戦時下の地方医の日々を顧みて

(初出:桃生郡医師会だより(2010)より)

阿部史子 著

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阿部 蔀(あべ しとみ、1880〜1949)

苦労の連続だった戦前の地方医療

 先日NHKの「坂の上の雲」を見て、同じ明治生まれの、一地方医でした父のことを書き記してみようと思いました。一時期、桃生郡医師会長として戦時下の業務を担った父は、近隣の青壮年の医師たちが出征した後の、銃後の患家を老骨に鞭打つごとく広範囲を東奔西走する日々でした。平和な今日から比べて戦時下の不足、不自由の時代ゆえの苦労が多かったと思います。先ず①には地方の道路が舗装も整備も至らなかったこと。②救急車も携帯電話もなくて、緊急連絡に時間のかかったこと。③健康保険もなかった頃で治療費の支払い延期、滞納も多かったこと。④風雪を通す人力車での往診。⑤土日の休日などなきに等しかったこと。⑥近隣の医師の出征で医師不足故、遠方にまで往診しなければならなかったことなどです。

 父のことを思い出すことでその困難の原因を知ることができました。私は18歳の夏、70歳の父を亡くしました。それからすでに60年を経過した現在、後期高齢者の私には、やがて昔の日の全てを思い出せなくなる日が来るだろうと思い、忘れがちの記憶を辿って、垣間見た父のいきた日々を書き記すのも今しかないと思い、拙い筆をとりました。

 羽織袴で人力車に乗って

昭和14、15年の頃、小学校からの帰り道で人力車に乗られた伊藤長敏先生や父が、道行く人々の礼を受けて車上から中折れ帽を右手にちょっと持ち上げられて、応えておられるのを仰ぎ見たものでした。

 その頃の先生方は、鼻下にお髭を蓄えておいででしたし、お出かけの時もまだ和服で、羽織袴の時もおありでした。往診の時も背広を着られ、夏にはシュバイツァー博士がかぶっておられたような、つばが少し下がり気味の固めの帽子をかぶられる時もございました。

 日露戦争で九死に一生

 明治13年12月生まれの父は、単身上京して長谷川泰先生の東京済生学舎に入り、野口英世博士や吉岡彌生女史と同窓でございました。卒業後の24歳の頃、日露戦役に応召、乃木大将の率いられた二百三高地の戦に参加、テントの中で傷病兵の介護中、飛来した敵の砲弾の為周囲の人々とともに土中に埋もれ、幸い足先が出ていたのを発見され九死に一生を得ることができたそうです。

 私どもが小学生時代には、小国の日本が大国ロシアに勝ったことを皆誇らしく思っておりましたが、二百三高地はその10年前、日清戦争で戦った時より以上に堅固に要塞を築いていて、非常に険しく侵攻部隊の司令官の引き受け手がなかったのを、乃木大将が敢えて引き受けられたと聞きました。高い坂の上からロシア兵の撃ってくる砲弾を浴びて、戦傷死者夥しく、乃木大将の2人の御子息も戦死されたと伺いました。

 6年生の頃には、乃木大将作詞の漢詩を教わりました。「山川草木転荒涼…金州城外斜陽に佇つ」や小学唱歌の「広瀬中佐」の杉野はいずこの歌や、「旅順開城 約なりて」で始まる水師営の歌に、乃木大将と敵将ステッセルの「昨日の敵は今日の友」武人の美しい心を学びました。

満州事変から太平洋戦争へ

 父が後年太平洋戦争下、病める人々の治療に東奔西走できたのも、この若い日々の厳しい経験に励まされての事だったろうと思いました。父は帰国後、仙台の産科に勤務して後、北鍛冶町に内科小児科産科を開業して附近の学校の校医などを勤めて居りましたが、桃生の祖母の病が重くなり、県会の仕事で留守の多い祖父に請われてか、長女である母は、祖母のそばに帰る日が多くなり結局中津山に開業し祖父母の老後を看取りました。

 私の生まれた昭和6年には満州事変が始まり、小学校入学の昭和12年には支那事変と言われる日中戦争が始まり、20年8月終戦になるまで戦時下の日々でした。資源の少ない日本で燃料は南方から輸入しなければならず、飛行機や戦艦を作るために家々から貴金属や種々の品々が供出されました。

一人息子を病で失う

父の生涯を思い返しますと、人生はその時代の有様に深く影響を受けざるを得ないもの、殊に世界や国が戦争の下にあります時、全国民それぞれに食糧や衣類や住居交通に至るまで困苦に耐えざるを得なかったと知り、その苦しみを語らず耐えて与えられた職責を果たそうとした老いたる父にいとおしさを覚えずにおられませんでした。

昭和11年一人息子の兄は同宿の友人から罹患した結核が癒えず法政大学の卒業を待たず先立ってしまいました。愛息を失った父は痛恨の極みだったと思いますが、悲嘆にくれている暇もなく日本は支那事変に突入し、続いて太平洋戦争が始まりました。

老体に鞭打って孤軍奮闘

 近隣の青年達は次々と郷里を離れて戦地に赴き、近くの壮年の開業医の先生方も出征され、診療は残った老医師の肩に背負わされたようでした。往診は外来患者さんの診療が済んでからの午後や夕方の出発になり、人力車の足許にひざ掛けをかけて出かけますが、途中吹雪になったりして幌の隅から老骨を鞭打つように雪や寒風も入り込み、車を引く俥夫ともども、どんなにか身の縮む思いだったろうかと思います。

ダットサンで東奔西走

 医師不足のため、遠い隣の郡の横山や箟岳あたりからも、往診の願いが増えてくるので、それまでの人力車では応じきれないので、当時では珍しかったダットサンなどで広範囲を往診いたしました。自家用車に替えてからも一面の雪景色で田圃やら道やら判然せず、片車輪が道から外れて車外に出て押したりしたとか。道は舗装されて居らず、くぼみに泥水がたまり、車輪は泥に塗れ、タイヤが空まわりして泥を跳ね飛ばすだけで中々くぼみから抜け出せなかったことを私も同乗した時に経験しました。当時ガソリンは配給制で、限られたわずかの量の切符と交換で、飯野川署に出向いて頂いてこなければなりませんでした。

徳を天に積む

 健康保険制度のなかった時代ですし、薬代や治療費はお米の出来秋まで支払いを延期。或いは滞納も度々で、却ってお米などを届けたこともあり、お産は夜を徹してのことも多く雪の降る午前3時頃帰るのも当たり前のことでした。

 北上川にまだ橋の掛からなかった頃、川向から「医師や産婆さんに来て見て頂いたが一週間経っても生まれず、産婦も極限状態なので、どうか助けて欲しい」と迎えに来た人々に請願され、俥夫が人力車をかついで渡し船に乗り対岸に渡ってからも雪道をやっとの思いで患家について、明け方近くに漸く生まれ、親戚近隣の人たちこぞって喜んで皆で祝酒だと盃をすすめられ、帰り際に往診料について家人が云い合っているのを聞いたが、頂かないまま帰って今日までそのまま過ぎたとのこと。つねづね徳を天に積むような考えを持っていいた為と思います。大正・昭和初期の世相では他の先生方も同様なことを経験なさって居られることと存じます。

一人書斎で謄写版作り

 戦もたけなわになり物資も不足になって参りました昭和14年、父は桃生郡医師会長を拝命し、当時は事務職の方等も居られませんので、父は診察の終わった夕方から夜半まで離れの書斎で置爐に時々手をかざして暖をとりながら、医師会の先生方への中央からの通達などを謄写版でひとり黙々と刷っておりましたし、配給の砂糖やマッチ、椰子油や石鹸等の日用品まで部屋いっぱいに広げて、お一人びとりのお名前の所に仕分けて、それを運転手が先生方のお宅迄お届けしたようです。

 ある年の医師会には我が家にお集まり頂き、遠方の先生にはお泊まり頂いたように覚えております。父が会長職に奉仕しておりました頃、私は小学生でしたので、夕食のお使い等に参りました時に、かいまみた父の様子を申し上げましたが、医師会の重要なお仕事については詳しく存じませんでした。

 昭和17年頃には手伝ってくれて居りました運転手が出征したため、医師会の業務にも支障をきたすのではと、会長職を御辞退申し上げる結果になったのだと思います。

田畠をすべて失う

 戦に勝つ迄はと、国民等しく忍耐し努力したのですが、戦は敗戦に終わり、英米中の連合国は日本の弱体化を計り軍隊を解散し皇族・財閥・地主の農地解放を行い、家族一人たりとも直接田を耕作しなかったという理由で、私どもの田圃はすべて没収されてしまいました。

 昭和17・18年頃、「山下駅迄しか切符が買えなかったので歩いてきました。」と旧制二高、明善寮の学生さん達や医学部に入られた方々も、かわるがわる父を訪ねてこられ、夜更まで70歳に近い父を囲んで肝胆相照らすごとく歓談して行かれました。後年になって、或る医師にお目にかかれました折、当時進路を決めかねて迷っていたが、蔀先生にお遭いしたことで医学部進学を決定した。私の今日あるのは、先生のお陰ですとのお話を伺いました。困難に耐えて努力していた父への何よりのはなむけだったと思いました。今日の医業に精励して居られます先生方やスタッフの皆々様は、戦時中とは又違った御苦労がお有りとそんじます。謹んでご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。

 阿部蔀氏略歴

 阿部蔀は、明治13年(1880年)中津山高須賀の細川清五郎の次男に生まれ幼少から学を好み、資性温厚篤実仁慈に富み、また謹厳おかしがたい信念の人、早くから済民救世を志して天下の第一人者になろうと思い、遠く東京の済生学舎に学ぶこと数年、刻苦勉励の末に立派に医師の免許を獲得した篤学の人である。

 中津山の阿部彦五郎、彼の才能手腕を愛し熱望して婿養子に迎え長女稲穂に配した。済生堂医院を開業するや、遠近その手腕を聞伝えて療を請うものが非常に多く混雑するほどの盛況であったという。

 明治37年(1904年)日露の戦役には衛生部下士官陸軍一等看護長として従軍、有名な旅順方面の激戦及び各地の戦に参加して傷病兵の治療看護につとめた。凱旋後、再び開業医として精励、この道の第一人者として誉高く、仁術を施して病になやむ人々を救うことも数知れず、地方医界の重鎮と目され、昭和14年(1939年)には桃生郡医師会長の要職に挙げられ、皆無の整理刷新、会員の神木と一致団結をはかり、専ら医道の昂揚、医学医術の発展普及に、公衆衛生の向上に尽くしその功績偉大なものがあった。

 阿部蔀はまた、公共心に富み、信望を担って村会議員に挙げられ村政に参与すること数年、その他耕地整理組合、信用組合の役員となり、或いは社会教育委員となり中津山小学校自動保護者会長として十数年の間会員を指導し、校地校舎の狭隘を見ては寝食を忘れて奔走し、当局を動かしてその拡張実現に努力するなど教育向上の寄与した功績また顕著なものがあった。

 また敬神の念に富み、鎮守白鳥神社の氏子総代に選ばれては氏子の敬神思想の普及涵養に、神社の意地経営に鋭意努力しついに多額の神社維持金蓄積を達成し、或いは社殿の修理屋設備に率先して多額の寄進をして敬神の範を示し、また神社会計係を担当すること30年の長期にわたって、一糸乱れぬ整理をするなどその功労実に偉大なものがあった。

 また博学で文才があり、歌道にも通じてその名高く遺詠は数多くあるがその作品のいくつかを以下に掲げる。

小春日 
長閑なる小春日和に子等はまた、母の目しのび上着ぬぐなり

夏田家 
帰るなく田中の菴の竹垣に赤きささけの花さかりなり

波上月 
霧はれて鳴くかりがねも北上の川波白く月照り渡る

雪 清 
磯山の松の上白く雪晴れてなぎたる海を朝ひらきする

あるとき
迷わずと朝夕かみにいのりつつなお迷ひいる昨日けふかな

昭和24年9月病のため逝去。享年70歳。法名、済生院心戒道珠居士、城内、香積寺に葬る。(桃生町史より転記) 

阿部蔀(旧姓細川蔀)は母(旧姓細川秀子)の叔父で、この記事を作成した私(伊藤康彦)から見ると大叔父にあたります。

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