見えない壁を殴っていた話
Mさんと茶店で落ち合う。突然バカみたいに冷え込んだ春の日。桜ももうとっくに散り、渋谷の駅前の寂しい桜もすっかり緑に戻ってしまった。半年ぶりに会ったMさんは、Mさんらしさをアップデートしながらも結構印象が変わって、ますます洗練された印象だった。
Mさんは個人的に慕っているデザイナーの先輩であり、お友達だ。とても成熟した考えを持っていて、はっとさせられることも多い。
それに対して私はというと、結局ずっと芋っぽいまま学部3年になった。カレンダーに「就職ガイダンス」という文字が登場するようになり、人生プランについて考えざるを得ないような瞬間が増えた。
と言っても、私は二月の中旬から三月の頭までの三週間、ひたすら自分の人生をどう生きるかということを考えた。
シドニーシティレールの二人席を占領しながらTypoで買ったノートを開き、日本語で箇条書きにする。「自分の人生どうしていきたいのか」、「Sちゃんとここで生きていきたい」。それを書いてからTownhallで降りたのも覚えている。
しかしそれがSちゃんに振られてから、無残にも崩れ去った。私は、自分なりに描いた地図が焼け落ちていくのをただ呆然と見ていることしかできなかった。
そんな感じで一からやり直しになった私の人生プランに、Sちゃんは別れ際「自分の人生を悔いのないように生きて」と繰り返していたのを覚えている。自分の人生、自分の人生。
「でも死にたいって思ったことはあんまりないです。死んだら終わりだから」
アイスティーをすすりながら私はMさんに打ち明ける。母が死の淵をさまよった経験から、もう死ぬことが救済だとは考えなくなった。死んだら終わりだ。生きていればまたあの人にも、いつか会えるかもしれない。
「それよりも逃げたいって感じ、ここから早く出ていきたい。羽田空港の動く歩道に乗りながら、ほんと、あー終わった。帰って来てしまった、って絶望しましたもん」
Mさんはこぼれる前髪を押さえながらまっすぐ見据えて言う。
「それって『死にたい』じゃなくて『生きたい』なんじゃないの?」
「どういうことですか」
「日本にいるときは死んでるみたいだけど、シドニーでは生き生きしていたわけでしょ。つまりもっと生きたいってことじゃない?それって、全然マイナスじゃないじゃん、『生きたい』だよ」
「待ってください、じゃあ日本は」
「日本はみうちゃんにとっては棺桶だよ」
「棺桶」
東京に戻る便の中で、本気で飛行機が落っこちちゃえばいいのにと思った。羽田空港に無事着陸したとき、安心感よりも苛立ちと目の前が真っ暗になるような不安感と絶望感に襲われ他のを覚えている。飛行機は基本的には離陸したら着陸しなくてはならないので、着陸しないでほしいと願い続けるのは無理があるのはわかりつつも、それでもどうにかならないかと泣き続けた。
タワーレコードの看板が少しずつ明るくなる。
「え、生きたいな」
「早く生まれないと」
「そうですね」
新卒でどこかの会社に入って経験を積むことが理想。3年以上働かないといけない。そうなると、これから向こう5年は日本に、棺桶の中にいることになる。それは無理だ、その前に本物の棺桶の中に自分の身を投げてしまうかもしれない。
新卒を蹴り、海外に飛ぶことができない理由をできるだけ多く挙げる私を、Mさんは宇宙人でも見るような目で見た。
「そういうことって誰に言われているの?」
え、誰?
「親とか?」
親には真面目に留学について話していない。でも親は基本的に放っておいてくれるし、自分が果たせなかったバイリンガルになる夢を子供である私に託して英才教育を施してきた人なので、問題は親ではない。
「え、誰だろう」
「は」
「…社会、とか」
「なにそれ」
海外渡航とか、海外就職とかそういったものの情報を集めようと、そういう体験や情報を発信している人の周りには、勇気がなくて踏み出せなかった人たちがうじゃうじゃまとわりつきながらその人たちに文句を言っている。「そんなに甘くないんだよ」「どうせ無理に決まっているだろ」。
でもこの人たちって誰なんだ?
「なんか怖いんだけど。彼氏の愚痴とか惚気とか聞かされてたのに実際は彼氏いないんだけどねって言われたかんじ。みうちゃんの言ってる、その選択肢を選べない壁ってなんなの?最初は何か具体的に、親が反対しててお金もなくて、だと思ったのに、そうじゃないじゃん。みうちゃんは一体なにと戦ってるの?」
「……『新卒で就職できなかったら死ぬ』みたいな規範と、『そんなに甘くないよ』とか言ってるおじさんたちです」
「いや、私の周り新卒で就職してる人の方が少ないよ。そうしたくてそうする方が自分にとっていいと思う人はするべきだけど、そう思わない人たちはしてない。でも普通に生きてるし。あと基本的にどのみち進んでも甘くはないよ。厳しいけど、自分のやりたくない厳しいことを耐えるのと、自分がやりたい厳しいことを耐えるの、どっちがいい?」
足を組み直した時にあたって位置がずれたままの机に三杯目のお冷やが運ばれてくる。
「そうですね」
ついこの間、辛くてやりたくもないコンビニバイトをさっさと辞めた。時間の無駄だし、やりたくもないことに辛い思いをし続けるのはバカバカしかったからだ。バイトはきっぱり辞められたが、日本に帰ってきてからは、色々な理由をつけて、棺桶の外には出られないと言い続けている。まやかしみたいな理由を盾に、みんなと同じ人生のコースを選ばざるを得ない状況に自分を追い込み、「普通」になろうとしていた。
「普通」とか、「人生のレール」とかなんなんだ、くそくらえ。私は私の人生を生きなければ。
「私、見えない壁を殴ってたみたいです」
「そうだよ。見えないドラゴンと戦ってるドン・キホーテみたい」
「うわあ。怖い。私は一体なにと戦ってたの」
「怖いのはこっちだよ。なにこの怖い話」
「自分が怖い」
「こわ」
「でも今日Mさんに会えてよかったです。Mさんに『ねえ、見えない壁殴ってるよ』て言われなかったら、多分ずっと見えない壁を殴り続けたと思うので」
「それやばいね」
お尻の形に凹んだソファから少し立ち上がってまた座り直し、もう何杯目かわからないお冷やを飲む。
自分が殴っていたと思っていた壁は実は暖簾ですらなく、ただのホログラムか何かだった。それに気づいて正気に戻り、辺りを見渡すと、ハードルはいくつかあったけれど、ある程度舗装された道が広がっていた。なんじゃこりゃ。
Mさんに肩を叩かれて、本当の意味で自分の人生を生きる準備が始まった気がする。
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