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矢崎弾1文学研究者の責任

 一昨年の九月、例年どおり私は佐渡を訪れていた。主な目的は釣りで、加茂湖にいるクロダイがポッパーというルアーに反応して襲いかかり、爆発的な水しぶきをあげるのを楽しみにしていた。しかし、それとは別にこの年にはミッションがあった。それは松田實さんの書き上げ出版した『矢崎弾とその時代』を読むことだ。少なくとも佐渡の図書館にあることはわかっていた。松田さんの現住所もわかったので訪ねて行ったが、家の中をのぞいても人かげはなかった。その近くに本屋さんがあり、もしかして売っていないだろうかとダメもとで店に入った。中には佐渡に関する書籍のコーナーがあり、店の方に聞くと以前には『矢崎弾とその時代』も置いていたらしい。在庫を調べるもすでに無く、店の少しお年の方が出てこられ、見ず知らずの私に『矢崎弾とその時代』の版下または校正刷りらしき紙束をくださった。本屋さんの親切なお二人は松田さんとはお知り合いで、松田さんを訪ねてきた人物がいることを喜ばれたらしい。
 そして昨年九月、色々とご不自由にはなられているものの私の記憶にある松田實さんと再会することができ、わずかな時間ながら、お話をおうかがいすることができた。しかし私に分けられる余分の『矢崎弾とその時代』はもう無かった。

 松田さんに先行する矢崎弾(1906-46)の研究は、新潟で教職についていた渡辺憲先生によるものだ(渡辺憲 1976他)。
 夏目漱石に関する文章を集めるというアルバイトで矢崎の文章に触れ興味を持った私は、渡辺先生の短い評伝を読みお手紙をして松田さんをご紹介いただいた。私がはじめて佐渡へ渡った時、連絡すると松田さんはたくさんの資料を持って宿にその姿を現した。
 その後しばらく松田さんと交流があったものの、ある時期から疎遠になってしまった。私にとって矢崎弾は興味の対象のひとつでしかなく、もう少し世に知られるべきと思いはしたが、研究のお手伝いに専念することは難しかった。ほかにやりたいことがありすぎた。
 ではなぜ矢崎に関心を抱いたのか。それは、その私の他の興味の対象である表現に関することで、日本の批評家あるいは評論家に対する疑問に起因していた。
 日本では、表現者とその作品よりもそれを題材に作文する批評家・評論家の方が、社会的に高く評価されているように感じることがある。一次的なものより二次的三次的なものによりこだわる傾向が日本文化にはあると思う。それは、中国、次いで欧米の文明との接触による、翻訳・解釈の必要という歴史的な背景があるのだろう。
 矢崎弾がそうした文化に正対しているとまでは言わない。しかしかれの文章に触れた最初から、私の知っている評論家とは異質なものを感じた。その後矢崎を対照させることで、かつて強く関心を抱いていた中国文学者の竹内好、そして近代日本批評の宗匠的存在に見える小林秀雄について、私なりの批判を試みた(「前衛としての評論家」)。
 矢崎弾の魅力はそうした比較ができるほど、日本的な心性とは異質で、それゆえに歴史から疎外されているように見えるところだ。

 そうしたわけで、私自身には歴史について調べるつもりはなくまた私は、日本の近代文学についてさほど知識がなく強い興味もない。矢崎弾研究は文学や歴史に興味のある基礎的な知識のある人たちでやってもらいたいと今でも思っている。しかし松田實さんの研究を引きつぐ人は当分のあいだ期待できない。せめて矢崎弾に関心を抱くかもしれない人たちのために現時点でできることをしようとこの文を書いている。
 松田さんはいう。アジア太平洋戦争最中活動した文学者は現在でも(十分には)研究されていない、と。
 私は、文芸評論家としてそれなりの知名度があったはずの矢崎弾が戦後忘れられたままでいるのは、文学研究者の怠慢であり、学問として大きな瑕疵ではないかと思う(注1)。生前の紅野敏郎(注2)に電話して雑誌『星座』を見せてもらえないかお願いをしたら、矢崎弾には研究の価値がないといわれた。しかし私が同人誌クラブや中国文壇との交流の話をすると、紅野は怒り出し取りつく島もなかった。松田さんの話では、後に紅野は矢崎の評価を少しは改めたとのこと。それが本当であれば(注3)、私のような近代日本文学にあまり縁のない研究のど素人にも果たせる役割があるのではないかと思う。

(注1)大学教員が多く編集にかかわるある雑誌に矢崎についての小さなコラムを載せたら、「(知名度がなさすぎて)アクセスできない」との意見が出されたとのこと。あなたたちの責任だよね、とその時私は思った。
(注2)紅野敏郎 1922-2010。早稲田大学名誉教授。日本近代文学館常務理事を務めた日本の ’近代文学研究の泰斗’ (wiki)。
(注3)「「星座」はこれまで競いあい、鍛えておいた力をフルに発揮した作品に満ちていたし、評論においても、田中令三や三条容煕、さらに矢崎弾が大胆にして鋭利な見解を提出。」(紅野敏郎「逍遥・文学誌 (88)」)。その他矢崎が中心的役割を担った『星座』、同人誌クラブについて紹介・評価している(紅野他1998)。どこか矢崎から逃げているようで物足りなく納得できないようには思うが、矢崎を知っていればその全体的な記述は矢崎の役割を感得できなくもない。 

松田實『矢崎弾とその時代』2014
渡辺憲 日本近代文学館新潟支部『新潟県郷土作家叢書2社会派の文学』1976 野島出版
紅野他『國文學 : 解釈と教材の研究 』1998 學燈社

※写真の『近代自我の日本的形成』は1943年刊行


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