願いが、間違っているかもしれないから

願い事はなんですか?

神社やお寺に行くたびに、お賽銭を投げて手を合わせながら、なんとなくその時に思いついた、それらしいお願い事を頭の中で唱えてきた。
いつも、ほんの少しの違和感に蓋をしながら。
私の本当のお願い事って本当にそれなんだっけ?
例えば今すごく好きな人がいるからその人と結婚したいと願ったとして、その人との間に本当に求めているのは結婚なのか?その人のパンツを洗いたいのか?その人が食べ残した食器を洗えるか?洗えないとしたら自分で洗ってもらえるように対話できるか?その人の親の介護ができるか?と考え出すと、違うような気がしてくる。でも、神社やお寺の一連の所作において、そんなことを吟味している時間はない。なので、とりあえず、手っ取り早く、唱えておくのだ。

だから、願望成就がいいこと!という迷いのない前提に立った言説には違和感を覚えてしまう。
その前に、願望を吟味しないといけなくて、それって結構大変なことなのだ。

願いが、間違っているかもしれないから。

大好きな歌詞がある。昔、男友達に私っぽいと言われた歌詞だ。その人は私に大きな影響を与えていて、「普通の家族や家庭にしか幸せはない」「いい男は20代の前半で売れているからもういない」という言葉は今もずっと胸の奥に突き刺さっている。抜きたい棘だ。今すぐに抜こう。だけれども、この歌詞が胸に残っているのは、いい。とても深くて、言われた時はムッとしたけれど、今は本当にそうだなあと思う。

悲しくなるほど、誰かを愛したい。それに気付かぬふりをして、時は流れた。

My Little Lover 「白いカイト」

それならわかる。「悲しくなるほど、誰かを愛したい。」
シンプル、ストレート、そのまんま。

だけど、「悲しくなるほど誰かを愛せますように」だと、違う。
「愛せますように」には、悲しくなるほど誰かを愛せるように「ならなければならない」という制限と意図が滲む。ただの願望に、制限と意図が加わる。

そうか。そのまま言えばいい。
「さみしいのはもういやです。」

「さみしいのはもういやです。」を、
彼氏が欲しいとか結婚したいとか友達がほしいとかに変換しないほうがいい。

その方法がベストとは限らない。
願いが、間違っているかもしれないから。

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