決定づけるものではないのは当然として、優れた映画との邂逅もオンライン配信の急速な普及によってより平等な状況へと変貌しつつあります(とはいえやはり映画館で映画は見たいものですが)。

 イーストウッド90歳、ゴダール90歳も大変おめでたいですが(余談ですがプロキノ研究の最重要人物、牧野守氏も今年90歳になられたようです)、映画映像を取り巻く状況が急速に変わりつつある昨今、プロキノ映画が世に出て90年目を迎えたことも頭の片隅に置いておいていいんじゃないかなーと考える次第であります。

おしまい。

 参考

その他:冨士田元彦著『現代映画の起点』(紀伊國屋新書)、山田和夫著『日本映画の現代史』(新日本新書)、山田和夫著『エイゼンシュテイン 映像世紀への飛翔』(新日本新書)、岩崎昶著『日本映画私史』(朝日新聞社)、岡田晋著『日本映画の歴史 その企業・技術・芸術』(ダヴィッド社)、厚木たか著『女性ドキュメンタリストの回想』(ドメス出版)、牧野守著・佐藤洋編『映画学の道しるべ』(文生書院)、牧野守著『日本映画検閲史』(パンドラ)、山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局編『ドキュメンタリー映画は語る 作家インタビューの軌跡』(未來社)、中川成美・村田裕和編『革命芸術プロレタリア文化運動』(森話社)、フィオードロワ・アナスタシア著『リアリズムの幻想──日ソ映画交流史[1925-1955] 』(森話社)、佐藤忠男著『日本映画史 増補版〈1〉1896‐1940 』(岩波書店)、アーロン・ジェロー、岩本憲児、マーク・ノーネス監修『日本戦前映画論集―映画理論の再発見―』(ありな書房)

また阿部マーク・ノーネス氏と牧野守氏がミシガン大学のサイト内でプロキノ(準?)機関紙「新興映画」「プロレタリア映画」や岩崎昶『映画と資本主義』村山知義『プロレタリア映画入門』等々貴重な資料を公開してくださっているので大変参考になります。「ミシガン大学の牧野守コレクション」とかツイートしちゃったけどマキノ・コレクションはコロンビア大学所蔵かな。

Prewar Proletarian Film Collection

https://quod.lib.umich.edu/c/cjfs/prewar.html