大晦日、ファミマにて

三日月が弓だったら、金星をまっすぐ撃ち抜けるような澄んだ夜だ。視界も良好。明日から便宜上新しい年となる。人間が制定したタイムゾーンによって一年は365日に分けられ、一時間は60分として一応みんながそれに従っている。人間の作り出したシステムなのに、なんだかありがたがっているのが不思議だ。天邪鬼の私がなんと言おうとともかく、明日は新しい年。今日は大晦日、ニューイヤーイブである。大晦日は家族で集まって過ごすのが幸せという社会通念に従い、我が家も例年通り正月休みを過ごす。しかし実際にそれが幸せなのかと言われればまたそれも別の話である。

買い出しに行った両親と友達と遊びに行った弟がいないこのベッドタウンの一軒家は寒々しい。石油ストーブをガンガン焚いても冷え冷えとしたリビングで、ブランケットをかけながら私はこれを書いている。大晦日。

大晦日は先述したように家族で過ごす日としてそれとなく印象付けられているため、私の少ない友人たちもきっとそれに従っている。朝起きてから一体何度スマホを開いて、ツイッターのフィードをリフレッシュしたことだろう。親指がふやけるほどカスカスと情報が飛び交う。誰か、私の隣にきてくれ。本を読んでいてもいい……しかしそんな願いも叶わない。誰もタイムラインにいない。ラインは「既読」という小さい文字だけが工事現場の整備員のように居心地悪そうに立っているだけで、私のスマホはうんともすんとも言わず、高級な置き時計と化している。今はきっと誰もが誰か大切な(またはそうすべきと言われている)人たちと過ごしているのだろう。その輪の中に私はいない。


2019年最後の夢は悪夢三本立てだった。内容すら覚えていないが、ひたすら胸糞の悪い不安が増幅する夢だった。具体的な理由のある大きな不安に常に取り憑かれていて、これはそろそろ病院に行かなくてはならないのではないか、と感じ始めている。

朝起きてもその不安からは逃げられず、むかむかしながら一日をやり過ごした。部屋を掃除しても、気持ちは晴れない。この気持ちを書き出すにも語彙が足りない。macbookproを叩きながら淀んでいく感覚を振り払う。足元からズブズブ沈んでいくようで苦しい。とりあえず手を離して、コートを羽織り、すっぴんにメガネの状態で風吹き荒れる外へ飛び出した。


雪山のように風吹きすさぶ地元を歩きながら、コートのボタンを閉めた。冬だ。夜の縁が夕方を追いやってすっきりと晴れた空には三日月が浮かんでいた。

何が必要とかいうわけでもないのにコンビニにきた。こんな時期にも働いている人がいること、そしてここではいつも通りに日々が運営されていることに救われる思いがした。電話片手にレジの前に立つおじさん、ベビーカーを押す女の人、商品を陳列するアルバイトの人、日常を構成する人々が当たり前にいつも通りにいることが心を落ち着かせた。いつもはイライラする店内放送ももはや気持ちが良かった。みんなそれぞれ孤独であるという事実を、年末は忘れそうになる。どんな日々も日常の延長でしかないという感覚がコンビニの中を満たしていた。

店内を何周かしてアメリカンドッグと歌舞伎揚を買った。アメリカンドッグだけだと、手ぶらでレジに向かうのが恥ずかしいので、ある意味疑似餌的な歌舞伎揚である。

店を出て、アメリカンドッグが包まれている紙袋を破くとスポーンと宙を舞い、地面にポトリと落ちた。三秒ルールで拾い上げ、何度かはたいてから口に突っ込んだ。これで諦めてたまるか。


風が冷たい。十二月も下旬で、本格的に冬の気温だ。冷える両手をポケットに突っ込んで歩く。耳元で風がひゅんひゅん鳴いているのを聴きながら、すっかり人のいないベッドタウンを歩く。住宅はオレンジ色の明るい光を窓から垂れ流している。この中で皆、家族が集まっているのだろう。でもその中にも孤独な人たちはいて、というか、まず孤独でない人たちなど存在しないのだ。人が皆緩やかに死に向かっているように、孤独であるのは前提として、皆生きているのだ。それを知らずに生きている人たちは見て見ぬ振りをしているだけだ。みんな孤独で、それを受け入れるほかない。

そんなことを思いながら風に吹かれていたら頭が冷えてきて、いい感じに冷静になった。大荒れだった心がある程度は静かになった。



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