自動車・交通設備による権利侵害【原発・自動車産業レポ②】

前回は原発がどのように日本社会のなかで産業として成立し、政府の法整備によって産業として発展し各地方で批判の抑制としてその法整備が機能しながら各地に建設されてきた経緯と原発運用の限界について簡単に論じました。

今回は自動車と交通設備の問題についてです。原発と自動車や交通設備の問題は切り離せないものがあります。前回もその成り立ちからして類似するものがあると説明しました。今回、世界的な経済学者である宇沢弘文氏の書物『自動車の社会的費用』を引用します。



ちなみにこの書籍では読んで間もなく自動車交通や経済活動そのものが市民の権利に何らかのかたちで抵触せざるをえないと痛烈な批判から始まります。

日本における自動車通行の特徴を一言にいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで 自動車通行が社会的に認められ、許されているということである。 ところが、自動車通行にかぎらず、すべての経済活動は多かれ少なかれ、他の人々の市民的権利に なんらかの意味で抵触せざるをえないのが現状である。

『自動車の社会的費用』 著:宇沢弘文 岩波新書 2,3頁

歩行する権利について日常的な生活に及ぶ影響について論じるところから始まりますが、実際に自動車による交通事故での問題は誰もが認めるところですが、その影響の大きさゆえなのか「歩行」を侵害されていることについては意外とピンとこない人もいるかもしれません。

そもそも自動車に関しては死傷者が出て当たり前と思えてしまうほど日常的に多くの人が被害に遭遇しているようですが、よくよく考えてみると自動車交通という日常的な生活の中枢を占めるものによってこれほど死傷者が出てきていいものかという思いがあります。

また、実際にダメージを受けるのは被害者だけではありません。加害者側も免許はく奪により通勤など生活に支障が出たり、あまりにも深刻な事故になると多額の慰謝料請求、うつ病やパニック障害を起こしたりと、交通事故による公害を受ける人がいると考えれば、事故の加害者もそれに含まれるのです。

当然、加害者側となる人も事故を回避しようとはしますが、自動車を運転している人には高齢者であったり、タイミングによっては仕事による過労状態、注意散漫、運転中に意識を失ってしまうことなど、何も正常な状態のみで常に車が運転されるわけではありません。さらに警察による交通指導や交通整備など多大な努力をしても死者が2500人以上いることから自動車交通において限界が見えます。

実際に交通事故による死傷者数の統計を確認してみましょう。戦後の1948年から2023年の統計では、それぞれ累計での死者数:64万7244人、負傷者数:4851万8616人とあまりにも多くの犠牲を生んでいます。ちなみに広島原爆投下による死者数が推計で14万人±1万人なので、その4倍以上を数えます。
※1948年から2023年の累計死者数と負傷者数は下記サイトで出ている数字から算出。

更に自動車を使うことで影響する環境汚染や自動車の増加により増えた犯罪なども含めると実は自動車があることで発生する社会コストはさらに膨らみます。ただメディアでは報道されたり会話しているうちで問題とされるのは「加害者と被害者」ばかりです。

つぎに顕在化した症候は公害現象であった。排気ガス、騒音、振動などという公害現象は、自動車が高速化し、重量化し、大量に普及するにつれて深刻になっていった。
[中略]
自動車にかんする第三の症候は犯罪の増加であった。交通犯罪の件数は自動車の保有台数とともにふえる 傾向をもち、また強盗・殺人などの兇悪犯罪も自動車を利用して初めて可能となる性質のものがふえてきた。さきにあげた自動車のメリットは、まさにこのような犯罪にかんしても有効だからである。

『自動車の社会的費用』 著:宇沢弘文 岩波新書 29,30頁

ここには自己責任論という要素が絡んでいるようにも思えるのですが、こうした抽象的な問題に関しては複数の要因があり、また次の機会に説明を譲ります。

また自動車がなぜここまで大きな問題を生み出しているにも関わらず、容易にその経済活動を抑制できない状態にあるのは以下の理由からと考えられるでしょう。

自動車の大量生産はたんに自動車産業だけでなく、鉄鋼、銅などの金属資源をはじめとして石油、 電力を大量に消費する。このような基礎資源、エネルギー資源を生産するために大量の資本と労働と が投入され、自動車産業から発生する需要を前提としてこれらの産業で多くの企業の存続が可能にな ってきた。

『自動車の社会的費用』著:宇沢弘文 岩波新書 20頁

ちなみにこれまでの内容から、実際に自動車が市民的権利を侵害しないかたちで交通設備を構築するとした場合、宇沢先生は次のような交通設備が求められると考えています。

まず、歩道と車道とが完全に分離され、並木その他の手段によって、排気ガス、騒音などが歩行者に 直接被害を与えないような配慮がされている。と同時に、住宅など街路側との建物との間もまた十分な 間隔がおかれ、住宅環境を破壊しないような措置が講ぜられる必要がある。 また歩行者の横断のためには、現在日本の都市で使われているような歩道橋ではなく、むしろ車道を 低くするなりして歩行者に過度の負担をかけないような構造とし、さらに、センターゾーンを作って、 事故発生の確率をできるだけ低くするような配慮をしなければならない。

『自動車の社会的費用』著:宇沢弘文 岩波新書 19,20頁

ということから、現在の日本の交通設備がまだ市民的権利を侵害しないよう運営されているかというと不十分な点は多々あります。もちろん、街路樹を植えたり、道路公園の設置や道路間隔を広くしたりなど環境に配慮する自動車製造や事故被害を抑止のための取り組みに注力した形跡があるにはありますが、いまだに問題点が残っています。ちなみにこの宇沢先生の書籍が刊行されたのは、1974年と約50年前からこの問題について指摘されていました。

この自動車と資本主義との関係性を無視できないところがあり、前述の通り抽象的な問題は次回記述していきつつ、実際に宇沢先生が計算した自動車の社会的費用をどのように算出したかについても併せて考えていきます。

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