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もう膨らまないと思っていたお腹

「わたしのお腹が大きくなる日はもう来ないかもしれないなぁ」と思っていた、フラットだったお腹が今パンパンに重たーくなっている。

歩けば股関節が痛く、座っても苦しく、夜は眠れず。もう一度こんなふうに苦しくも楽しみな日が訪れるとは。

見知らぬ土地での出産

4歳半になる長女は、デュッセルドルフに来てから1ヶ月後に産まれた。「出産なんて全人類共通のことなのだからどこで産んでも大丈夫」と、心配する同僚をあしらった。産休に入ってすぐに渡独し、産院を探して出産した。

長女の出産は、普通に陣痛が来て子宮口が全開まで行ったものの、そこから胎児心拍が落ち、緊急帝王切開になった。目が覚めたら一人静かな部屋に寝ていて、娘が生きて産まれたのかどうかもわからなかった。

しかしその後運ばれた部屋で、元気な娘に会うことができ、私は入院中咳に苦しんだものの、順調に回復し、何も特別なことなどなかったと思っていた。

一年後の婦人科検診で、もうすっかり傷口も回復しているから二人目を考えてもいいと、日本人のかかりつけ婦人科医師に言われた。

繰り返した流産

次の妊娠8週目は、ちょうど娘が二才の誕生日を迎える日だった。前日には心拍が確認できていたのに、早朝に出血があり、慌てて病院に向かったが、もう超音波で姿を確認することはできなかった。

悲しみに暮れてぐちゃぐちゃの仕上がりになってしまった誕生日ケーキのろうそくを、嬉しそうに吹き消す娘の姿を見ながら、こんなに素晴らしい生き物が簡単に生まれるわけはないのだと、自分に言い聞かせた。

そして同年冬、また8週目で流産があった。なんとなく覚悟はしていたが、やっぱり同じ結果になった。年齢的には若くはないけれど、それでも確率的に2回続くのは何かがおかしいように思えた。まずは理由を調べなければ、と思った。

適当だったかかりつけ婦人科医

デュッセルドルフで日本語の通じるかかりつけ産婦人科医は一人しかいない。通訳を介してドイツのドクターにかかることもできたが、やはりダイレクトに会話でき、日本の感覚も共有できるその先生は日本人女性に人気があり、わたしもその先生を頼りにして通っていた。

2回目の流産と診断されたその日、わたしはなぜ二度もつづけて流産したのか調べて欲しいと頼んだ。実は娘を授かる前にも一度流産していて、それを合わせると3回になる。しかし彼女は「ドイツでは3回流産した場合、不育症と診断されるけど、あなたの場合は一人産まれて居るから当てはまらないしねぇ」と普段と変わらない調子で言った。

思い当たる原因はないかと繰り返し質問したが、はっきりした答えはなかった。最後に彼女は超音波で子宮を確認しながら「手術の傷ははっきり見えるけど、これは関係ないからねぇ」とつぶやいた。「はっきり見える」というのはどういう意味なのか、わたしは何らかの手がかりがほしくて、その言葉にとびついた。

はっきり聞き出すまでに何度問答を繰り返しただろうか。驚くべきことに彼女が「はっきりと見える 」と表現したのは、「帝王切開の傷がちゃんと塞がってないように見える」という事だった。

当時の超音波写真 右下の黒い部分が問題の帝王切開傷

しかし彼女はそれは何事でもないかのように「でも毎回の生理の時に痛みがないのであれば、子宮の中身が外に漏れている事はないということで、実際はおそらく薄皮か何かがあって塞がっているのだと思う。万が一、傷が塞がっていないとしても、初期流産とは関係ないからねぇ」と続けた。そして最後に「流産の原因はわからないわよ。もう一回妊娠してみたら?」と言ったのだった。

わたしはパニックになった。気にかけるべき重要な問題はもはや初期流産では無い。もし子宮の傷が塞がっていないのだとしたら、妊娠初期がうまくいったとしても、後期に子宮が破裂する可能性があるだろうことは素人でも想像できる。パンパンのお腹を抱えたことのある人ならこの恐ろしい感覚をきっとわかってもらえると思う。

「この人は本当に医師なんだろうか??」言葉の通じない世界で頼みにしていた医師の、あまりにも不誠実で楽観的な態度に崩れ落ちそうになりながら、どうにか大学病院への紹介状をゲットした。

子宮再建手術、5ミリの穴を縫い直す

大学病院でMRTを撮って精密検査をしたところ、帝王切開の手術痕はちゃんと塞がっておらず、子宮に直径5ミリの穴が空いていることがわかった。膀胱が穴を押さえる形で位置していたため腹痛などにはつながら無かったものの、月経血液は少量外に流れ出ていると言われた。3ヶ月後の手術予約をし、絶対に妊娠しないようにと言われた。(そりゃそうだ)。

手術の傷がうまく治らなかった原因は、不明。インターネットで検索をしても、帝王切開の術後不良というのはあまりないケースらしく、はてなの書き込みが一つあっただけだった。わたしが原因として思い当たるのは、術後に激しく咳が出たこと。病院は母乳に影響が出るからなのか、いくら訴えても咳止めをくれなかったが、咳をするたびに抜いたての傷に激しく響いて痛かったのを覚えている。そして、緊急に行われた帝王切開であり、どこまできちんと切開、縫合されたのか不明なこと。執刀医の経歴について問い合わせても当時の病院では詳しく教えてくれなかった。

2020年5月、コロナで誰も見舞いに来れない中、子宮再建手術を終えた。目がさめてすぐ、痛みと寒気で歯がガタガタ震え、また意識を失った。子供が産まれたわけでもないのにまた大きく切り裂かれたお腹は赤黒く膨れてひどく痛んだ。腹腔鏡のために開けた二つの穴からはそれぞれ血液を流すドレーンがつながっていた。翌日には歩かされ、気持ちが悪くなって吐いた。

ひとりで病室の天井を見ながら、「もうこんな風に痛い思いをするのは嫌だ」と思った。「どうして女の人ばかり痛い思いをするのか。男女交互に出産するように進化したらいいのに」と、感情が押し寄せた。

ヨボヨボとようやく歩ける状態で退院した日に母から言われた「これで次が考えられるね!」という言葉が怖すぎて、泣いた。

なかった覚悟と、決めた覚悟

半年検診で手術後の経過に問題がないことがわかり、妊娠してもいいと言われたものの、夫は少し仕事もやりだして忙しくなったわたしをほっておいてくれ、二人目のことを自分から言い出すことはなかった。

わたしはゆっくり正直に自分の気持ちと向き合いながら、二人目を産まず、このまま一人っ子でいくことの選択肢も検討してみた。

4歳半になるともう理解力は一人前で、一人の人間となり、子育ても終わりに思えてくる。自分も復帰してここからバリバリ働けるかもというイメージがようやく掴めてきたところだった。働くことだけを考えれば、ここからまた二人目を産むなんてやめた方がいいに決まってる。

でも、今思えば何故だったのか、わたしは一人目を産む前から、子供を二人は産むものと思っていた。夫にもわたしにも兄弟がいたからだろうか。

娘の新生児からの成長過程も“またもう一度”見られるものと思い込んでいたし、洋服や赤ちゃんグッズも“またもう一度“使うものと思ってすべて段ボールにしまい込んでいた。

だから「もう一人っ子で良いか」と気持ちに整理をつけようとした時、気づけばずいぶんと大きくなっている娘を見て、あぁ“もう一度“あんなに手こずらせてくる小さい存在が私のもとには現れることはないのだなぁと、覚悟なく過ごしてきてしまった色んな最後の瞬間に気づいて、泣けてきた。

世の中的にはコロナ真っ只中だった。感染規制でお友達と遊ぶことが難しかったり、仲良くしていた駐在家族が続々と帰国になってしまったりで、我が家だけポツンと寂しい感じが否めなかった。人と関わることが何より大好きな娘に、きょうだいがいたらどんなだろうと考えることが多くなった。

「やっぱり家族は賑やかな方がいい」と思った。日本にいて、家族親戚がそばに居たら、また違った気持ちになったのかもしれないけれど。二人育児にまつわるいろんな揉め事や苦労も、家族で挑戦を重ねて解決していくこともまた楽しそうだと思った。今、その可能性があるのなら、挑戦しようと覚悟をきめた。

生かされた三つ目の命

それからしばらくして、ついにサバイバルベビーがやってきた。手術前に二回の流産が続いた8週を過ぎてもしっかりとお腹に残って力強く動く心臓を見せてくれた。でもわたしは9週、10週を過ぎても「初期流産と子宮の穴が関係ない※」という元かかりつけ婦人科医師の言葉が頭を離れず、日々突然の出血に怯える日を過ごした。ようやく身内家族に言うことができたのは、12週を過ぎた頃だった。

結果から考えても、結局初期流産と子宮の穴には関係があったと思う。大学病院の医師も「関連がある可能性はある」と否定しなかった。どちらにせよ、わたしは流れた小さな二つの命に助けられたのだ。そして手術の後、力強く生き続けてくれた三つ目の命も、流れた二つの命があったから生きられたとも考えられる。外に出て呼吸することがなくとも、確かにいた家族で、私たちを守ってくれた存在だ。

無事に迎えた分娩予約、経過順調と診断

そして迎えた30週目、分娩予約をするため去年子宮再建手術をした大学病院を尋ねた。ドイツでは経過観察をするかかりつけの婦人科医と、実際に出産できる病院が違う。前者は大抵ビルの一室にある小さなクリニックで、後者は入院施設のある大規模な病院だ。妊婦は出産が近づいたタイミングで、クリニックから紹介状をもらい、大規模な病院に行って分娩予約を取り付ける。

大学病院では、執刀医の希望を出すことができ、一昨年、再建手術で執刀してくれた副院長先生を希望した。彼は私の手術を覚えていてくれ、すぐにおめでとうと言ってくれた。経過が順調と判断されたわたしは、予定日の二週間前、38週で計画帝王切開となった。父の誕生日と同じ、バレンタインデーだった。

オミクロンの登場

手術直後の私にもうひとり産めと言う程、孫に前のめりの母は、二人目の出産に合わせてドイツに来ると意気込んでいた。ただ、年末からオミクロンが出現し、2月中に半分のヨーロッパ人が羅漢するというWHOの予測があったこと、本人の3回目接種が間に合わないことから、応援に来てもらうことをやめることにした。

夫は一人目の時のように母の助けが来ないことで気合が入ったらしく、二ヶ月の育休を取得してくれた。保育園のパパ友、ママ友も、日本から家族の助けが来ない事を知って「ooちゃん(長女)の面倒をみるよ」と言ってくれる。頼る身内がいない中で、暖かく手を差し伸べてもらえたことに救われる思いだった。

オンラインで続けていた仕事を全て納め、37週を迎えた時、娘が参加していたお友達の誕生日パーティーで参加者の一人がコロナ陽性となった。娘は濃厚接触者として保育園を休み、5日間の隔離をすることとなった。

子供のウィルスに気をつけると言うのは、母にとってはとてもストレスなものだ。普通なら、自分も一緒にひいてもいいとどこかで思えるのに。家でマスクをし、娘の触れたものに出来るだけ触らないようにと気をつける日々は辛かった。6日目、市民であれば無料でできる簡易抗体検査で陰性となり、無事娘は保育園に復帰した。

出産一週間前に感染?!

ブースターについては、出産が終わるまで見送るつもりでいた。しかし娘が濃厚接触者になり、いよいよ感染も時間の問題という状況になって考え直した。出産まで残り一週間の月曜日、産婦人科の検診で聞いてみると、医師は迷うことなく「新生児を守るためには今日明日にでも受けた方がいい」とのことだった。

そのまま向かった予約のいらない接種会場には、明らかに熱のありそうな子供を抱えたお母さんが来ていたりと、なんだか嫌な予感はした。翌日、喉に違和感があり、翌々日には声が出なくなった。手術2日前、娘の保育園のクラスでもコロナ陽性が出た。

完全に感染したと思ったものの、ギリギリのタイミングでブースターが効いたのか、自宅での簡易テストキットは3回やって全て陰性だった。そして、大学病院で行った入院前PCRテストでも陰性だったため、予定どおり出産できることになった。

終わりと始まり

この投稿を書いている横では、生後三日を迎えた息子が寝ている。ここまで三年半ちょっと、帝王切開後の連続流産、子宮再建手術、オミクロンとの戦い、幾度のピンチを乗り越えて誕生した力強きラッキーボーイ。

コロナ禍でも、的確な医療を提供してくれた大学病院と、力を貸してくれた友人達、立派なパパと家で待ってくれている娘に感謝しかない。苦労していた時間に、素晴らしい関係性が育っていた。ここから新しく始まる生活が楽しみで仕方ない。

二人目の妊娠をめぐって葛藤した日々には、同じような経験をした人の声を聞くことで慰められたり、新たな発見をしたりして、パワーを貰っていた。わたしのようなケースは多くはないのかもしれないけれど、どこかで悩み苦しんでいる人がいたら少しでも力になれれば嬉しい。

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