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南十字星の下に (一)

私はこの本の筆者のひ孫に当たる人間である、お会いしたこともない先祖が後世に何を残したかったのか、自分を知るための第一歩。以下、故人山口賢郎が昭和38年に記した手記「南十字星の下に」より一部を記載する。
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はじめに
 昭和38年と云えば戦争後、既に17年を経ている。丁度其の頃の私の勤務状態に自由時間が充分にあった為か、沸々として湧き出したのが戦時中のインドネシアでの生活の思い出であった。それは自分でも聊か驚く程鮮明に。つまらぬ事まで脳裏をかすめ、瞼に焼き付けている想いでなのである。戦時中という特異な時期、それも敗戦に繋がる時期なる為、特に印象深く忘れ難いものなのであろう。私は書いた。それが「南十字星の下に」なのである。

「北は極寒のキスカ、アッツの島じまから、南は灼熱の国ジャワ、スマトラに至るまで御陵威のもと、我が皇軍は赫赫たる戦果を上げ、武勲をたてて居るのであります。」
 これは未だに私共の耳に残る東条英樹の抑揚豊かな演説である。こうして日本国民は、騙され騙され勝てない戦争に巻き込まれていった。昭和18年秋から終戦に至るまで、私もその1人として、否当時は「石油戦士」の美名を頂戴しして、石油の島スマトラで明け暮れの約3年間の生活を過ごしたのである。祖国を遠く離れ、南十字星輝く南の国で、私がどんな生活をしていたかを、忘れない様にと思い出すままに綴った拙文がこれである。小説でもない、また美文でもない。しかし事実を飾らず、文体を美化せずに一生懸命に書いてみた。
 戦争は当時負けるべくして負けたが、私の体験は残った。他人に読ませる体験記でもなく、私自身の為のものに過ぎないが、それはそれで良いのである。

悪戦苦闘の昭南まで
 小1時間前から、正確な、そして力強いピストンの小刻みの響きがハッチのうちに居る人間共の耳に、体に伝わって来ている。
「いよいよ本格的にスピードを出してきたらしいな、あぁ南方か..」
 口には出さぬが私の周囲の人々の目は明らかにそう語り、そして戦争という得体の知れぬ大きなエネルギーの中で、体験せねばならぬ決して好ましくない先々への事態に対する不安と又一方にはこれから未知の国へ行くんだという僅かな希望を、その目、目、目は告げている。
 タバコの煙が充満しており、ポッンポッンとぶら下がっている数個の裸電球の光が辺りを薄紫色に染め、ハッチの隅々にうごめいて居るのがカーキ色の衣をかぶった人間である事がやっと判別できる状態である。若し虚ろな、不気味な笑い声でも起こったら「どん底」の舞台そっくりの風景である。
 船は急速にローリング、ピッチングを開始し、スクリューの空転さえ感じられて来たがハッチの内の人々の口は極めて重い。三名程の将校が突然現れた。何しに来たんだと一同は彼らを注視した。
「全員よく聞けッ」
(よくまあ、あんなに威張れるものだ)
 2ヶ月前、国府第八十五部隊入隊以来、嫌という程帝国軍人の空威張りに接して来た我々一同は、その長らしき人物の次の言葉を、ぼんやりと待っていた。
「本船団は本日二十三時、門司港を出航し高雄に向かって航行中である。現在豊後水道を南下中である。敵潜水艦の攻撃は必至と思われるので、避難方法を伝えておくッ」
(こんな足場の悪いハッチの中に押し込みやがって、一体どうしろというのだ。)
「各自の側に縄ハシゴが一本ずつ計3本と、階段が1箇所あるから、それぞれ自分の最寄りのものを利用する。整然と行う事が1番早く脱出する方法だ。解ったな」
(解る、わからぬの問題じゃない。それ以外に脱出する方法があるわけがない。但しそのハッチにうごめく動物の数を何と見ているんだ。)
 と考えている時、一段と大きな声が、我々の耳に飛び込んできた。
「余程規則正しく、機敏な行動を取ることだ。本船が若し敵の水雷を喰らった場合、本船の積荷の関係で二十秒で水没するッ」
(この薄暗いカイコ棚に納められている三百七十余名が沈没しつつある船の、それもハッチの内から大揺れの暗闇を手探りでたった3本の縄ハシゴを伝って一体何人がデッキまで這い上がることができるというのだ。幸いにも外気を一口吸えた者がいたとして、其処にあるデッキは既に直角に海底目指してズレおちる壁であり、船体とともに荒れ狂う千尋の豊後水道に吸い込まれるまでに何秒の世界があるというのか)
「皆の居るハッチの下はカーバイト、その下のハッチには焼夷弾、最下部には五十キロの爆弾が積んである、解ったか?二十秒だぞ」
(トットと帰れッ)
 我々の気持ちは逆に明るくなったのか、方々で笑い声やら、鼻唄が起こり、なんとなくこの「どん底」も景気が良くなった様だ。助からぬと悟った澄んだ心境でもなし、やけになったわけでもない。それは少しずつ、戦争の中の渦中に引きずり込まれていく者の自然の姿らしい。
 今、乗船して南行中の我々石油人が、第何次目かの徴用員として千葉国府台東部八十五部隊に全員集合したのは昭和十八年、もう雪も散らつく十一月だった。
 既に十回近い石油人の徴用は、帝国石油だけでも三千名近い数を示していた。従って初期の数回メンバーは相撲に例えれば例えれば十両中位から幕内中位までの者に、二・三の役力士を加えた様な編成が可能だった。そして乙が陸軍、海軍同様に提供する最良のものの様だった。戦争は長期戦の形相を示してくるし、占領した石油地帯は拡大するしで、限りある一社の提供人員だけでは当然陸海軍用ベスト・メンバーの編成は出来なくなって来た。
 こんな訳で今回の石油戦士二百二十数名の編成を見るに、十両、幕内中位は既に姿を消し、幕下、三段目が三分の二を占め、これに僅かな幕内上位と役力士に依る構成といった状態であり、これは陸軍にとっては極めて不満足なものと思われるが帝国石油としては精一杯の状態であった。
 当日の朝、国府台兵営に越後、秋田の井戸元から大挙上京してきた来た三段目力士格の十六・十七の少年群を見た時、我々長刀組は驚かされたものである。更に驚いたのは、カーキ色の服に、ゲードルは巻いているが丸腰のこれらの少年群が携帯天幕で包まれた日用品袋から、一斉に朝食を取り出した時である。思わず我々本社組は、ホーッと一声、彼らが手に握ったコブシ大の「銀シャリ握り飯」に見惚れてわかったのである。
 越後・秋田といえども「欲しがりません勝つまでは」の時局化、そうそう満足な食糧事情ではないわけであるが、息子が、弟が、若い身空で南方に雄飛しようとする時、せめて心の籠った握り飯だけでもと、考えただろう父母や兄、姉の気持ちを察した時、何かジーンと来るものがあった。それにしても芋やスイトン生活に入りつつあった我々都会人には正に驚異の握り飯ではあった。
 帝国石油も当時は国策により各社鉱業部門を、吸収々々の時代で、国府台に集会した判任官待遇以上が顔見知りとは言えなかった。定刻に遅れそうになり、慌ててそこらにぶつけた為か、縄で括ったトランクを片手にすっ飛んできた日本鉱業の阿部君は、秋田の船川鉱場からの徴用であった。
 こうして全員が総武線市川駅から品川駅へ。薄暗いプラットホームから窓という窓が全部閉ざされた軍用列車に乗り、ゴソゴソと都会を離れるまでの十数日、軍隊の我々に対する取り扱いは、少なくとも血の一滴に値する石油を国に提供する「石油戦士」と自負している我々には、どう考えても面白くない日の連続であった。
 高等官待遇・判任官待遇と一応伝われて、長刀だけは吊って居るものの、実は待遇ではなく「扱い」であり、銀シャリ組は備員なのである。軍馬・軍犬・軍鳩・軍属という不可解な帝国陸軍の序列とあっては、誰の心にも大なり小なり反感の芽が時々刻々と伸びつつあった事は否めに事実だった。
 ダイヤによらぬ広島迄の輸送は長時間走ったり、長時間停車したりだったが、それでも我々には当時の二等車があてがわれ、朝からの気疲れの為か、案外心地良く運ばれていった。
 船団の都合か、積荷の為か約1週間の広島市の生活も、これまた備員にとっては精神的に耐えられぬものだった。駅の近くの練兵場で毎日不愉快なお説教を聞いたり、汗を流したりしている内に待望の出航の日が来たのだった。

 こうして今、三層のハッチに、ぎっしり積み込まれている爆発物の上にうごめく身になって、過ぎた日を振り返って、一同機分、感傷的になって来た時、風雨は一刻一刻と猛威を示してきた。
 宇品港で、舷側を登りつつ見た我々の「有馬山丸」(三井船舶、この船だけは戦運強く、戦後まで立派に生き延びた)は九千トン余りで、流石に大きく、そして戦時色に装った姿は、何となく頼もし気に感じたのであるが、その船が、なんとまあ揺れる事であろう。
 雨は確かに門司沖に着く前から相当降っていたと思う。二・三度デッキに首を出して、篠つく雨にびっくりしてはカイコ棚に潜り込んだ事がぼんやりと記憶にある。
 過去に浅間丸・平安丸に乗船の経験を持って居る私だったが、これだけの揺れと雨は、正に臍の緒切って以来のもので、ピッチングの度に起こるスクリューの空転は凄まじい金属性の音さえ上げていた。

 裸電灯の下に蠢く帝国石油微員二百二十数名、見習士官六十数名、何処かの田舎部隊の百数十名(私どものハッチだけの人数)の命は、正にまな板の上の鰹である。既に夜開けが近い筈である。一向に船の状態が変わらぬ内に、又々妙な騒ぎが起疑こって来た。
 空前絡後とも思える豪雨は風の悪識で、どんな隙間からもハッチの内に水滴が伝わって来る。之が下へ下へと垂れて行くと、先ず積み荷の一番上にあるカーバイトにぶつかる。
先刻から見習士官の席がやかましくなって来た。
『臭いッ。オイ、カーバイトだ!』
『そうだ、カーバイトだ。カーバイトだ』
『オイ、何とかしろッ!』
『当番ッ,報告して来い!』
 こんな種類の言葉が幅奏して表々の耳に飛び込んで来る。徴員は情けなくも既に軍馬・軍場以下の扱いに慣らされて了ったのか,せきとして声無く,結論の出るのを「早く、早く」と願いつつも、彼等の元気の良い行動を読めて居るのみである。
 之等の騒ぎも軍隊式に顔る簡単に終わってしまった。数分の後、代表選手が責任者を連れて来た。
『軍はこれしきの属雨で、カーバイトが爆発するような積み方はしておらん。心配するナ。解ったナ」
 確かに軍の積み方は正しかったらしく、変いは我々の鼻が慣らされて了ったのか。其後は危険と感じさせる悪臭は無くなった。
 所がである。今度は全く異なる臭気に悩まされて来た。之は生命には別状無いとは云へ、たまったものでなく,之全て 雨が其の原因になっているのである。私は先封から我々のパッチの下の状況ばかり書いて来たが、今度の臭気はデッキからのもので,其の状況を伝えなければならない。

我々が宇品港の夕暮れ近く,有馬山丸のタラップを登りデッキを踏んが時、其処に百匹を越える軍用犬が大々運箱の中で吠え続けている情景にぶつかり、之等も又南方に行くのだろうかと、一寸不思議に感じたのである。シェパードを始め二・三の種類の大大団である。数名の兵(備員かも知れぬ)が交互に数匹の大を箱から出しては鎖に繋ぎ、デッキを五分位づつ散歩させる。体力の衰えを防ぐ為か、顔る規則正しく,日つ真剣に,忠実に実行している。
我々は成すこと無く彼等の船上生活を眺めて居ると、狭いデッキの散歩が終ると「ハウス、ハウス」の命令で箱の内に押し込まれる。兵は又別の箱から犬を引出し、同じ時間、同じ所をグルグル回り始める。
 此の大共が我々徴員の怒嘆の的となったのは、悲しいかな其の食事にある。栄養を落とさずに其の機能を充分発揮させる為に肉類を主とした食事は、どうも我々の目には毒なのである。
 三度々々当番がバケツで運んで来る我々の食事には、肉の一片すら見当たらぬ。イワシかサバの味付け缶詰と,珍しく実が入って居ると喜んだら自分の目玉が映って居たと伝う落語もどきのお汁と、タクアン数切れと云うご馳走とあれば、軍犬様のお残りでも頂戴致し兼ねない我々なのである。
 犬がパク付いて居るのを見ては「あー、オイ、帰ろうヤ,ハウスだハウスだ」とハッチに戻り、しみじみと淋しい食事をすると伝う訳である。
 此の憎ッくき犬共が門司出港以来の猫風雨に世話人も伸びて了っては,其の排泄物が雨に薄められ、天の理に従い低きに流れ、果ては穴なら、隙間からポタリポタリと落ちて来るのは当然とは言うものの,丁度動物園で理の檻の前に立って感じるあの臭気なのである。餌が良いだけに尚更臭いと感じるのだろう。
 カーバイト爆発の危険は解消したとは伝え、風雨依然として衰えぬ為、犬族に悩まされつつも,門司出航以来十数時間を経る頃になると、徴員と云えども。何処で耳に入れるのか。本船団に関する噂を仕込んで来る。
其の二・三を挙げると・・

* 本船団は戦争開始以来の最優秀船団で、其の中で一番低速の船でさえ時連
十四ノットであり、六変ともディーゼル機関で、特に安芸丸は新造九チン。
二十四ノットの快速船である。
*本船団は門司沖で長時間停船したが、之は各船長と船団長(陸軍)との意見が対立した為だったが、遂に船団長の強引さに押し巻くられ、不安の多い豊後水道南下となった。
*本船団の積み荷は某重大作戦の爆弾及び物資であり、其の作戦は気候的に開始期日が目の間に迫って居る為、出航したら最後、⅚団最高の速力で昭南島目指して突ッ走る筈である。
※ 本船団には千五百トの軽巡一集が昭南まで護衛する。
(尚,昭南とは占拠したSingapore の事である)

 門司沖での長時間停船から、豊後水道南下,更に超荒波を乗り切る勇敢な船団。某重大作戦を予言する様なハッチの積み荷、何処かで其の優秀な臭覚を発揮するであろう大族等々から、我々は之等の噂がデマではない様に思えた。大海に浮かぶ一つの船以外には何も洩れない様な状況の下では,乗船している軍の幹部も敢えて秘症を護る必要も無いのでおろう。
 昭和十六年,戦端開始,北に南に軍を運ぶ船団の噂が拡まる頃から「あァ堂々の輸送船」なる歌が街々の隅まで流れて居た。
  南支那海を渡る船団の一ッ,有馬山丸のデッキの上で,私は此の歌に深い感銘を覚え,涙して永遠に消えないだろう所の印象を受けたのである。
 流石の豪雨も納まり肌寒い細雨となったものの、低気圧の圏内は夏の夕立の様な怪異な空模様が、黒藍色の南支那海に反映し、荒れ狂う三角波は少しも衰えを見せない。私を含め船酔いを知らない数名が新鮮な空気を求め、足を奪われないようにデッキに立って居る。
 私は此処で我々船団六隻の全貌を目の辺り見た。しかし其の内の一・二隻は必ず高波に遮られ、六隻全部を望見する事は不可能だった。

あーア、堂々の輸送船団!

我を忘れて此の堂々たる輸送船団を「南方に進駐する感傷」をもって眺めている内に、船団の体型と言うものが大体十数分毎に変わって行く,そして之が船団の長と覚しき一般のマストからの発火信号によるものと解って来た。
一列機隊・一列縦隊・一二三体型・二二二体型・三ニ一体型等々、六隻で作れるあらゆる体型に刻々と替えつつ,南へ南へと荒波を乗り越えて居る。そして此の外周をスーィスーィと波に見え隠れつつ,心細い小さな巡洋艦が護衛して居る。
目の前の僚船(と去っても三百メートル以上は離れているだろうが)が頭から波に突っ込むと,海面に露出したスクリューは其の都度真っ白い飛沫を飛ばして居るのが手に取る如く見える。すると我々の船も金属的なスクリュー空転の音を響かせる。南支那海を木の葉の如く揺れ作らも、規則正しく体型を換えつつ,使命を果たすべく前進々々して居る六態の輸送船と、之等を護る義務を遂行している巡洋艦に思わず「あぁ堂々の輸送船」と感傷的に口ずさむ私だった。
 それにしても此の荒波は、どうして我々をこう迄トコトン傷め付けるのだろうか。ところがさにあらず,此の荒天なるが故に、後記の理由で無事昭南に到着出来たのかも知れない。。門司出航二日目,ハッチ内のマイクは我々の耳をそば立たせた。「船団長発表,何時何分,日下日向沖を南航中,只今敵潜水艦の発した魚雷の航跡らしきものを発見。本船団の付近に一・二集の散潜水艦あるものと考えられる。充分注意せられたい」愈々お出でなさった。ドカーン,二十秒、ハイそれまでョのハッチに巣喰う徴員。青くなったが之だけは運を天に任せるより他にテがない。

 戦争が勃発直後の支日、真珠湾の精々たる戦果に引き続き各方面で日本軍の圧倒的な優勢が伝えられて居る頃、有楽館(有楽町 ある日石・石の本社ビル)の一室で不思議な会が開かれた。
 十数名の男女半々の,決してスマートな人達ではないが、何となく日本人離れした肌の黒い此の一団を取り巻き、数十名の社員が興味深そうに南方生活の話を聞いて居る。日石・帝石社員に幾分なりと南方の知識を植付ける目的から開かれた座談会で、事務に差支え無い社員が之等南方の生活経験者の話を聞く会なのである。社員は三・四十名も出席して居たろうか。何しろ戦争によって突然脚光を浴びた南方に関する知識は極めて不足である為、一同は質間どころか唯ぼんやりと宗教の事、病気の事、気候の事等を聞いて居たに過ぎない状態である

 結論としてはマンデー(水浴)をして,昼寝をして,果物を食べて居れば石油は自然と湧き出して来る土地らしいし、病気も注意して居れば心配もなく,言葉も直ぐマスター出来るし,スコールに洗われる美しい山川を見て,現地人を上手に手なづけて居れば一・二年は直ぐに過ぎてアうと云う事だった。

兎に角未開の楽園が我々を待って居ると伝う気にさせたのが、此の会の収穫と玉えば収穫だった様だ。其の緑の楽園を目指して居る筈の我々が、魚雷の航跡を身近に伝えられる今の様な状態に成ろうとは誰が想像出来ただろうか。過去にこんなのんびりした会合を持った事が夢の如く頭を掠めたのである。戦争は夫程悪化して居る。

 敵サンの潜水艦が遊泳していると伝うニュースは三回程アナゥンスされたにも拘らず、爆弾と大族の臭気にサンドウイッチされながら、刻一刻と暖かになる波風に可されて居たのは全く荒天のお陰だったのだ。

 船長以下船員に至るまで「正に我々の体験でも珍しい荒れ方、夫れもよく四日も続いたものだ」と云う。此の為潜水艦の海上浮上が絶対的不可能になったのだそうだ。つまり細長い体型の潜水艦は強烈な三角波に乗り上げるとポキンと折れる怖れがあり、ましてや其の中で魚雷発射等は出来ないとの話である。

「荒天の為、幸いに敵潜水艦の襲撃は避けられ、安全圏に入った。明日中には高雄に入港予定」と言うアナウンスは我々一同を大いに喜ばせ,ハッチの中の空気は一段と活気を呈して来た。雨の晴れ間も段々と多くなり、細雨を通じて右』に遠く、忽然として台湾の山々が現れて来たのだ。既に我々は何時の間にか白湾南部を航海して居たのである。
 此の五日間、膝までつかるぬかるみの中でもがいた様な,疲労困憊の我々だったが流石に数時間後の高進入港と聞いては現金なもので,顔色こそ冴えないバッチ族もデッキに登り、久し振りに近付く山々を眺めては,冗談の一つも出ようと言うものである。
 あれ程の荒波も,其の頃から掌を返すが如く鏡の様な海面となり、日差しさえ爽やかなものになって来た。全く不思議な航海であった。僅かに残るウネリの海面を、始に驚く飛び魚が無数に飛び立つ。其の飛び立つ時に起きる飛沫が味更海の青さを印象付ける。既に我々は遙か南の海上に在るのだ。スクリューまで現してもがいて居た僚船もすっかり落ち着きを取り戻し、六集は静かな海を一列縦隊で堂々と高雄に近付くのであった。
 午前十時、都子の木がポッポッ並ぶ台湾最南端ガランピーを右折すると、十数隻の軍用船を狭い湾内に抱えた高の港だった。
 此処で私は図らずも,浅間丸の変わり果てた姿に接し。非常時下の緊張した空気に触れた。美しい良港である筈の日本最南端の港高遊は、其処に数々の薄汚れたぺンキの大小の!船を浮かべ、何か落ち着きの無さを示して居る。
聞けば当時日本最大の優秀船浅間丸は、敵サンが無賞付きの攻撃目標として狙って居るとの事であった。
 接岸したものの上陸許可は降りず,三々五々集まって来た行商人とはデッキの手指越しにバナナの値段を交法し、組で品り上げてはムシャムシャと口に入れる。久しく忘れて居た味を満喫したのである。
 夜になった。又何時の間にかピストンの音と緩やかな動揺が感じられる。バナナの夢を見ている内に,我々は八重の汐路を目的地の昭南島へ着く迄、瞬時も止まらぬスクリューに身を任せているのだ。
 どんな所だろう。先着の彼等(日石・帝石の連中)に再会出来る楽しみ、その後配属される油田地帯は何処だろう。シャワだろうか、ビルマだろうか、スマトラかしら。しかし其の前に無事航海を続けられるのだろうか。一同の頭に同じ思いが巡ったに相違ない。
 何処まで我々は天佑に恵まれて居るのだろうか。再び潜水艦徐けの大シケが高雄を離れて一日も経たぬ内に猛然と襲って来たのである。我々は既に経験済の恵みの大シケに対して航海の安全を信じて疑わないだけの度胸が出来たのは良いとしても再び「ハウスの主』の天よりの恵み(?) の,あの香りには全く参った。
 門司以来の悪条件に大族共もすっかり元気喪失し、トロンとした目、ハリの無い姿勢が目立って来ている。ハッチの仲間も再び雨ざらしのデッキで,血さえ吐く者も出て来た。食べ物は依然として淋しい限りであったが、台湾で仕入れた氷砂糖が時々サービスされるのが唯一のご馳走であった。
 昼が巡って来て我々の船団が五集になって居る事を知った。キャプテン格の安芸丸は目的地がマニラであった為,高雄から単独出航したのであった。此の安芸丸がマニラ入港直前にアメリカ潜水艦に依って撃沈されたと云うニュースが間もなく伝わった時には大きなショックを我々は感じた。
 我々が内地出発の頃聞かされて居た「戦争の状況」は必ずしも悪いものではなく、長期戦に入るだろうとは宣伝されて居たが、之は寧ろ国民に緊張を与える為のものと解釈され、負けると去った感じは聊かも無かったと思う。夫が戦場に近付くにつれ我々はどうやら根本的に考えを変えねばならぬ様なニュースばかり聞かされ、また事実を見せ付けられ、ヒシヒシと緊迫した空気の内に一歩々々引づり込まれている。
 現に安芸丸は撃沈され、浅間丸は高雄港に釘付けにされて居る。我々が未だ一発も魚雷を喰らわないのも暴風雨のせいだろうが、若し皿いだ海だったら比の辺りもアメリカ潜水艦の活躍の場であろう。之で南支那海の制空権を奪われたなら、と考えると寒い風が心を買くのだったが、我が船団は依然として堂々たる輸送船であり、元気を出せ、クヨクヨするなと助ましてくれる様な威容を見せたら、荒波の中をグイグイと突き進んでいる。

画像1
有馬山丸カイコ柵の図

 揺れるハッチ内で二度程園芸会が開かれた。座席を作る必要も無い。我々は寝転び乍らドウの間で繰り広げられる雑多な芸術(?)を見下ろして居れば良い。我々ハッチの住人は一人の浪曲師を除いては皆無粋の輩であるが、鉛首のハッチには誠に色めいた一団が乗っていたのである。こには一同関にも気が付かながった。
 大阪の「カフェー赤玉連中」と称し、三・四名の男に引率された十四・五名の大変色ッぽい一団であるが、如何せん場違いの輸送船の生活では、万事荒むのも止むを得ない事で,まるでゴン助芝居の楽屋裏を感じさせるグループだった。
 女給・やとなの類が「南方で赫々たる武動を樹てて居る帝国軍人を鼓舞激励し勇気を与えるには皆さんを措いては他に無いのであります・・・・」と会った宣伝に踊らされて,「内地に居ては三味線も弾かれないし。いっその事南方生活も悪くないじゃないの」と考えた末の諸嬢の姿なのであろう。
汐風と船酔いでだらけ切った顔に、白粉をベッタリとペンキの如く塗り、一張羅の晴れ着を着込んだ面々が、ガヤガヤとハッチの中に降りて来た時は、これから濃芝居の幕が開くのかと思わせる雰囲気だった。
 流行歌・都々逸・さのさ・大津絵と,次から次へと怒鳴り散らすが、文句は何れも「お国の為に」「欲しがりません勝つまでは」「妻子元気で容らします」等々,誠に野暮ッたい決まり文句ばかり出て来る。其処へ行くと我がバッチの代表選手として立ち上がった帝石の浪曲師は立派なものだった。
“芝で名高き万松山,此処は高輪泉岳寺,四十七士の熱しは,幾千代朽ちぬ武士道のオー,花とこしえに香んばしくゥー,香の煙の絶え間なしィー”
三味線は臨時の赤玉嬢でも、寿々木米若師について数年間北海道各地を巡業したと言う経験のある鉱夫は、オーバーに評すれば「ハッチをしんみり」とさせたのだ。
 帝石の現場の楽ともなると変わり種も居るものである。さて,昭南も近付き海の色が黄のかかった水色に変わって来たのは水深が極めて浅くなって来たからだそうで,此の辺りまで来ると昭南に基地を持つ日本の飛行機は、敵潜水艦が海底にあっても容易に発見出来る為,我々は其の襲撃がら完全に逃げ切った訳である。
 ツキまくって居るとは此の事で,この頃から俄然天候は回復し、輝かしい太陽の光りと共に南方の暑さの前振れを我々は肌に強烈に感じて来たのである。そして遂に我々船団は静かに、静かに昭南へと入港したのである。
 此の時、唯一つ我々の耳に入った悲しい事件は、我々を陰に日向に護衛してくれ,心の支えともなって居た軽巡洋艦乗り組みの一水兵が、猫烈な波浪によりデッキから奪い去られ、南海に散ったと伝うニュースだった。今更あの風波の尋常でなかった事が、今,畳の上を滑るが如く進む我々に、悪夢の如く思い出されるのだった。
 南方基地らしく、強い光線に映える沢山の銀色のタンクの群が椰子の木と美しい調和を見せている。激しい風波と十日間近く聞い続けて来た有馬山丸のスクリューは,感無量の態でデッキに雀の如く並んで居る我々の知らぬ間にピタリと止まり、始は静かに桟橋に横付けになった。

浅橋

 桟橋のあちこちに書かれた“Awas-Api”(火気注意)なる初めてお目に掛かるマレイ語が先ず目に飛びこんで来た。そして私共グループに向かって腕も折れよとばかり手を振っている長刀の徴員姿が目に入った。
「あッ,関口君だ、おーイ」
「そうだ!関口さんだ。ウオーィ!」
と我々はデッキの上から呼び掛ける。既に別れて以来一年余の関口君が昭南の南方燃料版本部に勤務して居たのである。やがて桟橋に降り立った我々に、髭の濃い類を縦ばせた関口君か走り寄って来た。
「貴方や小川さん,丸尾君が感々来ると伝う事は編成表で知って居たんですよ。疲れたでしょう?」
「イヤ、全く大変な荒れでネ。よくぞ無事着いたと伝った所サ。何しろ胎長が始めてと玉う荒れ方だったとさ」
「何れ皆の配属先が決まるんだが、それまでに何日かあるから、まあゆっくり寝て下さい。その内。内地の話でも聞かせて貰いますよ」
「O・K」
辺りの気配で我々だけ話を続ける事も出来なかった。我々は南兵営とかに行くバスに乗せられて直ちに出発せねばならなかった。
 私共を悩ました軍用犬が十匹、昭南の土を踏まずに昇天したそうだ。苦しい,悲しい数々の思い出の何もかもを忘れて新しい段階に,希望を持って我々は進まねばならなかった。着たきり雀で汐風と,雨と、汗の中で十日間もすごした事で妙な体臭となってアった我々が、丘の上の南長営の大きな窓から遙かに海と青い空を眺めながらLux の泡で身を清めた時、此のすがすがしいMandi (水浴)の味が、新しい段階に入った事をしみじみ感じさせ、南十星の瞬く昭南の初夜を迎えたのである。

(続く)


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