ラジオと僕

みなさんご機嫌いかがでしょうか。Yukiです。

今回はラジオにハマったきっかけや大学時代にやってたラジオについてお話しします。

ラジオにハマったきっかけ

週末に車で出かけるときは基本的に車内でラジオを流していた。ただ、家でラジオを聴くまではなく、そんなにハマってなかった。それが大きく変わったのが、中3の秋頃のこと。技術の授業で充電式のラジオを作った。せっかくなので、試しに家で聴くようになった。それから毎日聴いているうちに、トークを想像する楽しさや魅力にハマっていき、テレビよりラジオを聴く割合が高くなった。特に好きだったのが滋賀の「e-radio」の番組だった。地元の情報が多いので、親近感が高かった。高校生になってスマホを買ってもらったのを機にメール投稿も始めた。毎日やっていていろんなDJさんに名前を覚えてもらい「いつもありがとう」と言われるぐらいヘビーリスナーになっていった。さらに公開ラジオやイベント、Twitterなどで他のリスナーさんと交流したりしてリスナーの輪が広がっていった。ラジオは高校や家庭内で息苦しい思いをしていた僕にとっては数少ない居場所になっていった。

聴く側から伝える側へ

ラジオ好きが高じて、大学時代には学生放送局という団体に入って伝える側として活動することになった。学生放送局では大学近隣にあるコミュニティラジオで月1回ラジオ番組を制作していた。毎月、テーマを決め、大学周辺で頑張ってる人々、団体を取材。基本的にメンバー10人でスケジュールを鑑みてローテーションのような形で取材や収録をしていた。さらに、地域イベントのMCを依頼されることも

2017年3月、メインパーソナリティを務めていた先輩が卒業することになり、メインパーソナリティの座を僕が譲り受けることとなった。番組の看板を背負うというプレッシャーもあったり、特に先代から教わることが少なくて、自分なりに模索していきながらも自分らしくやることを目指した。さらに選曲も自分らしさを出すべく、季節や取材対象にちなみつつも自分の好きな女性ボーカルの曲を多用した。同年10月からは1学年上の先輩から放送局の代表を引き継ぎ、書類作成や番組制作の全般の指揮をするようになった。しかし、番組をやるための助成金の申請が遅れ、僕が就任してわずか1年で番組は無期限休止になった。その後、タイトな取材スケジュールや人員不足、自分の行動力の無さなどで精神的に蝕まれ、3回生の7月いっぱいで代表辞任、放送局の活動からも退いた。

再び…

放送局を辞めて1年、大学主催の「企業見学ツアー」のお知らせメールを見つけた。よく読むと、ツアーのプログラムの「ラジオ制作」の文字を見つけ、即応募した。この企画では、京丹後市の製造業3社に取材した内容を元に番組を制作し、京丹後の企業の魅力を伝えるという趣旨で放送するというもの。僕の他、2学年下で初対面の後輩2人とともにツアーに参加した。1年のブランクはあったものの、コミュニティラジオのスタッフさん、DJさんからアドバイスもありつつ、参加者唯一の経験者という立場で後輩2人にアドバイスもできて、全体的にはいい雰囲気で進めることができた。京丹後の雰囲気ももちろん良かったが、ラジオの楽しさを改めて再認識させられるいい機会になった。

今でも

ラジオやアルバイトでの経験からラジオDJやアナウンサーを本格的にやりたいと思う気持ちは今でも、強く持っている。しかし、周りではアナウンサーになったという人はおらず、なるための情報がなかなか得られにくい環境下にある。さらに独学でボイストレーニングをやっただけでプロのやり方とは違う部分も多い。ただ、自分の「ええ声」、自分の声で元気を与えて、聴く人の心の拠り所にしたい。こういう目標があるから今でもやりたいって思う。いつか現実になれたらなぁなんて思う。

ストリートミュージシャンの投げ銭のような感覚でお気軽にどうぞ。