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私はあなたの瞳に映る一枚の絵

「アートには”あっち”と”こっち”があるのです」

そう教えてくださったのは、当時21世紀美術館で副館長を務めていらした黒澤伸さんです。
その頃の私は、ちょうど現代アートに関心を持ち始めたところで、21世紀美術館をご近所さんに持つという立地を活かして、現代アートを紹介するラジオ番組(超入門!ここから始まる現代アート!)を企画しました。

今から思えば、アートの知識も全く無いままで始めた、かなり挑戦的な番組です。(というか無謀)
覚束ない進行にも関わらず、なんとか12回の講義を終えることができたのは、兎にも角にも黒澤さんの豊かな知識と経験と人柄、そして話術のおかげです。
パーソナリティというよりは、出来の悪い生徒のような私でしたが、そこで教わった内容は刺激的で印象的で、その後の私のアートの鑑賞体験をとても深めてくれるものばかりでした。

その中の1つが、冒頭の言葉。

アート作品の中には、時として「境界線」が存在するのだと言い、その一例として、レアンドロ・エルリッヒのスイミング・プールなどを解説していただきました。(プールの下にいる人と、プールの上から覗き込む人が、水面という境界線に分けられているというお話でした)

境界線によって分けられる「あっち」と「こっち」

私は長く、これを「分断」なのだと思っていました。
何かと何かが隔てられている、それを探すことが、アートの1つの観賞方法なのだと、ごく当たり前に捉えていました。
しかし、それが、数年の時を経て、まるで違った意味を持ちながら私の前に立ち現れます。

1枚の絵画として。

※アーティゾン美術館で撮影させていただきました。

一目見て、半端ねえ~と言いたくなるこちらの絵は、アーティゾン美術館が所蔵する、1904年に発表された青木繁の『海の幸』です。
日本洋画の代表作とされていて、お友達から漁港のお話を聞いた青木繁がイマジネーションを膨らませて描いたと言われています。
だから、本来の漁の様子よりもむしろ、青木繁の神話的イメージが優先されているらしいですね。
漁師たちがまるでお神輿を担いでいるみたいに描かれているという解説もされています。

『海の幸』でよく取り上げられるのが、中央に描かれている白い顔の漁師です。
周りの漁師達に比べて、かなり中性的、というか女性的なこの人物は、青木繁の恋人をモデルにしたと言われています。

※拡大しました。

で、そんなことはどうでもいいのです。

この漁師、こちらをめちゃくちゃガン見してませんか。

ふとした視線、なんてもんじゃないです。
みんなが真面目に前を見て、漁の収穫を運ぼうとしてるのに。

めっちゃよそ見してませんか。

しかも、その表情。

ちょっと驚いていませんか。

明らかに、何かを見てしまった人の顔です。

つまり、鑑賞者の顔なんです。

何を見ているのか、その視線の先にいるのは鑑賞者である私たちです。

漁師は、向こうの世界から、私たちを観賞しているのです。

ここに、私たちと絵画の相互関係が発生しています。
両者は等しく、見る⇔見られる の作用の中にいるのだという、作者の意図を感じます。

境界線の話に戻ります。

「あっちとこっち」が分断を指すのだとしたら、『海の幸』の境界線は、鑑賞者と絵画の間に引かれているのだと言えます。

しかし、ただそれだけで解釈が止まらないのは、こちらを見つめる漁師のあまりの視線の強さのせいです。

私が白い顔の漁師を見つめるのと同じ強さを、漁師から返されていると感じさせるほど「ピントの合った」まなざしなのです。

ここに、まなざしの等価が発生します。

鑑賞者のまなざし=絵画(漁師)のまなざし

そして、質量のあるまなざしは、その背景には物質的な世界があるのだと感じさせます。

つまり、私たちが自分の世界から絵画の世界を覗き込んでいる一方で、絵画の世界もまた私たちの世界を覗き込んでいるのではないかと思わせるのです。

加えて、私たちの世界と絵画の世界は、等しく同じだけの質量を持って存在しているのではないか、という予感も漂います。

鑑賞者の世界の質量=絵画の世界の質量

そう考えると、鑑賞者と絵画の間に引かれた境界線は、ただの「断絶」以上の意味を帯び始めます。

境界線の向こう側には、今自分が存在するのと同じだけの重みを持つ世界が広がっているという「等価」を表す記号でもあるのではないかと思うのです。

そして、これって絵画観賞の話だけでもないな、とも。

分断が進む時代と言われています。
情報が多元化し、誰もがスマートフォンを手放さず、隣にいる人が何を見ているのかすら全く分からない、不思議な世界を私たちは生きています。
自分以外の全ての人間との間に、境界線が引かれているとも言えます。
その結果、境界線という糸で紡がれた繭の中で、たった1人でしか生きられない、蚕のような存在になっているのだ、とも。

安全で、想定内のことしか起きない。
嫌いなものはずっと嫌いで、好きなものはずっと好きでいられる、誰にも否定されない。
小さな弱い蚕でも、生きていける。
そして、繭の外を、否定し続ける。
そんな世界に生きているのだ、とも。

理解できないもの、納得できないものに対する批判の声が、ここ数年でどんどん過熱しているのを感じます。
それによって、古き時代の悪しき物が払拭されていく、清々しさを覚えるときもあります。
でも一方で、否定が強すぎるあまり、失われてはいけなかったはずが消えてしまったものも、確かにいくつかありました。

分からない、と思うとき、自分が境界線で紡がれた繭の中にいないか考えたいです。
そして、繭の外には、自分の世界と同じように、他者の世界があるのだと、確かにあるのだと想像したいです。
その時には、境界線の向こうからこちらを見つめてきた、あの白い顔の漁師を思い出せますように。

「ね、あの絵面白いね。美術館の中の風景を描いてるのかな?」

彼らの世界では、そんな感想が交わされるのかもしれません。
私たちも境界線の「あちら側」にいる、1枚の絵に過ぎないのだとしたら。

〈了〉

※「行列からこちらを見つめる人」のモチーフは色んな絵画で見られるので、探してみても面白いです!上の絵はゲオルゲ・グロスの『プロムナード』ですが、これも2人の女性と完全に目が合いますよね。こちらもアーティゾン美術館で撮影させていただいたもの。

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