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矢崎弾8自走式

アイスランドに『Lazy Tawn』という子ども番組がある。この番組はアイスランドの子どもの肥満率が高いことから、スポーツを振興させるために企画されたものらしい。現在でも放送されているそうだ。
運動に関するその主旨はともかく、幼いヒロインの運動能力は抜群。その初代を演じたジュリアナ・ローズ・マウリエロ(Julianna Rose Mauriello)が躍動する「It’s my life」というMVが私は好きで、最近またそれを見直しながら「自走式」というかつて自分の考えた概念を思い出した。
ちなみにこの曲はマウリエロが歌っているわけでもオリジナルでもなくて、オーストラリア・カナダ合作の、馬術を志す少女たちを主人公にした子ども向け番組「The Saddle Club」でマーニー・ケネディが歌った音をそのまま使っている(以上ウィキペディアを参照)。

その歌詞は、

私の人生だからひとの指図を受けず、
思い通りに生きる。
困難もあるけど友だちの肩を借りて泣き、
大変な時はひとりになって心をしずめる

といった内容。
日本のメジャー音楽には「素直になる」という歌詞の常套句がある。どういった主旨かはそれぞれとしても、そこに社会へ異を唱えるといった破壊的な要素は感じられない。しかしこちらの歌はむしろ、社会との対峙にこそその目的がある。日本人の目から見ると明るいが攻撃的な表現だ。
「The Saddle Club」にもこの歌のMVがあって、それはケネディがドラマの延長で自ら動きながら歌うのだけれど、Lazy Town版では番組の映像をコラージュしてMVに仕立てている。
子ども番組とはいえこのLazy Town版「It’s my life」を評価するのは、歌詞を本来それとはまったく関係のない番組の過去映像と演者のポートレートでみごとに再現していること、そしてそれによって子どもの躍動感と創造的破壊をたのしく描いていることだ。
私が自走式と名付けたものに、この映像は具体的イメージを与えてくれる。
自走式、ということば(およびその概念)は、昔十代の女優の写真を、古書店の友人にとどけるため集めていた時、そのフォトジェニックぶりに感心して考えたものだ。それらの写真はカメラマンに関係なく、当人に興味のない私の目から見てもいずれも高いクオリティを持っていて、その不思議な現象を説明することばがほしかった 。
不思議には感じるけれど、それは集合意識的な形式から自由なことの必然的結果なのではないかと思う。

文学史、さらには文化全般の歴史記述から外される、あるいは軽視される表現者の条件の一つに、系統へ位置づけにくいことがあげられる。これは日本に顕著なことかもしれないが、従ってオリジナリティのあるものほど軽視されやすく、後世に影響が及ばない。今から見ると、矢崎弾にもそうした側面があるように見える。相手が天才か権威か関係なく、自分のことばをもって語り、批判するときは思い切り叩く。そしてその文章には躍動感がある。同人誌の横断を考えたり上海へ行ってしまったり、その自在さは "文壇" のような集合的な人間関係を語ることが生業の文学関係者の間尺に合わなくてもしかたがない。だから忘れられる。

かれは自走式である。

※写真は、アーテックの、アニマル ゼンマイカー

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