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生活と執着

1月も残り一週間を切った。2月を乗り越えたらもうすぐ春が来る。
冬が嫌だの辛いだのと言っていたけど、noteでその旨を綴っていたらありがたくも周りの人から声を掛けてもらい、例年ほどしんどくなり過ぎずにあっという間にこの季節が過ぎそうだ。
noteをはじめるまで、ネガティブなことを人前で口にすることに抵抗があった。けれど、こうして発信してみると客観的にそのことについて考えるきっかけにもなるし、発信することを通じて生まれた会話のなかで新たな発見に気付かされることもあった。

そのなかでも最近意識的にやっているのが、「いま・ここ」で起きていることに集中するということだ。それはカウンセリングや相談業務の基本ともいえる考え方で、普段から耳慣れた言葉ではあったけれど、実際に日常生活でやってみようと思うと案外難しい。
私はせっかちで神経質なほうなので、特に仕事の場面ではやることがたくさんあるとすぐパニックになったり過剰にイライラしたりする。いつも先回りして自分ができていない部分にばかり意識が向いてしまう。
だから朝起きたときは大体気分が最悪だ。その日やらなければいけないことだけでなく、一週間先のタスクのことまであれこれ考えて、めちゃくちゃ嫌な気分で一日が始まる。もちろん一日の終わりも同じで、今日できなかったこと、明日やらないといけないことで頭がいっぱいになって憂鬱な気分で眠りにつく。

最近こういう自分の悪習に気付くようになってからは、忙しいときほどちょっとペースを落として「いま・ここ」に意識を集中させることにしている。目をつむって呼吸を整えて、今やるべきことや今の自分にできることが何かを考える。過去や未来のことは考えない。きょう、いま、ここでやるべきことだけを考える。
そうしていると自分の思考を邪魔していたネガティブな感情が排除されて、仕事にも取り組みやすくなった。変に先回りしたりせず、目の前の仕事を順番に片付けていくほうが結果的には作業効率もいい。

仕事以外の場面でも、最近はそういうふうに考えるようになった。
先述したとおり、私は未来のことを先取りして不安になったり、自分が持っていないものを並べて悲観的になったりしやすい。仕事が忙しくて精神的な余裕がないと尚更空虚な気持ちが膨らみやすい。
自分は普通の人みたいにまともに働いたり結婚したり子どもを生んだりできない。人よりも欠落している部分が多い。なんのために生きているんだろう。
そんなふうに考えては、いつも自分のことを過小に評価してきた。

けれど、ぎゅっと目をつむって「いま・ここ」に意識を集中すると、実は自分がすでにたくさんのものを持っていることに気付く。
それは社会的にラベルを付けて評価されるような特別な何かではなくて、「いま・ここ」に自分がいるということ、ただ生きているということでもある。
当たり前のことかもしれないけれど、日常生活の些細な不安や心配事がすぐに「死にたい」という言葉に変換されてしまう自分にとっては大きな発見だった。

たとえばドラッグストアでトイレットペーパーやゴミ袋を買っているとき、洗濯物を取り込んで畳んでいるとき、お風呂あがりに歯磨きをしている自分を鏡越しに見つめるとき。日常生活の「いま・ここ」に自分がいることに静かに感動する。
「死にたい」と口にしながらも、私は自分一人のこの生活を自然に営んでいる。それは実は生きることへの執着とも言えるのではないかと思う。
生きていく才能がないって思う日もあるけれど、私はしっかり自分の生にしがみついて、無意識的に日々のあらゆる選択をしているのだ。

きっとそうやって「いま・ここ」を積み重ねているうちに、想像もしないほど遠くまで行けることもあるだろう。いつも同じことの繰り返しで全然進歩していないと思う日もあるけれど、そうやって少しずつましになっていくしかない。

この家での生活も来月で丸二年。今月末に更新料が引き落とされる。
家賃がちょっと高いけれど、私はもうしばらくこの家とこの生活に執着してここにいるだろう。そのためにお金を稼いで食べて寝て日々を営む。
そうしているうちにまた季節が一周巡って、来年の冬は今年の冬よりもう少しましになっているといいな。

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