見出し画像

伊藤詩織の「裸で泳ぐ」② 



 裸で泳ぐの中にでてくる日本語研究①②③を論評しました。
 他にも怒りや努力の努に女が入っているのにぶつくさ書いてましたが、漢字は中国由来なんですからそっちに言ってもらいたいもんです。

➀日本語研究 かしこまりたくない伊藤詩織

 彼女はかしこまるをいったん英語to obey respectfully と訳し、それを再び日本語で「敬意をもって服従」すると訳し、これに対して「恐ろしすぎて鳥肌」が立つという。いったん英語に訳してそれを日本語に訳さないとわからないらしい。母国語でありながら、日本語が直感的に理解できないというのが問題と思うが、翻訳を繰り返せば言葉の意味はますます元の言葉の意味から遠ざかると思わないのだろうか。

 「かしこまる」という言葉は古くから祝詞(のりと)にも「かしこみもうす」などとでてくる。神の威徳に触れ、神の恩恵とかたじけなさに畏怖し、自ら頭を垂れて随う様子を表している。
 外部的に恐れさせて強制することを意味したものではない。

 漂泊の歌人・西行法師が神宮に参拝した折に詠んだ歌

「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

 これが日本語のかしこまる精神の原点である。

 しかし伊藤詩織はかしこまるという言葉から、大人へのこう話すべき、男への言葉選びなどを連想するらしい。脅されて「かしこまりました」などとは言わない。
 たしかに日本語は敬語や謙譲語などは英語に比べると複雑である。彼女は裁判所の前で結審後の会見を行った時も、「彼(山口)が申し上げた・・・」などと、身内でもないのに言い違いをしている。彼女は30歳にもなって、こうした言葉をうまく使えないこなせていないのだ。

 「性別、年齢、属性でこう話すべきと教え込まないでほしい」という。
 いやいや、きちんと学習せずにジャーナリストなどと自称するから今苦労してるんでしょう。日本ではだいたい社会人一年生で叩き込まれる話である。しかし、彼女はそういう機会を持たなかったようだ。このままでは日本で仕事をしていてこれからも時々、恥かしい思いをするだけである。だから周囲が注意する。それをいやがっていればいつまでたっても直らない。
 言語にはそれぞれ規則がある。英語には英語、日本語には日本語の規則がある。自分ができないからと言って、それを一般化しないでもらいたいものだ。

 ちなみにobey の語源もob「その方向へ」ey「聞く」で、「人の言っていることに耳を傾ける」という意味だ。

 まあ私のいう事などに耳を傾けそうにないが。

②日本語研究 FUCK YOU

「どうしてフラットに怒る日本語の言葉が見つからないのだろう。」

裸で泳ぐ

 そんなことはない。日本語でも汚い言葉はたくさんある。しかし海外生活が長く、英語脳でとらえた感情と日本語のボキャブラリーが結びつかなくなっているだけの話。
 クソという言葉は日本でも男子でも諌められる。女だからということではない。すぐに女だからという方向に考えがいくようだがFUCK YOUにしてもSHITにしても男性でも注意は受ける。
 イギリスでも紳士や淑女はまあ対外的に公然と使わない。男も女も関係ない。汚い言葉は汚い感情を増幅させる。汚い思考を生み、汚い人間を作ってゆく。そして汚い人間性はさらに汚い言葉を引き寄せる。

 一事的に気持ちが良いというのは麻薬のようなもので、繰り返せば人をののしるのが気持ちよくなることもある。まあ時にはストレス発散によいかもしれないが癖になると、いつの間にかまともな友達は減ってしまう。

③日本語研究 主語

 「日本語が母国語のはずなのに時々話についていけなくなる。」

裸で泳ぐ


 これはバイリンガルにおける2言語分離説で説明ができる。たとえ日本語が母国語であっても、海外での別言語の生活が長いと第一言語、つまり母国語が弱まってしまう。


 これとは異なった言語共有説というものもあり、二つの言語が相補的に伸びることもある。
 しかしそれには条件がある。第一言語母国語をしっかり習得していること、そのうえで第二言語を習得していること。
 伊藤詩織の場合第一言語の習得が不完全だった。特に中学~高校の時期に学校の勉強よりもアルバイトに精を出したのが祟っている。両方の言語がともに発達しないでいる。
 第二言語を頑張ってもなかなかネイティブにはかなわない。しかも日本語は特殊で欧米の言語との差が激しい。とっさの物言いは習慣で出てくる。どちらの世界に身を置くかでどちらの言語が優勢になってくるかが変わってくることもある。
 彼女の場合山口氏とは違って日本語が完成する前に英語に慣れ、ホームステイをしてどっぷり英語に浸かってきた。日常会話はそれで十分かもしれないが高度な知的会話となると英語でやりきれる状態ではない。それぞれの知識とそれぞれの言語が感情や知識、記憶と結びついてしまい、すぐに言葉が出てこなかったり、母国語者にはあり得ない間違いをおかしたり、空気がよめなかったり、一部会話が理解できなくなったりする。母国語がすんなり出てて来ないなんてのはざらにある。
 鮨屋で喜一の主人がベトナム問題を山口氏と話していた時も内容が難しいと感じたことが裁判記録に載っている。ジャーナリストでもない鮨屋さんの主人が話していた内容を、曲がりなりにもジャーナリストの道を歩き始めていた彼女が難しいと感じたのはそういうことなんじゃないか?。

 日本語の世界にいると奇妙な言い間違いで笑われ、英語の世界に行ってもコンプレックスと隣り合わせで生きていかなければならない。しかもジャーナリストである。他人が翻訳し、他人が校正してくれている間はいい。自分一人で何がしかの文章を売り込もうとする時にどうするのだ。

 そんな伊藤詩織が日本語をジャッジしているという文章を見た時目を疑った。主語を後から減らそうとしていたらしいのだ。文章が主語付きで浮かんでくるようになっているから後から削除するようになるのだ。自分の話でも、いや自分の話だからこそ主語などそう頻繁に意識していれなくても文章は作れる。ジャーナリストなら。

 日本語でしばしば主語を省略しても話せるのは自我とか個についてのとらえ方が英米とは異なるからだ。日本だけではないので、あくまで英語圏から見ればという話である。

自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり

正法眼蔵:道元

 自分中心に物事をとらえる言語構造と、大自然に生かされながら自分を表出しようとする言語構造の違いだ。

「しきしまの大和の国は 言霊の幸わう国ぞ ま幸くありこそ」 

万葉集の柿本人麻呂

「この日本の国は、言葉が持つ力によって幸せになっている国です。これからも平安でありますように」という意味だ。

言語は我が国の最後の砦でもある。

 彼女は日本の法律を変え、自分の感情を理由に日本の言語にまで口を出そうというのか。


 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?