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恋人と別れることになりものすごくブログを書きたい、しかし開設すらできないでいるのでnoteにとりあえず書くことにした。

 Sちゃんと別れることになった。

 'It's a long story' (話すと長いのよ)という感じなんだけど。気が向いたら書きたい。ブログを開設したいんだけど、ワードプレスがエクストラのお金を請求してきて、もう挫折。そんなこんなしながら、もう外は暗い。


 先日、オーストラリアのシドニーで三週間ほどの時間を過ごした。観光地巡りをしようとすると途端につまらなくなるシドニーの、郊外のSちゃんの部屋に居候して、洗濯物を干したりたたんだり、レバノン料理を食べたりして過ごした。そこから私はおしゃれ雑貨屋でノートを買い、すごい勢いで人生を模索し始めた。

 最初はもちろん、どうやってSちゃんと生きていくか、に絞って人生計画を練った。


 私は別に日本が好きではない。というか、日本ではかなり浮いていると思う。新宿を歩いていたらドラッグストアの店員に「ハロー!!!」と元気に挨拶され買い物かごを押し付けられたし、羽田空港で日本人のインフォメーションのお姉さんに謎の言語で話しかけられたこともある。何をもって「日本人ではないな、こいつ」と判断しているのかはマジでわからないけど、黙っているとよくそういう目にあう。


 私は大学でグラフィックデザイナーになるべく勉強しているけど、一年生の時にアルバイトしていたデザイン事務所(セクハラ、パワハラ、長時間労働、低賃金、斜陽産業なのに仕事は多い)をみて、「日本では働きたくねえな」と強く思った。まず就活がいやだ。きもい。

 日本に帰りたくなくて帰国便では泣いた。すごい勢いで涙と鼻水を垂れ流しながら、それでも気にせずひたすら泣いた。

 日本に帰りたくない。若い女性として、デザイナーの卵として、レズビアンとして、人間として、日本で生きていくのがつらい。日本的なもろもろに足首を掴まれて、煌々と24時間365日その火を絶やさず最低時給で働くコンビニエンスストアに引き摺り込まれていくのはもういや。失恋したこともあって、「飛行機が落ちて死んじゃわないかな」と割と本気で考えた。

 無事に着陸したとのアナウンスを聞いて、私はめちゃくちゃ落ち込んだ。オーストラリアを離陸した時点でもう日本に戻る以外の道は基本的には残されていないということも私の心を握りしめた。降りた瞬間冬で、動く歩道の上で放心状態になりながら「帰ってきてしまった…」と思った。

 少しずつシドニーとSちゃんを忘れていく心が苦しい。シドニーで感じた「日本の常識は日本の常識でしかない」っていう感覚も、日本的なもろもろがどんどん上から塗り込んでいって少しずつ遠くなっている。ジタバタする。人生ノート(と名前をつけた)を開くと、Town Hallに向かう電車の中書いた自分の夢がぎっしり黒々書かれている。

 オーストラリアで、Sちゃんのお母さんに会った。Sちゃんのお母さんは、70年代にオーストラリアに移住した沖縄の人で、現在はオーストラリア人として暮らしている。エネルギッシュな彼女の言葉に心を打たれて、自分の好きな国で生きる選択をしてもいいんじゃないか。と本気で思い始めた。

 人生まだまだ模索中だけど、私は日本でやらなくちゃいけないことをさっさと片付けてオーストラリアに帰るべく、本気で模索を始めた。

 自分の人生を生きてやるからな。


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