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2011・3・11

あの日から10年
私は被災者ではないが、あの日から3月末にあったこと、見たことを忘れないうちに書こうと思う

10年前の3月11日14時46分、私は仙台駅前のドトールでパソコンを打っていた。
突然の大きな揺れで店を飛び出すと、ビルは大きく揺れ、地面はうねり、人々は歩道にいるのは危険と察知し、中央分離帯に退避。
恐怖に泣き叫ぶ人、腰を抜かししゃがみ込む人・・・

私はすぐ会社(仙台のみずほ銀行が入っているビル)へ戻り、まずは部下の安否確認を行った。
私たちの仕事は病院で手術の立ち合いを行ったりするもので、その時間、病院にいたものは勿論、手術の真っただ中だった者も何人か。

一人は手術中に停電、看護師さんは腰を抜かし、非常電源も使えなくなり、携帯のライトで照らした状況で手術を終えたり、また一人は病院にとどまり、復旧作業を翌朝まで手伝ったり。
幸い、部下の生存は全員確認出来たが、一人は帰りの車で通った道が30分後には津波に飲まれたのを後で知り、渋滞にはまっていたら命はなかったかもしれないと・・・九死に一生を得た状況、運が悪ければ・・・

事務所で夕方まで過ごしたが、館内アナウンスでビルの非常電源も使えなくなるため、退館との指示、時間は18:30~19:00だったと思う。
仙台でいるところもないので、とりあえず山形の自宅へ戻ろうと思った。
帰るなら山形に戻れなくて困っている人を乗せて帰れないかと考え、仙台駅前へ向かうことにした。

仙台駅前で見た光景も忘れられない。
停電で暗くなった駅前では、さくら野が崩れる可能性があるから離れろとアナウンスが流れていた。
歩道には帰宅できないであろう人達で溢れ、無気力に座り込んだ人、立ち住む人・・・山形行きのバス乗り場付近ももちろん同じ。
山形帰るので乗りませんか?などと声を上げたら大変なことになるであろうと思うと、その場を離れるしかなかった。
車を止めて困っている人を探して・・・など出来たかもしれない、でもその場の異様な雰囲気に押され何もできなかった。

山形へ真っ暗な関山峠を通り、2時間半ほどかけて戻ったと記憶している。
山形も停電で真っ暗、家族は全員家にいて無事を確認

3月12日
お昼頃、停電は解消。
スーパーなども通常営業になり、山形は余震以外の不安はなくなった。

3月13日

9:00 山形が担当、山形が地元の部下が私の自宅へ集まる。
この時、福島第一原発が爆発するかもしれないとの報道が流れていた。
緊迫した状況で仙台へ行くかどうかの話し合いをする。
部下は2人とも行こうと言う。
私は迷ったが、行くことを決定する
決めごとを作った。
行く間、ラジオをつけておき、途中で爆発した場合は戻る。
着いた後爆発した場合はビルにこもる。

こもった時のため、また仙台はものが無くなっているとの情報も入っていたため、山形で出来るだけ食料を買い込むことにした。
山形のスーパーはこの時、まだものが買えた。
一目をはばからず、とにかく大量の食糧を買い込んだ。
車に二台に食料を満載して出発

仙台へは笹谷トンネル経由で向かう。
道のカーブの途中が突然崩れている・・・地震から48時間経っているのにこんな状況のまま放置されている。

事務所へ無事着く
山形へはしばらく帰れなくなるかもなと思った

3月14日

本社とのやりとり
社員はどうするか?
病院が必要とする物品をどうするか?
物は届くのか?
緊急対応はどうするか?

問題は山積み
本社の対応、この時点では体制や決定権フローなどが決まっておらず、中々動かない・・・
現場レベルは他の事業部のTOPとの話し合いで強引に進める。
この時点で家庭を切り離し動けた社員は6名。
この時に動いてくれたメンバーへは今も感謝している。

会社の車の緊急車両登録を進める。
緊急車両登録をすると高速道路が使え、ガソリンが詰められる。
一般の人々がいつ入れれるかわからないガソリンスタンドに長蛇の列をなしている中、申し訳なかったが、仕事上、緊急対応が入ってくる。
現に、ストレスによる植込み除細動器の作動は多かったようだ。

3月15日

福島、いわき地区の対応をどうするかが大きな問題になる。
仕事上、対応は絶対必要であるが、アメリカが本社の私たちの会社は原発80キロ県外へ退避指示。
これは会社の命令であると。
しかし部下は行くと言って引かない。
医療関係者が頑張っているときに我々だけ逃げるわけにいかないと・・・
内緒で新潟から通って対応することにした。
本社には絶対言わないことにして。

本社から物資と共にサポート社員が来る。
こんな時に来てくれたことに驚き、感謝した。

本社の偉い人たちとの電話会議でキレる
緊張感のない会話に温度差を感じて、我慢できなくなってしまった・・・結果、その時から本社対応は大きき変わる笑

このころから医療製品が届くようになる。
トラックをチャーターして、運送会社を使わず直接運んできた。
会社の底力を感じた。
このころ、東北大学などは医薬品などが届かず、逼迫した状況になっていた。
会社がチャーターしたトラックに、持ってこれない医薬品も載せてきた。
大きな医療貢献だったと思う。
しかし、東北大で荷物を降ろしてから、トラックが来るのはいつも夜中・・・
会社に泊っているのは一人でが多く、運転手一人では大変なので夜中にエレベーターを10往復・・・

3月16日

初めて津波の現場へと向かう
閖上が実家の社員の家へ
水は引いていたが津波に飲まれていた
家の前には車が、そしてそこには●が書かれている。
その意味を知ったのは少し後だった。
そしてよく来た閖上の市場、仲間と自転車レースに参加したサイクリングコースは跡形もなく無くなっていた

仙台空港から荒浜方面を抜け多賀城へ
仙台空港の周り昔あった家も跡形もなく、仙台港アウトレットは泥にまみれ、多賀城の街はガス臭く
車はどこかしこに転がり、瓦礫だらけで・・・

この日の空はどんより曇っていて、最後に回った東松島の空の色は今も忘れられない・・・
絶望の空、そう思った。
復興はもう無理・・・本当にそう思った。

3月17日~

朝、事務所で目覚めると、すぐ見える風景は目の前のダイエーに並ぶ長蛇の列。
ここには蓄えがある状況で申し訳ないと毎日思う

国分町に行くと見たことのない光景が
トラックが扉を開け、闇市の様相、カップラーメンが1000円・・・
黒塗りのベンツが数台連ね、ビルに入っていく。
経営している店がどうなっているのか確認なのか。
他のビルの前ではすっぴんの女性がおにぎりを売っている。
多分、このビルに入ってる飲み屋のママなのではないだろうか、日銭を稼ぎに?

風呂に入るのは中々難しい。
都市ガスは完全に止まっているので、街中はお湯が沸かせない。
国分町の一部のラブホはプロパンなので入れるとの情報が。
予約して泊る。

町はずれの極楽湯もお風呂に入れた数少ない場所だった。
行けばあり得ないくらいの混みよう
シャワーを使うのに、長蛇の列
風呂で風邪ひける

警察からペースメーカ患者紹介の問い合わせが入るようになる。
ペースメーカに入ってるシリアルナンバーは個人に紐づいているため、確実な本人確認の方法となる。
調べながら、この方が津波で亡くなられたのだと思うと、いたたまれない気持ちになった

3月末

たまに山形に帰ると山を一つ越えただけで空気感が違うことに悩まされる。
山形の人は震災の深刻さをわかっていない、許せない感情が沸き上がる
初めて山形が嫌いになりそうになった

初めてボランティアを企画する。
社員に呼び掛けたところ、全国からあっという間に80万円ほどが届いた。
場所は多賀城小学校、体育館が避難所になっていた。
キッチンカーを手配し、うどんの炊き出し
皆喜んでくれるだろうと思って行ったのだが、避難所は複雑だった。
独特の雰囲気と、沈んだ顔人々・・・被災した人たちの現実を初めて見た気がした

このころ本社のとある人はスイスから極秘にヨウ素剤を入手したらしい・・・
凄い力、行動力。

4月1日

自分の中で一度リセットしようと思う。
震災後初めてスーツに袖を通し、東京本社へ向かう。
社長はじめ、お世話になった人へ挨拶

ここからも震災とのかかわりは続くけど、続きを書くことがあれば
10年経っても何年経っても忘れてはいけない

東北魂

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