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食べるっていうこと

食べるという行為は人間にとってはすごく大切。食べなければ生きてはいけないし、それなのにとても趣味的だし、その人の個性が出る行為。好き嫌いや食事マナーでその人の育ってきた環境まで分かってしまう。テレビや映画でも食事のシーンはただ食べるだけじゃなくて後々意味があったりと。そう考えていくと「衣」も「住」も基本的行為且つ趣味的行為という点で同じなのかもしれない。

そうそう、「食」に関する諺もいっぱいある。「秋茄子は嫁に食わすな」「飴と鞭」「羹に懲りて膾を吹く」などなど、それこそ料理の数ほどあるのかも。

僕は仕事柄国内外への出張が多く、そのため幸か不幸か外食する機会はかなり多い方。一般的には月間平均外食回数は首都圏では4.22回(リクルート調査 https://www.hotpepper.jp/ggs/wp-content/uploads/2019/09/18年度リリースA_190903.pdf )
とされているので、それよりははるかに多い。そもそも出張だと三食全て外食になるしね。

お陰で「博多に行くなら〇〇」とか「今回の札幌滞在は2日だから〇〇と〇〇」とか「サンフランシスコ滞在中はこの日しか空いてないからやっぱり〇〇にしよう」、そんな事が出来るぐらいにはお気に入りのお店が増えてきて、気がつけばぼっち飯も得意になった。

その反動か、出張のない時には外食を控えるようになる。そもそも食事って「誰と食べるのかも大切」なので、誰彼構わず飲みに行くなんていうことは無くなり、本当に行きたい人とだけ行くようになる。ということで、僕が貴方と飲もうとしないのは、まぁホンネはそういうことです。だって変な気を使いたくないし、イヤな気分にさせれるのはもっとイヤだからね。

それに外食は「一戦必食」。せっかく食べに行くんだから美味しいものを食べたいし、変にケチってガッカリするぐらいなら、ちゃんとした代金を払って美味しい食事をした方がはるかにいいよね、レストランは食材費にその味がほぼ連動するから。だからコスパだけに異常に拘る人たちとはご飯は一緒に食べたくない。

で、最近感じるのは「説明を聞く」事の煩わしさ。

「〇〇産の〇〇です」「最初は必ず〇〇から食べて下さい、次にこちらの〇〇を入れて味の変化をお楽しみ下さい」、更には僕たちが真剣な話をしてるときに話を遮ってまで料理の説明を聞かせようとするお店。こうなってくると「注文の多い料理店」ならぬ「能書きの多すぎる料理店」。こんなお店には足が向かなくなる。海外にはこういうお店はあんまりなくて、というよりほとんどお目にかかった事はないから、これって日本独特の習慣なんだろうね。

自分たちは材料と料理方法に拘ってますってアピールなのだろうけど、薄っぺらな自己満足で自信のなさカモフラージュしているだけに感じてしまって、どんどん足が遠のく。

ここでふと「これから死ぬまでに何回ぐらい外食する機会があるんだろう?」って考えた。参考にしてみたのが厚生労働省が年齢別平均余命の調査。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life10/01.html

これによると例えば50歳の平均余命は31.51年(人生100年時代って言われるので、ざっくりその折り返し地点という事で)。仮に1日3食で計算すると死ぬまでの食事機会は約34,500回。更に、お酒を飲みながら、気のおけない友人達と、美味しいものを食べるに行く、って考えると外食に使えるチャンスは必然的にもっと減ることになる。そう考えると、食事って「誰と何を」に加えて「何処で食べる」をもっと追求してもいいかも、そんなことをぼんやりと考えていると、友達から連絡が。

「で、来週は何を食べに行く? 」


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