先日、ある芸能人が自宅で自分の命を絶ったという記事を見て衝撃を受けた。私と同年代で芸能の最前線で活躍されていた人だ。

その人のことはあまり詳しく知らない。けれども、どうして自分の命を自分で絶ってしまったんだろう。30歳という若さで。

本当の理由は、その人にしか知り得ないことだろう。苦しみを感じるところは人それぞれ。人に説明したところで、それを100%うまく相手に伝えることも難しい。また、相手がそれを100%理解することもあり得ない。


私も「死」を頭の中に考えた経験がある。しかし、それは恐怖でしかなかった。

親戚、友人の悲しむ顔が浮かんだ。やりたいこともたくさんあった。そんな半端な人生でいいのかと責める自分もいた。

「死ぬ」なんて勇気はなかった。

私が死にたいと思った理由は、プライドがズタボロになったからだと思う。

なんでも"デキる自分"が良くて、一生懸命それに近づこうとしていた。"デキない"姿はあまり周りの人に見せたくなかった、、、いや、自分で受け入れられていなかったのだろうと思う。

周囲からのイメージもそこに加わってくる。頼りになる、なんでも受け入れてくれる、きっちりしているなど、それらのイメージは自分を気持ち良くしてくれる一方、自分を苦しめることにもなっていた。

仕舞いにはボロが出てくる。仕方のないことだ。完璧な人間ではないのだから。そこから自分の理想や周囲から押し付けられる"私"と"ありのままの私"とのギャップに苦しんだ。

そのステージから早く降りれば良かったのだ。けれども、いつまでもそのステージにしがみつき、"ありのままの自分"を受け入れられなかった。

そうして、プライドが傷つき、どうしていいかも分からなくなり、自分で立ち上がれなくなった。

そんな時、周りから差し伸べられる手もあった。しかし、うまくそれに応えられない。核心の部分は笑って明るく振る舞って誤魔化し、隠した。

厄介なのは、自分で受け入れられていないことを人に話すことなど無理だということだ。その状況に至るまでには、様々な経緯があり、自分の感情とが複雑に絡まり合っている。

つまり、他人がそこに踏み入れ、自分でわからないことを整理し、解決することなどほぼ無理に等しいのである。


結局、何が私を立ち上がらせてくれたのか。


それは、私という"存在"を無条件に受け入れてくれる人だった。私がどう思っていようと、どう行動しようと関係ない。私という"存在"を受け入れてくれたということ。それこそが私を立ち上がらせてくれたのだと思う。

私の場合は、家族。本当に感謝してもしきれない。

だから、私の中での当時の問題は根本の意味では解決していない。経験から学び、改善はされたが、それはあくまで良くなっただけだ。

これから先も、私の存在自体を受け入れてくれる人が必要になるだろう。その頃には、何人いるのだろうか。

一方で、逆に、私自身も人の存在そのものを受け入れてあげられるようになりたいと思う。自分でそう思うのではなく、相手にそう思ってもらうことが目標だ。


冒頭で話題に挙げた彼にも、周囲に、"彼の存在自体を受け入れてくれる人"はいただろう。しかし、それを身近に感じれない、考えられないほどに思い詰めてしまっていたのかもしれない。

私は幸せだ。あの時に自分の命を絶たなくて。あの後、いろんな人に出会い、いろんな経験を得られて、いろんな楽しい思いが出来ている。

これから先も、少し思い詰めてしまったときに、そういったことを考え、少しゆとりを持って生きていけたらいいなと思う。


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