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Yeti Cycles 後編


  

エレベーテッドチェーンステーとは

Richard Cunningham

MANTIS BICYCLESの設立者で彼はアルミニウムとクロモリを使った、複合フレームやエレベーテッドチェーンステーの生みの親です

1985 MANTIS XCR
1986 MANTIS XCR Composite

Fork設計を見直して2インチのフォークレーキを1.5インチにして細やかなハンドリングを実現している
リアはクロムメッキを施したスチール素材
魔法のような乗り心地と評される
複合素材についての説明

XCRはすぐに人気を博し、マンティスによって制作が行われ ゲイリーフィッシャー ニシキ クワハラ、などの企業にライセンス供与し、有名なデザインの1つになりました

XCRのデザイナーRichard Cunninghamは
West Coast Cycleと契約をした。
WCCはHaro&Nishikiの親会社
NISHIKI ALIEN

開発にRichard Cunninghamが加わることでNISHIKI ALIENを完成させました。

1990年 MBAに掲載されたMANTIS FLYING V
当時多かったチェーンによるトラブル

MOUNTAIN BIKE ACTION(以下MBA)
の評価は好調でした
これでメカトラブルが減少し
タイヤクリアランスを増やせるようになり
ホイールベースを短くすることが可能でした

90年代前半までに全てのレースシーンで
エレベーテッドチェーンステーフレーム
が採用されるだろうと思われていました。

当時MBAの影響は凄まじく様々なメーカー
がエレベーテッドチェーンステーを備えた
フレーム開発へ乗り出して行くことになります。

1990 Extreme Draco


1991  Merlin Project E
1990  Koga Miyata Ridgerunner Alloy

YETI Ultimateについて

筆者のULTIMATE

1988年の秋頃Mountain BikeAction誌の編集者であるJodyWeiselが同僚と昼食を取っていました。何故か興奮気味に喋っています。彼は度々雑誌のアイデアを持ってきましたが、雑誌の目玉になるような、良いアイデアを得られずにいました。

その日の午前JodyWeiselは取材に訪れていた
Richard Cunninghamの店でエレベーテッドチェーンステー付きのMTBを目撃したのです。彼は雑誌を盛り上げる最新のアイデアの方向性をついに見つけ出しました。

Mountain bike action
「究極のMTB」を作ることになります。

MBAに掲載された初期の設計図
(1989年5月号)

彼らは当初究極の定義で揉めていたようだ
何を持って究極とするのか?は人によって違う為、議論は加熱し互いが出したアイデアを否定する為のアイデアを出すのに必死になっていたようだ。JodyWeiselがMantisに行ったことでこの企画の流れは大きく変わった。
方向性が定まったといっていいだろう
Richard Cunningham、Gary Fisherがこの企画について意見し、二人の話は概ね一致していた。この後Yeti CyclesのオーナーのJohn Parkerが偶然やってきたようだ。
YETIがMTBの設計に長けていることを知っている彼はその流れでYeti に究極(未来のMTB)の製造を依頼することにした。
彼は興奮していたのも相まって、店で見たものを上手く言葉に説明できません
そのことに不満を感じた彼は、置いてあった紙皿をひっくり返し、デザインの大まかなコンセプトを書き始めました。
それをJohn Parkerの手に押し込んで
「これだ! このバイクを作ってほしい。」
と頼みこみました。

1989年6月号
設計図の作成チューブの仮止め作業は
Chris Hertingが担当して
本溶接はFTWが行ったようだ
FTWの溶接が綺麗な為、MBAはあえて塗装は行わず
クリアだけを吹いて試走を行う
1986年6月号

こうして始まったMBAの特集
「We BuildtheBike of the Future」は 1989年5月から7月までの3部構成のストーリーでYetiCyclesのChris Hertingによって製作されたまったく新しいフレームを掲載しました。John Parkerは信頼するChris Hertingに紙皿の絵を悪路の走行に耐えることができるMTBにすることを頼んでいました。

1989年7月号
プロトタイプの試験走行
YETIの特徴であるループテイルはまだない
当初ステムはフィッシャーオーバサイズを変換するシムを噛ませる予定だったがYETIは専用ステムも製造することにした
泥がケーブル、BBにかからない等YETIらしさ
は共同プロジェクトで有ろうと失われていない
1989年7月号
GRAFTONのパーツが確認できるこの頃から協力関係だったようだ、出っ張りがなく足に引っ掛からないブレーキで性能もいいと非常に高評価である

BBハイトが高い為、防塵性能に優れたXTボトムブラケットではなく、DURA-ACE7400にして回転性能をあげているパーツアッセンブルはMBAが選定しているようだ
1989年7月号
フレームデザインを借用はしたが
MBAのジオメトリー、アイデアを付け加えた
究極のMTBをYETIと共に制作した
1989年7月号
Jon Tomac がMBA&YETIの為にテストした
設計には彼の意見が反映され彼が好みそうな
ジオメトリーに仕上がっている
全体図
全てTrueTemperのチューブで製造された

この企画はテストライダー、ひいては読者を驚かせることになりました。
記事は大ヒットし、業界最大手のMTB専門誌MBAでYeti Cyclesの名前がこの特集「未来のMTB」で業界全体に知れ渡ることになります
John Parkerこの企画にビジネスの匂い、新たな可能性を嗅ぎつけ、一度限りの企画ではなく量産 販売を行うとMBAで喧伝しました。

1990 Yeti Ultimate . part 1

フレームのチューブはTrueTemperチューブからYETIが好んで使用するPatco チューブに変更された。通常のダイヤモンドフレームではない複雑な構造の為フレームサイズ変更を可能にするのにかなり苦労したようだ

1990 Yeti Ultimate . part 2

重量はけして軽量ではないが、ライダーの要求に答えるバイク、高速の下りの走行に優れている後輪荷重が重くかかるように設計している為登りも力を入れやすく、下りはフロントが軽い為ステアリングがいい、だがF.R.O.
同様フォークに独特の癖がある為注意が必要になる

ケーブルインストール手順
1990 YETI Ultimate
協力関係だったCampagnoloパーツが装備される

MBA記事のバイクはYETIとMBAの製品でしたがトレードマークの「ループテイル」が登場するまでは真にYETIのフレームとは言えませんでした。

ChrisHertingはYETIで生産され、消費者に販売することができる、MBAの究極のMTBを製作するという作業を任されました。

MTBの名前はYeti Ultimate

Yeti UltimateはCatalogでプロダクションバイクとして紹介され、NORBAレースサーキットの目玉として紹介されました。

ChrisHertingとYETIのチームが製造上の問題と大量生産の準備を行なっている最中、世界中の読者はUltimateの販売を辛抱強く待っていました。

1989年終わり頃
ついにYeti Ultimateが発売されたのです。

初期の物はFTWのアルミステムが付属する
レースシーンでの活躍
製造の様子

シートチューブとリアのループテイルを繋ぐセクションを製造するのがとても難しく、作業に慣れていない溶接工達は長すぎる作業に時間が掛かり、それにJohn Parkerは苛立ち「お前達いつまで恋文を書いているんだ!」と怒ったようだ
溶接工達はこのことから
ラブストーリーパイプと呼んでいた

プロトタイプと製品版の違い

FTWステムは最初期のみアルミニウムでスチール製の物に変更されている
スチール製YETIステム
FTWデザインではあるが、彼が一任して製造していたわけではない YETIには複数の優れた溶接工がいる
プロトタイプ
製品版で改修した部分
ラブストーリーパイプ
製品版ではこのワイヤーリード方式は廃止され
製品版で滑車が装備されるようになった
初期の物には赤色のアルマイトが施されたプーリーが装備される
プロトタイプ
製品版ではダウンチューブを曲げてBBに繋ぐ形状に変更され、ボトルケージダボが増設された
フレーム中央のチューブが溶接付けになっている

1989〜1993YETI ULTIMATE

1989年写真の仕様で2700ドル
bullseye+XT今までのYETIらしい仕様だ
1991
YETIフォーク&ステムが廃止になり
ANSWER社に製造を委託した
answer accu trax fork
answer atac stemに変更される
1993
前編で紹介したYETIのTeamCutが行われ
重量の削減が行われた。

ループテイルの構造の一部変更
チェーンステーが内側に若干撓むような設計へ

answer accu trax forkの設計に変更が行われオフセットが少し伸びている
1‐1/1→1 -1/2オフセットに変更
直付けクランプの採用

エレベーテッドチェーンステーの評価

歴史というのは常に未来からの観測であるエレベーテッドチェーンステーは確かに流行ったがそれは一過性の流行に過ぎなかった。

YETIもULTIMATEの製造は続けてはいたが、93年以降カタログからは姿を消してしまった。

何故市場から姿を消してしまったのか、理由を掘り下げていきたいと思う

①変速機の性能向上
これにより通常のダイヤモンドフレームでも内側のチェーン落ちの頻度が格段に減った

②市場がサスペンション&フルサスペンションに流れてしまった。

サスペンション非対応の設計をしている為
(Richard Cunninghamは当初サスペンションに否定的だった)
※この時代アメリカビルダー達は腕や脚の撓りで充分にサスペンションの代わりになるという考え方が多かった

③リム幅の減少
90年代前半のMTBシーンではロードと同じ細いナローリムが多く採用され、せっかく太いタイヤ、太いリムをいれる為に開けていたクリアランスが無駄になってしまった。

④フレームの重量増加 軽量パーツ重視の傾向

90年代前半は無茶な軽量化や軽量パーツが流行りダイヤモンドフレームより重量が増加するエレベーテッドフレームは軽量化重視のXCライダーには疎まれていたようだ

⑤フレームの撓み

チェーンステーが従来の位置にないので力強くペダルを踏んだ時にボトムブラケットが左右に撓む 構造上、横剛性がない

⑥フレームが破損する

トップチューブからシートチューブまでの鋼管が長い為、撓りが起こり、シートチューブ接続部分が破損する恐れがある
(Chris Hertingはこれに対応する為に製造時シートチューブに変更を加えたと思われる)

以上を踏まえるとダイヤモンドフレームに対しての優位性が殆どない為、結果的に流行らなかったのだと考えられる製造にも時間がかかり工程もダイヤモンドフレームに比べて複雑になる為、コストがかかる仕掛けだったようだ

Richard Cunninghamが市場やMTBシーンの動向を読み切れなかったのもあるだろう

しかし全てが無駄になった訳ではない、彼が考案したからこそグラベルロードでは復活の兆しを見せていたり、左右非対称のエレベーテッドチェーンステーを持ったマレットバイクなどが登場している

何れMTBにもブームが一巡する時が来るのかも知れない

Yeti Cycles最盛期とその後について

1995年 この年はMTBブームの丁度折返しに当たるという2000年代に迫ると有名ブランドの合併吸収倒産が目立つ様になる

Missy Giove
Jimmy Deaton
Miles Rockwell

話を戻して、1995年YETIはSCHWINN傘下になっていた。正確にはSCHWINNを使って親会社である(SCOTT SPORT GROUP)
が先導して買収を行なった。

SCHWINNがYETIを買収した
「YETIは自治権がある、YETIは今までと変わらない
開発資金困ることなく、事業規模を拡大できる」
John Parkerより

SCHWINNはMTBのノウハウと市場を求めて高性能なレースマシンを作るYETIを選び 

YETIは高性能レースマシン開発の為の資金をSCHWINNに求めたお互いの利害は一致していた。

売却価格は100万〜200万ドルの間のようだ
当初はSCHWINNの上位モデルの半分程の生産をYETIは任せられていた。

YETI製造の物
SCHWINNのロゴが入ったYETI製レースバイク
95年 SCHWINNとYETI は
別々のチームとしてレースを走る
Colin Bailey
雪上の坂で200キロを出したcarolyn curl
とYETI製スピードバイク
小林可奈子さんのYETI これも特注仕様のようだ
LTとASが兼用のフレーム

YETIはライダーにあったレースバイクを作ることに定評がある

YETIはこの時期沢山の優れたバイクを生み出した。
しかしSCHWINNはYETIに全てを頼り切りになり自社開発を怠ることになった。
YETIの公式サイトには
皮肉気味にSCHWINNは自分自身のグリップを失ったと書かれている

公式サイトより

1996年 4月に弁護士がYETIの為にやってきた
「YETIとSCHWINNは気が合わないYETIの資源を利用しSCHWINNは自分の体に血液を流している」Jerry Martinより

1996年 YETIの社員はまだ大切にされていた

1996 Yeti Sherpa
(エベレストの東に住んでいる山岳民族の名称)

F.R.O.の代わりに登場したスチールバイク
TANGEの4130チューブを使用
プレステージパイプを使うのは辞めたようだ
コストカットだと思われる
殆どF.R.O.と変わらないが94年のF.R.Oのカンチブレーキ台座に戻したりヘッドサイズを当時の汎用規格
オーバーサイズ(28.6mm)に変更を行っている
エンド部分のTeamCutは行わなくなった。
1996  YETI KOKOPELLI
(INDIANに伝わる古い精霊の名)
A.R.C.のループテイルを削除してコストカットを行い、ヘッドサイズをオーバーサイズに変更して扱い安く手軽になった。大衆向けのYETIフレーム
John Parkerは
KOKOPELLIを作ったことを後悔しているようだ
悪い考えだったと

レーサー達に妥協するような選択肢を与えるべきではなかった。

トレードマークであるYETIのループテイルを削除してコストカットしたのも後悔しているのかも知れない

YETIの歴代バイクが紹介されている
公式サイトには
SHERPA
KOKOPELLI の2台は登場しない

Alloyで登場したF.R.O. 
この時期からトロイリーデザインによる
グラフィックが施されている
F.R.O. Chromo 1997年
丹下の4130チューブで製造される
1997  YETI AS−3

1997年YETIはSCHWINN設計のAS-3を製作し、その為古くなっていたARC―ASを置き換えた。しかしこれを行なったJohn ParkerがYETIをクビになった。後述でJohn Parker自身は「自分が自分であるために必要だったから」と語っている。YETIの創業者として譲れない何かがあったのだろう

95年にJohn ParkerはSCHWINNから大金を得たが話していたような自治権はYETIにはなかったことがわかる

YETIをクビになった後
John Parkerは古巣であるハリウッドでまた
特殊効果を行う仕事を行うことになる

1998年
John Parkerが
(マウテンバイクの殿堂入り)
Mountain Bike Hall of Fame 
MTBの発展に大きく貢献した人に送られる

1998年
SCHWINNはYETIブランドを放置していた
YETIが今後どうなるのかと少数が見守り
YETIとして何とかしなければと思っていたがSCHWINN側は何とも思っていなかった。

この年に親会社であるSSGが(SCHWINN)YETIを売りに出してしまった。

1999 YETI A.R.C. 

F.R.O.が廃止になりA.R.Cが3台並べられる
ライナップになる
1999年2月19日
SCHWINN/GTは倉庫の統合の為従業員の解雇を行う
YETIの従業員31名を解雇し会社は新しい仕事探しを支援するとの記載

1999年の春頃に
DurangoのYETI工房をSCHWINNが閉鎖

この時のYETIには
Joe Hendrickson ChrisDanforth
の二人しか残っていなかった。

1999年8月9日
YETIの買収について
工房をコロラド州ウィートリッジに移転
YETIの主要な人材、設備も引き継ぐ
新副社長Chris Conroy氏は2ヶ月後に工場を
稼働予定だと語る

この状態のままYETIはSCHWINN/GTからVolantに売却。売却額は〜120万ドル程当時Appleの最高責任者だったマイク・マークラが主な出資者に上げられる彼らはVolant skisのビジネス補完の為にYETIの買収を行ったようだ。

「SCHWINNの所有権は
YETIにとって暗黒時代だった」

「SCHWINNの為にローエンドMTBの製造を大量に行っていたのでYETIの生産ラインは長年放置され壊滅的な状態だった」Chris Conroyより

意思決定はすべてオーナーのVolant社に有りYETIは何も関与できなかった。しかも自転車業界をほとんど知らない社長はVolantとの兼任だった。

2001年
YETIの自転車は好調に売れ、工場も整い始めた。
そして、Volantが事業を辞めるというニュースが駆け巡った。
好調だったYETIも危うく巻き込まれるかに思われたが……

数人の従業員、友人達がVolantから
Yeti Cyclesを買った、YETIを救うまでのリミットはたった1週間だったが、彼らはやり遂げたのだ。

2001年11月2日に契約書にサイン

YETIはようやくあの頃に戻ることができた

大企業(大金)に頼ることもなく

YETIのことを大切に思う人達の手の中に

 yeti cyclesのメンバー
yeti cyclesのメンバー

参考、文献等

YETIファンのサイト

https://theradavist.com/second-spin-cycles-1985-yeti-built-and-sold-by-john-parker/

http://www.genesbmx.com/schwinn-news.html

駆者に深い感謝を

※リチャードカニンガムとジョンパーカーは創業以来親交があり仲がいい
※リチャードカニンガムはのちに
Mountain bike actionの編集者になる  
※三者が比較的良好な関係の為実現した企画だった。
※ジョンパーカーもYETIのセールスの為、治具を更新したことをMBAに伝え、試作品のバイクを作るなら任せてくれと連絡をしていたようだ
ゲイリーフィッシャーもMBAに度々意見を行っていた。当時最新だったフィッシャーオーバーサイズのヘッドを提供したのも彼だ













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