私だってバンブーが欲しかった。
かつてあった華やかなりしころ
私はバブル末期に生まれたが、地方に住んでいたこともあり
崩壊の影響は東京よりも遅く、かつ家業が土地や建築に関わることだったので
そりゃーもう、多大なる恩恵を受けさせて頂いた。
父が得意先に呼ばれて年イチペースで海外旅行に行くことは当たり前のことだとおもっていたし
幼少期に乗ったグリーン車の光景もまだうすらぼんやり記憶に残っている。
母もブランド製品を沢山持っていたし、その結果バーキンを腐らせるわ、
自問自答活動の一環でマルジェラ期のエルメスの展示を見に行ったら「あの頃実家にあったやつばっかりだった……!」とすごすごと帰る羽目になったこともあった。
旅行先の海外から、ちゃんと時差を計算して夕食が終わった時間帯に父は必ず国際電話をかけてくれた。
確かイタリア旅行の時だったはず
「おみやげなにか欲しいものあるか?」
母や姉が銘々にエトロのスカーフだとかプラダのローファーを頼んでいる後ろで
私はこっそりと野望を胸に抱いていた。
「ぐっちのばんぶーがほしい」
調べたところちょうど80-90年代にバンブーの一大流行があり
それを雑誌かテレビかで見たであろう幼い私は「GUCCIの黒いバンブーのリュックが欲しい」と思っていたのだ。
だが幼少期から異様に自我の目覚めが早かった私は、即座に「世間(=母姉)の目」を気にした。
ランドセル背負ってる子供がバンブーを欲しがるだと?
でも私はどうしても黒いバンブーのリュックが欲しくて仕方がなかった。
具体的なサイズや色に注文をつけている母姉の長電話に耐え、順番が私になることを待ち望んでいた。
そしたらお願いするのだ、家族の中で一番私に甘い父なら即座に調達してくれるはず!
わたしはぐっちのばんぶーがほしい!
だが
「おみやげなんでもいいよ」
と答えてお茶を濁した。
私のファッション人生における「世間への敗北」の第一歩だった。
代わりにお土産に貰ったヴェネチアングラスの細工は、結局余り好きになれなかった。
聞き分けの良いこどもから抜け出したい
親が買って毎日コーディネートを決めた服を着て、
服に合うように選ばれたカラフルなヘアゴムで髪を綺麗に結って貰いながら朝ご飯を食べ、
いってきますと赤いランドセルを背負っていた頃。
私はファッションには自由がないと思っていた。
こっそりと入って盗み見した姉のノートには色んな服を着た女の子のイラストが描いてあって
「おしゃれ」を突き詰めようとしている姿勢が見えた。
りぼんを卒業してm.c.sisterを読んでいた姉は当時から自分の意思でファッションを楽しんでいた。
東京に出掛けるときは必ず母と二人で買い物に出掛け、残された父と私は東京タワーや上野動物園を見に行っていた。
銀座や新宿に出掛けていく二人の背中を見て
「あなたはまだ何も考えなくてもいいの」
とファッションから遠ざけられているように感じた。
いや、私だってあの時GUCCI欲しかったけど?!
とその度に心の中で反発する。
自分の選択で自分の着たいものや持ちたいものを手にするチャンスが欲しかった。
その願望は後に、中学生になってから出逢ったロリィタファッションで実現するが
世間との戦いは非常に厳しいものだった。
小学生の時ピアノの発表会ではシャーリーテンプルのドレスをいそいそと用意していたはずの母が苦い顔で新宿のマルイワンで私の試着を見ている。
どうしてもこの服が欲しいのと初めて主張して買って貰えたBABYのアリスJSKは結局数年後「もうそんな服捨てなさい」と言われて燃えるゴミになった。
ロリィタファッションを辞めても、普通の服を着ても
もっとこうした方がいい、これはおかしいと言われ続けてファッションなんてちっともたのしくなかった。
みっともない、痩せろ、髪を変な色に染めるな、爪をごてごてさせるんじゃない。
そしてとある期間からぷつん、と記憶が途切れる。
家庭と家業の問題が一斉に襲いかかってきたある日、私は新幹線に飛び乗った。
ボストンバック一個の荷物とノートパソコンだけで生きる
「飛んだ」のだ。
もう実家も家業もどうでもよくなった私は泣きながら新幹線の自由席に乗って東京へ向かった。
転がり込んだ先の配偶者の部屋で最小限の夏場の服を繰り越しながら生活していた。
夏場で洗濯が間に合わず足りない時はGUにかけこんでセールで一番安くなっている服を買い込んでどうにかしのいだ。
何度も洗濯をして褪せた赤いTシャツとショッキングピンクのTシャツの色は一生忘れられない。
就活に必要だからとまたもGUにかけこんで一番安く上がるセットアップとジャケットで揃えて面接を何社も受けた。
なんとか決まった職場で働けることになったときの安心感も、
慣れない新しい仕事も、新しい技術の習得へのモチベーションも、職場の関係も、なにもかもがぎこちなかった。
(当時友人から誘いを受けて梅棒を初観劇している記録がある。ちなみにその再演がつい最近まで行われていたから運命というものは数奇なものである)
ぎこちないけどそれなりに、仕事が上手く回り始めるようになってくる。
分からなかったソフトの操作がある日急に目の前が開けたように理解できるようになる。
そのうちにいつの間にか、上司に誘われてマネジメントも学ぶことになる。
人に仕事を教える立場にもなった。
でもその頃着ていた服の記憶は不思議とない。
苦労して東京にしがみつこうとしていた時に買ったGUのジャケットはつい最近までクローゼットに残っていたのに。
記憶にも残らないほど「社会に迎合しようとした服を自然と選んでいた」のかもしれない。
イメコンからの自問自答ファッション
技術職としてキャリアをもう一段階上げたかった私は転職をすることになった。
その時、ちょうどパーソナルカラーなどが世間で話題になっていて
人前に出る仕事に職種が変わったことで印象作りも必要だろうと思いサロンを予約した。
丁寧に診断された結果、ブルベ夏と診断されて似合う色を教えて貰ってからは
水色や淡い紫などを好んで着るようになった。
「おだまきさんっていつも紫色の違う服着てるわね」と新たな上司から言われたこともある。
診断結果をすぐに生かすことが出来て簡単に手に入るファストファッションは非常に役に立った。
一度に何着も買って、服の山が出来るようになった。
思い入れのない服ばかりが増えていった。
繁華街で働いているのにデパートにも路面店にも立ち寄らずに帰っていた。
そのタイミングで出逢ったのが自問自答ファッションで、
何の気なしに見た銀座・有楽町ツアーを参考に店に出入りするようになった。
この取り組みって面白いな、と「試着旅に出る」機会を毎週末設けた。
魔術師のジャケットに出逢った、ワンピースに出逢った。
「黒いジャンパースカートだけを探す」ために新宿伊勢丹をフロアを無視してひたすら試着する一日を作った。
靴も、カバンも何度目かの伊勢丹詣をして手にしていた。
やっと自分で選んだ服が集まってきた。
惰性で選んだ服は何回かの断服式でいなくなった。
新陳代謝を繰り返したクローゼットは生き生きしている。
ちなみに、自問自答ファッションをはじめた矢先にGUCCIに飛び込んだ時に黒いパイソン柄のバンブーに惚れ込んだが金額の面で諦めた。
が、どうにか小学生の頃の私の念願を成仏するためにGUCCIで黒いパイソン柄でバンブーがちょこんとついた財布を手に入れたことでようやく私のバンブーへの呪縛は解けたのである。
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