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外に出ることがZ世代の教育に不可欠

 例えば海外の学会に参加したとする.その時に自分はたくさんのことを学ぶだろう.何を話しているか,議論はどうやっているのかなどである.もっと身近な時には近接分野の研究室に遊びに行くという時もある.
 このような時,私は「外に出る」という表現をする.それまで自分の慣れ親しんだ評価体系を離れて別の論理が支配する場へと訪れる,そのような時は頑張っている人ほど早期に訪れる.このような場を設けることが若い世代(2023/11/19時点)の教育には不可欠であると考える.
 なぜ外に出ることが必要なのか.それを以下で説明する.

もはや平成ではない.

 自分が中学生,小学生のころには生徒を叱責したり,体罰まがいのこともある程度許されていた.それらを肯定するつもりはないが,それらによる「厳しさ」に指導の体型が支えられていたこともまた事実である.一方で現在の情勢を振り返ると「厳しくすることはパワハラ等のリスクがあり,できない」と訴える人がいる.この場合の「厳しくすること」は令和と平成では意味が違うのだが,これは後述する.
 「平成的厳しさ」が使えない以上,我々は新たな「厳しさ」を定義しなければいけない.そしてそれはパワハラにならず,かつ「令和的」でなければならない.

「平成的厳しさ」はなんだったのか

平成的厳しさはひとえに「評価基準の身近な人への外部化」である.部活の指導者や指導教官,そういった人へ評価を一任してその理想に合わせて動くと言うことが平成的な厳しさである.  そうである理由は1. 指導者がそもそも豊富に獲得できなかったこと,2.ある程度世代ごとに横並びの評価軸で良かったの二つである.そしてそれぞれの理由は令和になった今,前提条件等の変化により成り立たなくなっている.

指導者の変化

現代では指導者となる人間は一人ではない.SNSを使えば教授やプロスポーツ選手など権威ある人がメソッド等を発信している.そのような環境においてどうしてもITを使いこなす生徒の方がITの使えない指導者よりも詳しいことが出てくることがある.そのような時にその知識を用いて指導者に反論することは成長としては好ましいが,指導者の権威性の維持という観点からは好ましくない.

世代ごとの評価軸の多様化

前述したように現代の若者は様々な情報がより安価に手に入るようになった.小学生で数学検定1級を取っている人もいれば大学4年で心理系の国際学会で発表する人もいる.そのような人たちが同じ教室にいる時,きっと指導者は悪夢のような経験をするだろう.このような評価軸が多様化する中で従来のような画一的な判断基準は使えなくなっている.

外に出よう.外に出そう

以上の要因によって平成的な厳しさ,「評価基準の身近な人への外部化」は使えなくなった.そこで何をするべきか.私は「様々な人に意見を当てて聞いてみるべき」と考える.指導者と言われる立場の人とSNS等を使えば簡単に繋がれる時代であり,またそれを推奨する時代でもある.それぞれの興味関心のある人と本や論文だけで繋がる時代はすでに終わったのである.もしも何かに興味がある人がいたらそれに関する専門家にできるだけ早く繋げてあげることが重要である.そしてそれを行うことでそれぞれの指導者ごとの違う評価基準を体感し,段々と様々な評価基準に耐えうる能力と成果を得ることができる.

外に出る時に心がけること

ではそのような「外に出る」活動を行う中で若い人が心がけるべきことはなんだろうか.それは「こちらも何かすらの価値を提供する」ということである.なんでもいい.新たな解釈や若い人なりの考察,そのほか自分にしかできないことであればなんでもいい.それを相談する際にはもたらすことができると次のステップへ進みやすくなる.

以上が外に出ることがZ世代に必要なことである.

追記

実は「外に出る」という活動は大学にとって,「アメリカに勝つ筋道」であると私は考える.アメリカの大学は全寮制かつ大学間の物理的な距離が遠い.それとは違い,日本は都市部に若い人が集中し大学同士の距離は近い.なのでアメリカよりも「連携する」ということに関して物理的な制約は少ない.なので学生のうちから他の大学の人とも仲良くなり,様々な機会で連携して研究するべきである.これはアメリカにはできないことである.

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