40歳児のイヤイヤ期

齢40を前にして、いやいや期である。

3才児のいやいや期は、親と同一ではない自己の萌芽である。

では、40才児のいやいや期はいったいなんだ。

ふと考えて、やはりこれも自己の萌芽だと思い至る。

やりたいようにやればいい。生きたいように生きればいいとものの本には書いてあるが、そんなのは当たり前で、それがなにより難しい。

時間と場所とお金の自由を手にすれば、やりたいように、生きたいように生きられると思ってフリーランスになった。

ところが。

やりたいこと、生きたい人生。そんなものは、ふとした気分や人の言葉や状況で、コロコロ変わる。ずっと同じことを追求できる人も中にはいるが、少なくともわたしは違う。こういう生き方がいいと思ってやってみてもやってみたら違うことだってある。とても具合がよかったけれども、くたびれてくることもある。だから、メンテナンスが欠かせない。やりたいようにやる人生にも、いや、やりたいようにやる人生を選んでしまったからこそ、結局常に自己との対話、ご機嫌うかがい、微調整や時に大規模な修繕が不可欠なのだ。

ぜんぜん自由なんかじゃない。大変面倒で、あまり疑うことなく縛られた道、俗にいう敷かれたレールの上をいくほうがよっぽど自由ではないかと思う。(それも結局は違うのだが。)

ここ最近のいやいや期は、親ではなく、自分自身でつくりあげてきた人生ともはや同化していられないという新たな自己の萌芽だ。

10年やってきて、もはやわたしはフリーランス編集者・ライターという身分に辟易としている。あの、初めて仕事が来た日の心が打ち震えるような喜びは、もう二度と感じることはないだろう。そればかりではない。あの有名企業から仕事が来た、編集長としてフリーペーパーをつくりたいという無理そうに思えた夢が叶った、好きな時に好きな場所で仕事ができる自由を手にした、仕事で世界を旅した。思いつくことはだいたいもう、やってしまった。できてしまった。

そうしたら突然、それらを与えてくれた「フリーランス編集者・ライター」という初期設定が色褪せ、窮屈になり、脱ぎ捨ててしまいたくなっている。

フリーランスのほうが稼げるからフリーランスになった「お金」の価値観。

職場の人間関係なんて面倒臭い、好きな人とだけいたいと思った「対人関係」の価値観。

毎日、自分の好きなように自分の時間を使いたいからフリーランスになった「時間」の価値観。

会社の都合で決められる業務内容を自分で決めたいからフリーランスになった「やりがい」の価値観。

個人として評価されたい「自己実現」の価値観。

フリーランスは目的ではなく、価値観どおりに生きるための手段だった。それがいつのまにか、自分で勝ち取ったフリーランスという身分で自分を満足させようとするようになっていた。よくある手段の目的化である。

さらには、自分で決めた相手と自分で決めたことをして時間を好きに使って自分が評価されお金をもらえる「自分しかいない価値観」自体が、強制終了されつつある。

二重の意味で、これまでの自己からの脱却をはかるイヤイヤ期が訪れている。

価値観のリニューアルと、それにともなう手段の再構築。私自身がそれを強く求めている。

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