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鏡~mirror~

カタン…カタン…

 なんの音だろうか。 私は時計を見た。深夜、2時。見回りの時間には少し早い。今日は何も起こらない、平和な日だと思っていたのに。

 カタン…カタン…

 きっとまた誰か病室を抜け出して歩いているのだろう。眠剤の影響で意識が朦朧としているのかもしれない。下手に動きまわられて、転倒でもされたら厄介だ。私はため息を大きくついて、立ち上がった。

――またひとつ、幸せが逃げちゃったわね。

 ため息をつくと、幸せが逃げる、と誰からとなく聞いた記憶がある。いつだったのか定かではないが。

 この病院に看護師として勤めて3年。辛いことも多かったが、それ以上に仕事にやりがいを持っていた。3年というのはこの病院からすれば長い方だ。早いものは1年もしないうちに辞めていく。

 辞める理由も様々で、仕事がきついから、人間関係で悩んだ末、他に条件のいい病院がある、そして、寿退職。

 寿退職なんて、今の私には無理ね、と思って、少し笑ってしまった。特に好きな男性もいないし、今はほしいとも思わない。

 私は気を取り直し、懐中電灯を手に廊下に出た。

 カタン…カタン…

 この音はきっと杖の音だろう。

 カタン…

 私は懐中電灯をホールのソファのあたりに向けた。そこには一人の女性が座っている。立花佳代子という女性だった。

「立花さん、どうしたんですか?眠れないの」

 私は小さいけれど極力明瞭な声で、問いかけた。

「鏡が…」 

「えっ?」

 立花さんの消え入りそうな声が私にはよく分からず、聞き返す。

「鏡が…鏡がないの」

 立花さんはとても悲しげな表情である。

「鏡?お部屋にあったのかしら」

「分からないの。鏡が、ないの」

 立花さんは昨日の午前中に入院の手続きをした、言わば“新人”である。私は初めて会うわけだが、夜勤に入る夕方の時点では、にこやかに挨拶もされていたし、特に問題はないと思っていた。片足に力が入りにくく、杖歩行であるため注意するようにと言われていた。

「どんな鏡かしら?手鏡?」

 立花さんは首を横に振った。

「もっと大きいの。なんて言ったらいいかしら」

「ひょっとして、お手洗いにあるくらいの鏡かしら」

 すると立花さんはうーん、と少し考え込むようなそぶりを見せた後、ぱちん、と小さく手をたたいた。

「思い出したわ。あれは、姿見って言うんじゃないかしら。ほら、こう、全身が映るような鏡よ」

 なるほど、姿見だったのか、と私は安堵した。

「立花さん、その姿見を探しているの?今日は遅いから探すのは明日にしない?」

 すると立花さんは、今までとは真逆の満面の笑みを私に向けて言った。

「大丈夫、もう見つけたわ。そして、間に合った」

「えっ?」

 私は立花さんの言っている意味が分からなかった。次の瞬間、私は背後に何やら気配を感じたのである。


――――そこに鏡――――姿見があった。

 私は絶句する。何が起きたのか、理解不能である。しかし、そこに確かに鏡があって、私と立花さんが映っているのだ。

「立花さん…これって一体…」

「だから間に合ったって言ったでしょ。毎回時間と勝負なの。どの病院でも私の話は途中までしか聞いてくれない。だけどあなたは最後まで聞いてくれたわね。感謝するわ。ありがとう」

 そう言うと立花さんは恭しく頭を下げた。

「どういうこと?最後まで話って…」

 まさか、最後まで話を聞いてはいけなかったのか…?そう思ったのとほぼ同時だった。立花さんがにやり、と笑った。

「この鏡はね、あちらの世界とつながってるの、そしてあなたはあちらに行くのよ」

 どういうこと―――と言ったつもりだった。しかし、声が出ない。私は自然と鏡にくぎ付けになった。

 そこに、もう一人の私が映っていた。だが、明らかに私ではない。笑っていた。恐怖にひきつった私とは対照的に。

「さあ、行ってらっしゃい」

 それが、立花さんの声を聞いた最後だった。


 朝、7時。早番の看護士が出勤する時間だ。バイタルチェックを終え、記録を書いていく。

「おはようございます」

 後輩の看護師がやってきた。

「あ、おはよう」

 彼女は顔をあげて微笑んだ。

「特に変わりなかったですか?」  

「そうね、昨日はみんなよく寝てくれてたわ」

「良かったですね。じゃあ、みなさん食堂にお連れしましょうか」

 そう言うと、手分けして患者たちを食堂へ誘導する準備を始めたのだった・・・


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