「競馬の歴史」を学ぶ ~10年ごと1頭だけ選んでみた~【1860~1930年代】
【はじめに】
日本における競馬(近代競馬、洋式競馬)の歴史は1860年代に始まり、実に160年になります。
今回は、その歴史をざっくり10年ごとに区切り、その時代を代表する名馬を1頭選んで紹介していきたいと思います。
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1860年代:サムライ
現在、確認できる最古の居留地競馬が1860年。そこからの10年で、幕末から明治維新に至る訳ですが、慶応年間に建設され、戦前に至るまで日本競馬の中心地となる「根岸(横浜)競馬場」が、常設の競馬場として開かれます。
江戸の終わり:1867年にデビューし、明治時代にかけて活躍した「日本馬」の競走馬のスター第1号こそが【サムライ(Samourai)】です。
(注)『競馬の文化村もきち倶楽部』から、立川健治氏の連載『失われてしまった馬たち』に頼って、この時代の名馬を選定しました。
ポニーの様な体格、競走馬として育てられた訳でなかった日本馬が、中国馬を相手に互角(以上)の活躍を見せたということで、発足当初の根岸競馬で注目の的だったのだそうです。
1870年代:タイフーン
根岸競馬を模倣するかのように、1870年代には東京などでも競馬が広まり、招魂社(現・靖国神社)、吹上御苑、三田育種馬場、戸山学校などで開催。古くからの神社での祭典としての競馬が洋式化がみられた時代です。
【サムライ】から世代交代で日本馬のチャンピオンとなった「モクテズマ」が急死し、1870年代の日本馬の中心として中国馬に立ち向かったのが、小柄で闘志むき出しの【タイフーン】でした。
1871年から1879年まで引退をせず、48戦23勝。中国馬を幾度も破る活躍を見せた、1870年代を代表する1頭です。
1880年代:英(ハナブサ)
共同競馬会社による上野不忍池での西洋競馬が、欧風化政策の一環としても重要だった時代、「鎌倉」「岩川」「墨染」などの名馬が1880年代の前半を彩りますが、その後、1880年代後半になると「英(ハナブサ)」と「播磨」という“日本馬”が、他を寄せ付けぬ強さを見せます。
昭和にも「アラブ血量」を偽るテンプラ疑惑が頻発しましたが、どうやら、この時代の「英」・「播磨」という“日本馬”2頭も、本当に日本馬なのか?本当は雑種馬なんじゃないか? という疑惑が持たれたまま、日本馬として出走し続け、2頭によるマッチ・レース的な競走も多かったそうです。
強すぎる“日本馬”が、日本馬としてレースに出走登録してくるため、その他の日本馬達が出走を取り消すことも増え、『競走体系(番組編成)が崩れ』始めてしまう事態に。
デビュー3シーズン後の1887年秋には、主要競馬倶楽部から「出走を拒否」され、英(と播磨は)実質的に現役引退に追い込まれることとなりました。
これ以降、「日本馬」限定競走から、産地を限定しない競走に移行していくこととなります。
(以上、『失われてしまった馬たち』を参考に要約)
1890年代:ミラ(ミラー)
1890年代になると、(俗に現在の天皇賞の前身とされる)『帝室御賞典』に当たるレースが定期的に開催され始めるなど、レース記録が、断片的に残り始めます。
そして、日清戦争を経験した1890年代の最後の年、『1899年9月、日本レース・倶楽部によって30頭のオーストラリア産軽種馬が輸入』された中の1頭が、牝馬【ミラ(現役名:ミラー)】でした。
血統書が無かったため血統不詳とされたものの、オーストラリア産で外見上ほぼ間違いなくサラブレッド(狭義『豪サラ』)であり、1899年にデビューすると、1901年にかけ13戦10勝、デビューから7連勝で『横浜ダービー』と『ジャパンセントレジャー』を制する優れた競走成績を残します。
そして19世紀に引退した馬たちと異なり、この「ミラ」辺りからの牝馬は、繁殖牝馬としても極めて優秀であり、産駒が現代にまで繋がっているなど、後世に影響を及ぼすこととなりました。
(※)「ミラ系」からは、日本ダービー馬が2頭(1932ワカタカ、1971ヒカルイマイ)の他、1967年の桜花賞馬・シーエース、1972年の皐月賞馬・ランドプリンスなどが輩出。
1900年代:第二メルボルン
その名(メルボルン)のとおりオーストラリア産まれで、血統書が無かったためサラブレッド系種にはなったものの、明治時代を代表する名競走馬となった「第二メルボルン」。
戦績については、諸説見当たったので、2つのサイトを下で紹介しますが、共通しているのは、『牝馬なのに牡馬相手に楽勝』『強すぎて他の馬が出走を取り消し、横浜ダービー含め幾つものレースが単走(1頭立て)となった』『デビューから連勝(一説に22連勝)を重ねた』点等が挙げられます。
( 同馬紹介記事 )
↓ 「うみねこ博物館」さん及び「弐段逆噴射」さんのページのリンク
《 1900年代後半の競馬の流れ 》
1905年
・(日清戦争に続き)日露戦争で軍馬の馬格の差が歴然となり、
軍馬改良が大きな課題として認識され、馬匹改良に着手。
・桂太郎内閣が、馬券発売を伴う競馬の開催を可能に。
1906年
~ 馬券黙認時代の始まり ~
・東京に池上競馬場が開場。日本人初の馬券発売を伴う開催。
・【第二メルボルン、日本に輸入されデビュー。】
1907~1908年
・【第二メルボルン、快進撃(1907年秋にかけて連勝)】
・1908年までに全国15か所に競馬場が開場するも、
治安悪化が顕著となり、突如、馬券発行が禁止。
~ 馬券黙認時代の終わり(僅か2年) ~
第二メルボルンが活躍したのは、明治の終わり、馬券の発売が黙認された時期と重なり、馬券発売の禁止以降に引退しました。
1900年代は、今の天皇賞の前身とされる『帝室御賞典』で第1回とカウントされるレースが開催されるとともに、地方にも競馬場が開設され、僅か2年ながら日本人による馬券発売を伴う競馬が開催された時期でした。
そんな狂乱の時代の明るいイメージと、その後の馬券禁止による暗いイメージの時代を駆け抜けたオーストラリア産まれの名牝を、1900年代を代表する1頭として選出したく思います。
1910年代:コイワヰ
時代が明治から大正に移り、大戦景気・大正デモクラシーなどの印象が強い1910年代ですが、競馬界は馬券発売が禁止され、経営難の競馬不況でした。
馬券売上が無くなり賞金が捻出できない→賞金が安いからレースに出せないという悪循環に陥ってしまい、レースを開催しても1頭しか出走せず、馬匹改良という目的(大義名分)が果たせなくなっていたのです。
そこで軍部を後ろ盾とする「馬政局」から補助金を捻出することに成功し、その補助金をもとに創設されたのが「優勝内国産馬連合競走(連合二哩)」という超ビッグレースでした。
(1着賞金3,000円は、全国の賞金の3%相当だったらしく:今で言うと数十億円規模? という桁違いのレースで、出走のハードルも高く生涯1度きりのチャンスという点では、今の日本ダービーに近い栄誉ある競走だった模様)
そのレースの創設と同じ1911年にデビューし、1910年代(馬券禁止時代)を代表する1頭となったのが【コイワヰ】です。
1907年に岩手・小岩井農場がイギリスから輸入した牝馬の1頭エナモールドが宿していた仔で、日本国内で産まれたために「日本馬」とされましたが、いわゆる『持込馬』と表現される存在であり、この時代において『別格』な強さを発揮することとなります。
鳴尾(阪神)所属で初の関東遠征となった現4歳春シーズンには、東京競馬に3回出走し全てレコード勝ち。『帝室御賞典』を制し翌週のレースでは、前年の連合二哩を14馬身差で圧勝した【ラングトン】に8馬身差の圧勝。
その後は、1913年春・横浜の帝室御賞典を制した以外は、目ぼしいビッグレースが無くなったものの、平場の古馬競走に出走し続け、82戦45勝という成績を残して引退します。
勝率こそ5割強ですが、ラングトンに圧勝した後の現4歳秋シーズン以降、160ポンド(≒72.6kg)という満量(最も重い斤量)を背負わされて、10kg以上も斤量の軽い馬を相手にしながらのレコード勝ちを連発していた中での勝率5割ですから、やはり格が違ったといえるでしょう。
1920年代:宝永
ちょうど、時代が大正から昭和に変わる時代で、1923年(大正12年)には、「(旧)競馬法」が施行され、15年ぶりに馬券発売が再開された時期。
前述の「連合二哩」が創設された1910~20年代において、2大競走となっていたのが、「帝室御賞典」と「連合二哩」です。この2つを制した馬を中心に、1920年代に入ると毎年のように『世代を代表する名馬』が伝わります。
《 1920年代前半の名馬(活躍年) 》
・1922年:イロハ
・1923年:ピューアゴウルド(10戦9勝)、フロラーカツプ
・1924年:バンザイ(13戦11勝2着2回)
また1920年代後半から1930年にかけて、「ナスノ」と「ハクシヨウ」というライバル対決が語り継がれるなど、時代の移り変わりを感じます。
そんな中、1920年代の1頭だけを選ぶのに、筆者は相当苦心して2頭に絞り込みました。それが上にも登場する「ピューアゴウルド」と「バンザイ」の2頭です。
【ピューアゴウルド】:1919年生まれ・牝馬
父:ガロン 母:宝永 通算成績10戦9勝
・生涯成績9割以上の一流馬は、史上でも極めて稀
・唯一の敗戦は69kgで初騎乗の騎手の騎乗ミス(出遅れ&無理な追い上げ)
・『不世出の名馬』と謳われる活躍を見せ引退
【バンザイ】:1921年生まれ・牡馬
父:ダイヤモンドウヱツデイング、母:宝永
通算成績13戦11勝(2着2回:連対率100%)
・2戦目の帝室御賞典を、日本レコードを2.29秒更新して優勝
・秋緒戦を2年連続2着とした以外は全勝、連対率100%
・引退後、政府購買馬の第1号として農林省に1万円で買い上げ。
どちらも1920年代に傑出した成績を残し、(唯一の弱点を言えば、重い斤量の経験に乏しい所ぐらいか)『甲乙つけがたい名馬』だなぁ、と悩んでいたところ、冷静に見返して、ハッと気づきました。両馬は姉弟であったと。
《 後の時代の名繁殖牝馬(例) 》
・【フリツパンシー】(顕彰馬2頭:セントライト、トサミドリ)
・【弟猛】(アラブの名馬:セイユウ、シユンエイ)
・【パシフィカス】(平成の名馬:ビワハヤヒデ、ナリタブライアン)
など歴史的名馬を複数頭輩出した名馬は、日本競馬史上、何頭も居ますが、帝室御賞典馬を4頭、世代を代表する馬を2頭輩出した【宝永】は、史上屈指の名牝ではないかと思います。
(※)1914年に阪神の帝室御賞典を制した【ホーエイ】と同じ馬だと見做すのが一般的となっており、競走成績も優秀だったと考えられます。
1930年代:クモハタ
1930年代に入ると、現代の中央競馬に繋がる物が多く誕生します。
各地に点在していた競馬倶楽部を解散し、中央組織として「日本競馬会」が発足し、『日本ダービー』を始めとするクラシック競走が発足すると共に、帝室御賞典が春・秋の年2回制となりました。
そうした1930年代の馬で、比較的著名で後世にも何とか伝わってくるのが、初代ダービー馬の【ワカタカ】や、第2代ダービー馬で重賞のレース名ともなった【カブトヤマ】などでしょうか。
しかし、第8代ダービー馬であるとともに、1930年代に活躍した馬の中で、唯一、JRA顕彰馬(殿堂入り)を果たしている【クモハタ】を、1930年代を代表する1頭に選びたいと思います。
JRA顕彰馬の中でも、比較的影が薄いと思われる【クモハタ】ですが、時代背景を抑えた上で理解すると、その凄さが分かるかと思います。
◎「競走馬」としては第8代東京優駿(日本ダービー)馬
・デビューしたのがダービー優勝の前の週
・デビュー2日前の2戦目で初勝利
※これらは事実上更新不可能な最短記録
◎「種牡馬」としては内国産馬初のリーディングサイアー
※リーディングサイアー:ざっくり最優秀種牡馬
・内国産馬がリーディングサイアーになるのは史上初
(これまで外国産馬を種牡馬として輸入した例ばかり)
・1952~1957年の6年間に渡り、連続でサイアー
(内国産馬としてはディープインパクトに次ぐ長期記録)
・内国産馬による中央競馬リーディングサイアーは、
2008年のアグネスタキオンまで半世紀誕生せず。
・代表産駒:メイヂヒカリと共に父子顕彰馬の快挙
そもそも「内国産馬が父」というだけで一段下に見られることもあった時代が戦前から大勢を占めていた中、1950年代に入って、日本国内で生まれた馬としては画期的な活躍を見せ、特に種牡馬としての活躍が高く評価されて、「JRA顕彰馬」に選出されたのです。
平成20年代以降は、父内国産馬によるリーディングサイアーが当たり前になりましたが、それまでは長らく「父内国産馬」は、マル父などと表記され、区別されてきたことを思えば、外国産馬に互角以上の繁殖成績を残した、【クモハタ】は、1930年代(戦前)から1950年代(戦後)にかけて活躍した馬として今でも取り上げるに値する名馬だと思います。
【おわりに】
ネット上には、ここまでの時代を取り扱ったサイトが、幾つかありますが、そのうち『内国産。』さんの「当サイトについて」から引用します。
現代の日本にあって、多くの場合、馬とはサラブレッドであり、競走馬です。しかしそれはここ4、50年のトレンドにすぎません。内燃機関や電信技術が普及する前の時代においては、馬は交通、運輸、通信における最高の手段だったのです。そしてまた、馬は帝国主義の時代における最大の軍事兵器でした。
そして、こちらのサイトさんじゃなかったかなぁ……と思いつつ、記憶を辿って書くのですが、(時節に合わせて一部加筆)
「日本ダービー」の創設(1932年)から数えて90年近く経過していますが、それ以前の近代競馬の歴史も70年近く(1860年からで72年)あります。
クラシック競走が確立してからの時代ばかりが語られがちですが、日本競馬の歴史は、『セントライトの三冠達成』でほぼ折り返し。それ以前で、それ以降とほぼ同じくらいの長さがあるのです。
その事実をしっかりと認識すると、競馬の歴史がより深みを増したものになるんじゃないかと思います。普通の人は、競馬の歴史と言ったときに、遡っても恐らくは「昭和時代」まででしょうから。
今回、明治よりも昔、江戸時代から昭和の始めまでを10年ごとに区切って、1頭の馬と共にご紹介してきましたが、次では、1940年代~2010年代までを振り返っていきます。ぜひ次回の記事もお楽しみにして下さい!