Menagerie 前編


 紫色の煙が蛇のように天井へ巻き上がる。ただ薄明るいだけのここは樽やなめし皮のような香りが鼻腔を貫く。
 一筋の煙の中にジャスミンやラベンダーが香る灰色の煙が混じる。
「ちょっと失礼するぜ。」
声の主は葉巻を加えながら煙管を吸っていた先客に許可を取った。ここはサーカス列車の喫煙車両だ。
 「次の場所はどこになるんだろうな。」
 葉巻の主は煙管の主に問いかける。
「さあなぁ。どこであろうと楽しむだけさ。」
沈黙の中漂う2種類の煙の中に硝子のように煌めく泡が舞ってきた。
「なんだおまえかよ。」
葉巻の主が呆れたように扉を見るとサーカスの団長が立っていた。
「全く、煙草が吸えないから代わりにシャボン玉を吸うなんてどういう発想だよ。だったら無理してここに来なくてもいいだろうが。」
 サーカスの団長、ミラーボールはにこっと先客の2人を見ると黙ったままシャボン玉の吹き棒をシャボン液に浸した。
「お前と会ってからどれぐらい経ったんだろうな。最初にスカウトしたのはここにいる俺たち2人だっだが。」
葉巻の主は思い出すように壁を見つめる。ミラーボールは部屋に漂うシャボン玉を楽しそうに見つめながら口を開く。
「まあね。そういや、新しいコが入ったばかりなんだよ。2人に是非指導してもらいたいと思って。」
「何だと?」先客の2人は声を揃えた。
「あと、ボクは別に無理してないよ?今日のシャボン液は濃厚な赤ワインを混ぜてみたんだ。」
相変わらずこの団長の言うことは支離滅裂だ。ミラーボールは団員2人を見てもう一度にっこり笑った。よく見ると薄ピンク色のシャボン玉は3つの泡が重なって、象のように見えた。
 「じゃーん。かんせーい!!」
巡とミカが制作した衣装に袖を通すと何者でもない自分でも、まるで物語の登場人物になれたような気がした。
 サーカスの踊り子と言うからもっと露出の強い羽でできたような衣装を想像していたが、実際はもっとレトロで等身大な私に合わせたような衣装だった。
 上着は黄緑色の草原のようなシャツで襟だけ白くなっている。下は黒いロングスカートだった。これがあの赤い靴を一層際立たせている。
 衣装を作った巡とミカは過去を聞いた時に一緒にやっていけるかと心配になった瞬間もあったが、共に過ごしていると本当は全然悪い子じゃないと感じた。
 私は得意になってその場を回転してみた。すると扉がノックされミラーボール団長が現れた。
 この人は何故かわからないけど、男でも女でもない感じがする。全てを知っている老人のような、でも見るもの全てが初めてでワクワクしている子供のような不思議な笑顔でこちらをじっと見てくる。だから恥ずかしいけど嬉しいような変な気持ちが込み上げてくる。
「とっても似合ってるね!まるで最初からヨリのために用意されていたみたいに。そして、ごめん!悪いんだけど今すぐ動きやすい服装に着替えてくれない?」
ミラーボール団長は申し訳なさそうに顔の前で手を揃えた。
「ええー!?なんで!?」
今着替えたばかりなのに急に言われても困る。
「ヨリに仕事を教えたいんだ。」ミラーボール団長は歯を見せて笑った。

 団長に連れられてやってきたのは、大きなキッチンみたいな車両だ。流し台やオーブン、フライパンを乗せるコンロが置かれている。かなり広い台所といった感じだ。ここで何をするんだろう?皿洗いや残飯を捨てたりだろうか。
 すると、私と団長しかいなかった車両の扉が開いた。
 一瞬小さな子供か何か車椅子にでも乗ってるのかと思ったが、どちらでもない。現れたのは小人の人だった。サーカスだからかここには多少イレギュラーな特徴を持った団員がいる。
「おはようトム!」
ミラーボール団長はやってきた彼の目の高さまでしゃがんで手を振った。
 トムと呼ばれた彼はパッと見には金髪の少年みたいにみえる。ただ黒いジャケットに深々と手を突っ込んでいる様子から、もしかしたらもっと年齢が上なのかもしれないと感じた。
 トムは不機嫌そうな表情を変えないまま、団長を睨んでいる。と、私の方をちらっと見て口を開いた。
「こいつに仕事を教えればいいんだな?」
予想以上に低い声だったため少し驚いてしまった。団長は慣れてるように微笑して、
「そうだよ。ほらヨリ、挨拶して!!」
急に指されて慌てて自己紹介する。
「あ!はい?弥栄ヨリです!すみません!!」
トムさんはじろっと私を睨んだ。何か気に入らないことでもあるのか、眉間に皺を寄せる。私は初対面ですぐこの人は怖そうだと思ってしまった。
「言っとくが、俺の見た目について何か言おうもんなら、どうなるかわかってんだろうな…?」
ドスの効いた声でそんな風に言われるとどうしてもすくみ上がってしまう。
 トムさんはすたすたと私の後ろの冷蔵庫を椅子を台にして開いた。中から赤やオレンジの液体が入った瓶を出すと割らないように流し台の空いたスペースに置く。
 トムさんは私の方を見上げると、(失礼だが本当に見上げるような動作だったのだ)こう言った。
「最初のお前の仕事はアイスキャンディーを作ることだ。」
「え?ア、アイス?なんで?」
「つべこべ言うな。やり方を教えるからちゃんと見てろ。」
そう言うとトムさんは冷凍庫の一番下のボックスを開けて、彼の手の倍はあるアイスキャンディーの型を取り出した。
 そしてまた椅子に乗ると冷蔵庫から出したジュースを型に流し込んだ。
「いいか、ジュースに型を流して棒を刺す。これだけだ。俺は一回棒でかき混ぜるがな。やってみな。」
私は言われた通りに恐る恐るやってみた。しかしジュースが必要以上に溢れ出してしまったり、棒が上手く中心にたたなかったりして思った以上に難しく感じた。
 トムさんはまるで初めてこんなやつを見たような表情をして静かに口を開いた。
「……お前、まさか、不器用か?」
「うう、そうなんです…。」
情け無くてたまらないが答えた。
 トムさんは大きくため息を吐くとこう言った。
「ダメだな、ここにいる人間としては全然ダメだ。」
私は少しイラっとした。突然望んでも無いのにこんなサーカスに入って好きなこと以外のことをやれと言われる。しかも給料があるのかもわからないのに。私は好きなことだけしていたいんであって、アイスキャンディーなんか作りたくないんだ。でも好きなことだって本格的にちゃんと習ったわけじゃないなら、それを職業にすることなんてできないかもしれない。それじゃあやっぱり私は何もできない社会不適合者なんだろうか。
ミラーボール団長は冷蔵庫の中のものをつまみ食いしながら笑ってこちらを見ている。こういう時、社会の理不尽さを感じる。嫌いな人となんてできるだけ話さないでいたいのに。私はすぐに2人のことが嫌いになってしまった。すると、
「それでも忘れないで欲しいんだよ。"ボクはキミを愛している"、だよ。」
団長は急に真面目な顔をして私を見た。いきなり言われたら反応に困る言葉だ。
「な、なんですか?それ。」
「なんでもなーい。アイスできたら呼んでね!」
ミラーボール団長はまたヘラヘラした表情になり台所車両を出て行った。

 その後もしばらく無言の作業が続いた。段々とコツを掴んで来たが、どうしても長く続けてるトムさんよりは綺麗な形にならない。トムさんはずっと仏頂面で葉巻を咥えているため、会話しづらい。
 大体2時間半ぐらい作業を続けていると、
「終わりだ。」
トムさんが言った。
「あ、ああ、はい、お疲れ様で…。」
「あんたそんなびくびくしてんじゃねーよ。アイスの形が崩れるだろうが。」
トムさんはそれだけ言うと、葉巻を咥えたまま部屋を出ていった。

やっぱり自分は駄目だな、と寄宿車両で落ち込んでいるとミカが私の顔を覗き込んできた。睫毛まで真っ白な瞳は吸い込まれそうな宝石のようで本当に天使のようだ。
「トムってあのアイス屋の小さいやつか?あいつの言うことなんて気にしちゃいけないぜ。」
「ちょっとそんなこと言っちゃ!!」
「いいんだよ。わざわざ配慮してあげようなんて思ってたらそっちこそ差別だし。思ったことそのまんま伝えてやった方があいつは気分いいんだよ。」
天使のような見た目からは想像がつかない喋り方や仕草だ。
「それにあいつはミラーボールが最初にスカウトした団員だからな。サーカスのことはよく知ってる。」
ミカは胡座をかいて頭を掻き上げている。
「そう、なんだ。」
 すると部屋にあった内線用の赤い昔ながらのレトロな電話が鳴った。飾りだと思っていたが実際に内線で使えるのだ。
 思わず出ると、
「ヨリちゃん?レッスンだって。」巡ちゃんからだった。
 案内されたレッスン上に行くと本当にここは列車の中なのかというような体育館ぐらいの広さだった。綱渡りの綱が天井にあり、曲芸用の器具もそこら中にある。
 この列車が走っているのはいつでもどこでもない場所だと聞いたが、車内も物理的な空間の概念を超えているのだろうか。
 こんなに広いのにしんとしていて誰もいない。とりあえずその辺のものを触ってみたりしていると、
「気になるもんがあったかい?」
それまで全く気配がなかったのに背後に誰か人が立っていた。慌てて振り向くと背の高い、ターバンを巻いてアラビア風の格好をした男性が立っていた。
 目はエメラルドのような色だ。
「ようこそ、ミラーボールサーカスへ。私はダンサーでヘビ使いのマージャ・フォッシーだ。長いからステージ名はマッシーと呼ばれるがな。」
マッシーはにやっと笑った。
「ところでキミは見ない顔だな?もしかして、弥栄ヨリ、かな?」
マッシーは腰だけを曲げて、本当にヘビのような動きで私の顔の高さにまで顔を近づけた。東洋の人の肌をしている。この列車は時間や空間を超えているから話す言葉も自分の言語と同じに聞こえるのだと団長から聞かされていた。
「は、はい、そうです。えっと、レッスンって聞いて来たんですけど…。」
「確かに。そしてそのレッスンを教えるのは私だそうだ。」
マッシーはそれだけ言うとくるりと向きを変えてその場で側転した。側転と言っても体操で見られる派手な動きではなく、まるで蛇が一回転したように音もたてず床を這ったような感じだ。すごい。どうやったんだ?
「今のは私の得意技だ。ところで、キミはどんなことができるのかな?」
マッシーが顔をこちらに向けて聞く。私にできることってなんだろう。学生の時まではただ好きな音楽をかけて感じるままに踊るのが好きだった。でもサーカスで魅せられるような派手な技や柔軟性のある動きができるわけではない。
 「いいや。今日はストレッチだけやろう。」
と言われつつストレッチを初めてみたら、散々だった。ただでさえそんなに柔らかいわけでもないのに、ずっと生活費を稼ぐために仕事をしていたから運動をする余裕がなかったのか全身がガチガチに固くなっていた。
 マッシーのようなプロと並ぶなんてとんでもない。目がぐるぐる回ってしまう。
「お、終わりにしよう。」
マッシーも愛想笑いになってる。
「ううう、ごめんなさい…。」
やっぱり私にできることなんて一つもないんだ。私は何者でもないんだから。部屋に戻る気力もなくて、色々な車両を彷徨っていると、木造の車両の椅子の上でミラーボール団長が伸び上がっていた。
「うえ〜ん、開かないよ〜。」
よく見ると手元にある瓶が開かないようだ。
「だ、大丈夫ですか?」
 ミラーボール団長は上目遣いで私を見つけるとぱああっと顔を明るくした。
「ヨリ!!いーところに!この瓶、開けてくれる?」
そういって無理矢理私の手に瓶を渡す。こういうのって確かタオルで開けると開きやすいんだよね。私は持っていたタオルで瓶の蓋を開けた。
 ミラーボール団長は目をキラキラ輝かせている。
「わああ!ありがとう!!キミは恩人だよ!!」
中身はジャムにつけたリンゴだった。私はちょっと団長を揶揄ってみたくなった。
「握力弱いんですか?」
 団長は木のフォークで中身のリンゴを口に入れている。
「そうだよー。ボク運動神経悪いし。スポーツなんて全くできない。」
「ええーーー!?それでサーカスの団長なんてやってるんですか!?」
「声が大きいよ。キミ。まあ、頑張って取り組んでる人に対しては応援するけどね。」
全てを知っているような瞳で常に不敵な笑顔を称えたミラーボール団長に苦手なことがあるなんて。それもスポーツ全般ダメダメだとは。
「それでも踊ることは大好きだけどね。ボクの頭の中ではいつもたくさんの音楽が鳴り響いているんだ。」
なんていいながらニコニコして両肘を上下に上げている。この人はいつも明るい。「どうして…。」「ん?」
「どうして運動神経ないのにサーカスの団長をやってるんですか?私なんて誰にも認めてもらえない透明な存在で、何者でもないのに…。」いい終わらないうちに小さな人差し指が口元に当たる。銀河のような瞳が自分の瞳のすぐ近くまで来た。「ボクはボクだよ。キミはキミだ。」
なんでそんなことを言うのかわからない。目の前の相手は大人なのか子供なのか、男か女かもわからない。だから、ドキドキはしない。だけどすごく、神様に嘘をついてるような罪悪感がした。
「座ろうか。」
団長は客席の向かいに私を座らせた。瓶の中のリンゴを食べるように促して手品でフォークを二つに増やしてみせた。
「ボクにできないことなんていっぱいあるよ。スポーツ以外にも。料理。テレビゲーム。それから、時間の無駄としか思えない雑務。ボクはボクが興味あることに関係ないこと以外取り組みたくないもんね。」
私はまたまたびっくりした。サーカスの団長ってもっと、サーカスのオペレーションは全部できるものじゃないのかな?
「興味あることだけをやってきたんですか?」
「そうだよ。確かに傍目には興味無さそうなことでもやらなきゃ行けなかったことはある。そういうとき、なんでそれに取り組めたかわかる?」
「わかんないです。」
「それはね、愛するものがたくさんあったからだよ。」
「愛するもの、ですか。」
「最初は好きなことと関係ないと感じるものでもそれが前から愛していたものと繋がる要素があったり、似ていると思う部分があったら、くだらないと思っていた作業も途端に特別な作業になってしまうんだ。そしてそれが全ての瞬間に存在していることがわかってしまったら、ボクはもう仕事を愛せずにはいられなくなるのさ。単純な作業一つ一つがかけがえのない思い出になっていく。そしてその瞬間の煌めきこそが幸福なんだって思い出せるんだ。」
ミラーボール団長は話し終えると席の横にある窓を開けた。するとなんと窓の向こうには輝くような天体が広がっていたのだ。宝石を散りばめたような恒星たちが瞬きも許さないぐらいに照り輝いている。
「わあああっ!すっごーーい!!」
思わずいつもよりも大きな声が出てしまう。私の声は虚空に響いて返す者はない。だけどその声は果てしなくどこまでも響いていくようだった。「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラもこんな景色を見たのだろうか。
 団長は頬杖をついてうっとりと景色を眺めている。
「初めてこの景色を見たらみんないつも似たような反応をするよ。」
今までちゃんと意識したことなかったが、これは銀河のサーカス列車なのだ。ミラーボール団長は立ち上がった。
「それじゃあボクはここで行かなきゃ。もう少し景色を見ていたかったら、どうぞ。」
そして自分だけの専用車両に戻ろうとしたが、ふと立ち止まると振り返って言った。
「自分は何者でもないって言ったね?じゃあ、誰でも何にでもなれる場所へ行こうか。」
そう言って団長が出ていくと、自動ドアは閉まった。
 次の日、時間の概念がないので次の日と言っていいかわからないが、充分眠ってレッスン場へ行くとマッシーと5人のピエロがいた。
「振付が予め決まっていた方がキミは踊りやすいのかもしれないね。ということでピエロ達とちょっとした演目を用意しておいたんだ。」
マッシーは話し終えるとピエロ達を紹介した。
 ピンク色のジャケットにピンク色の髪のピエロがハッピー。赤と青の衣装にうさぎの耳を頭につけたのがラビット。片眼鏡をつけ、ネクタイをつけたのがフューチャー。ポップな軍服風の衣装がクリスマス。緑の髪に縞々のズボンと大きな靴を履いたのがカーニバル。なんともお花畑な名前だ。
 マッシーはピエロ達のフォーメーションの真ん中に私を置いて振付を教え始めた。複雑な動きに苦戦してしまう。
「顔が怖い!ハッピーハッピーハッピースマイル!!」
「ラブ&ピースだ!平和に行こう!」
「楽しいことを考えてごらん!レーッツシンク!!」
ピエロ達が口々に能天気なことを言って励ましてくる。そんなこと言われてもわからないものはわからないよー!!
 無数に本が並ぶ自室の本棚をサーカスの団長は上から下までじっくりと眺めていた。そして一冊の本を手に取ると自分の机、丁度列車の前方部分にあたる場所へ歩き始めた。
「それじゃあ、世界存続計画を始めようか。」
団長が手にした本の表紙には耳の大きな狐、フェネックが描かれている。団長は自分の机の前にかかっていたカーテンを開く。するとそこには何も書かれていないドアに本が一冊ぴったり入りそうな空き枠があった。団長は空き枠に本を差し込む。ドアには緑色の蛇の紋様が現れた。
 列車の外面、前方の顔部分にあたる大きなミラーボールがガラガラと輪り、赤い鳥の姿が写し出された。

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