ゴッホのキャリア

皆さんおはようございます
よくよく聞くとひつじって
うぇーーーって言ってる気がするんだけど
なぜめーーってかんがえたときに牛がもーだから
マ行でまとめにいった際に一番しっくりきたのがめーーってなった説を密かに信じている
日本一のキャリアコンサルタント

多和田泰久です。

さて本日は
ゴッホのキャリアについて

ゴッホさんとは?

フィンセントファンゴッホのこと

みなさんご存知の画家さんですね。

さてこのゴッホさんはどんなキャリアを歩んだのでしょうか?

芸術家であるゴッホ

人生の幕を下ろしたのはなんと

37才

非常に短くそして結構紆余曲折なキャリアだったそうです。

巨匠!!見たく世間では騒がれてますが
本人はそのことを理解する間も無くこの世から去られました。

しかもキャリアがすごいんです。

どうすごいの?

まさかの側から見たら
マイナスの人生

少しだけキャリアを説明

ファン・ゴッホは1853年、
オランダ南部・ズンデルトで牧師の長男として産まれました。
子供の頃から感受性が強く、
癇癪を起こしては周囲を困惑させたと言われています。
つまり今だと発達障害と診断されそうですね。

一人、無断で出掛けては、
草木や昆虫といった自然を眺めていたのです。
この頃の原体験がのちに自然や農家をモチーフに選ぶきっかけとなったのかも!!

11歳には父への誕生日プレゼントとして

描いた素描

『農場の家と屋根』

すでに類いまれなる絵の才能が見て取れます。


安定しないキャリア

1866年に国立高等市民学校に入学しますが、
卒業まであと1年というところで自主的に退学してしまいました。
その後、叔父の助けもあり画商グーピル商会の店員として働き始めます。

弟、テオ生涯に渡り、良き理解者

兄であるファン・ゴッホを支え続けました。


テオの支えの中働いているが
宿屋の娘への大失恋
(娘ではなく、他の人物だったという諸説もあり。)で
精神不安定に
重いうつ状態になり、
最終的にはグーピル商会をクビになってしまいます。

またまたキャリアチェンジ

ファン・ゴッホは
元々興味があったキリスト教を更に学び、聖職者になりたいと奮闘しますがこれも失敗に終わってしまいます。そのほかにも教師など転々とする。
も挫折

27歳で画家に

画商時代に触れた絵画に情熱を注ぎ込むようになり実家に戻っても、家族からは働かないものとして冷たい眼差しを受け、またも女性関係でも揉めてしまいます。

その間も絵だけは描き続けました。
しかも独学で
もちろんネットも無いですしね

ゴーギャンとの運命的な出会い

変化する画風

 
 
オランダのデン・ハーグ
ハーン地方、
ベルギーのアントウェルペンを転々とし、
絵画に集中も
生活消して安定していない
そんな生活を続けながら
自身の作風を見出した
ゴッホ。

ここで転機

1886年パリで
ポール・ゴーギャンやジョルジュ・スーラ、ポール・シャニックに出会い交流を深めることで、静物画や貧しい農民といったおとなしめの作風から、これでもか、とまでにキャンバスに自身の感情を荒々しい筆致で現し、内面の情熱を鮮烈な色使いに託した作品へと変化します。
ゴーギャンも
ファン・ゴッホ同様に貧しい暮らしを強いられていました。
彼らは同居することで貧困を解消しようとします。しかし、我の強い画家同士。
激しい喧嘩が絶えず、遂に激高したファン・ゴッホは衝動的に左耳を切り落とす行為に!

え?自分の?

うつ病の悪化、疾患からくる妄想、遂に自死へ…

 
 
ファン・ゴッホは精神病院へ入院しますが、

うつはもう回復の見込みがないほどに重症化していました。
アルコール中毒にも陥り、妄想に悩まされるようになってしまいます。

1890年7月27日


遂に拳銃で自殺をはかり、
その2日後に永眠。

わずか37年という生涯

でした。
(自死については、他殺という説もあり。)
家族との軋轢、理解者の不足…。確かに彼の人生は悲しい出来事が多かったようです。

彼の生きることへの渇望や、飢餓的なまでの愛情を欲する気持ちが数々の名作を残し、
美術に貢献したのは

生きた証として残るものは素晴らしいは本人の生きた時間のキャリアはどうだったのでしょうか?

病と闘いながらも自然や貧しい農民を愛する心を持っていた優しい

ゴッホ

生きてる間はどんな想いでいきたのか?

とても良いキャリアと

生きた間に感じたかはわかりませんが
本人は幸せを感じでたのかもですね。

だって好きなことをずっとやってた感じがするから
あなたはどんなキャリアをあゆみたいですか?

ではでは

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?