大塚さんが死んだ②〜素敵なダイナマイトスキャンダル

冨永昌敬監督の新作映画『素敵なダイナマイトスキャンダル』を観た。

映画の後半、エロ雑誌「写真時代」が潰れ、末井昭さん(柄本佑)が茫然とパチンコを打ってるシーンで、「パチンコ必勝ガイド」創刊のヒントが描かれる。

そのシーンを見ながら、そういえばこの末井さんの原作本は、大塚さんに薦められて読んだんだ、ということを唐突に思い出したのだ。

20代前半の頃の自分は、高橋源一郎の文学評論から思いっきり影響を受けていて、アーヴィングやヴォネガットなどのアメリカ現代文学や、蓮実重彦や柄谷行人などの難解な文学批評的なものばかり読んでいた。

『素敵なダイナマイトスキャンダル』を読んで、すごく自由を感じたのを覚えている。
その後、末井昭さんの本はすべて読んでいるので、初めて読んだきっかけを逆に忘れていたのか。

「末井昭っていうのは、おもしろい男だよ」
大塚さんがそう言って貸してくれたことを思い出した。そうだ、その台詞に間違いない。

読んでみて、「パチンコ必勝ガイド」を創刊した人であることを知った。


大塚さんは学生の頃、千住鯨太と名乗り、「パチンコ必勝ガイド」誌主催の「第1回パチンコ鉄人戦」で、並みいるパチプロたちを抑え、大学生ながら優勝し、 賞金の100万円を手にしていた。

さらにそれをきっかけに、同誌で3年ほど連載を持っていた。
原稿用紙に鉛筆書きの生原稿を見せてもらったことがある。

大学生で、雑誌に連載を持ち、白夜書房の編集部に出入りする大塚さんは、別次元の人間に思えた。

それが、我々が心酔する音楽や文学や映画などのジャンルでなく「パチンコ」であることも、カウンターカルチャーのようで、アウトサイダーで、カッコよかった(ような気もしないでもない)。


大塚さんはその100万を元手に、我々後輩を「代打ち」というバイトに雇った。

大塚さんの選んだパチンコ台で、大塚さんの指示通りに我々がパチンコを打ち、我々は時給千円を貰う。大塚さんは自分で自分の台を打つ。2人分の上がりから、我々の時給を差し引いた分を大塚さんが持っていく、というシステムだった。

上がりが出なくても、マイナスになっても、我々の時給は保証された。
昼食代とタバコ一箱、大勝した場合、夜のお酒も付くこともあった気がする。

大塚さんは、その100万を20倍にしてタイへ移住して王様になる、というわけのわからない冗談を言っていた。

金がなかった我々は、そのバイトをよくやった。

自分が大塚さんにかわいがられるようになったのは、この代打ちバイトがきっかけだったように思う。

その頃はまだ大塚さんは実家暮らしだった。
ご実家に泊りがけで、2日連続で代打ちをすることもあった。
代打ちが2人になり、3人で打つこともあった。

もちろん、いい日ばかりではなかった。

3人で、午前中だけで推定10万円近くが消えていた日を覚えている。

その日の昼食は重かった。

「状況はよくないな」「午後に挽回するチャンスはある」

大塚さんが青ざめた顔で、そう説明するのを、油そばをすすりながら、2人で神妙な顔で聞いた。

その日は大敗したはずだ。それでも我々はしっかり、時給分を頂いて帰った。1万円の収支は、当時の我々にとっては大問題だ。
「今日は、いいですよ」なんてことは口が裂けても言わなかった。

2人で1日で18万勝ったときもあった。勝ってもらう1万と、負けてもらう1万は、大違いだった。

その夜、ご実家で祝杯をあげていると、大学の仕事からお母様が帰宅した。
お母様は、酔っ払っている我々にこう言った。

「あらあら、今日の調子はいかがでしたか?」

「いやー今日は回りがよくてね、なあ、矢川?」

「はい」

と応えながら、なんという母と子の会話だろう、と思っていた。


結果、大塚さんはその100万を、そのパチンコですることになる。
ハッキリとは言わなかったが、大塚さんが高田馬場~早稲田間をタクシーで移動するようなこともなくなり、じきにそのバイトはなくなり、大塚さんはパチンコから離れていったので、そういうことだろう。


代打ちに関しては、大塚さんに長い間言わなかった話がある。

2人で打っているときに、めちゃくちゃよく回る(大当たりする可能性の高い)台を自分が打っていた。もちろん大塚さんが釘を見て選んだ台だ。
まだ確変こそ来てなかったが、この回り方は異常で、絶対に打っていれば大当たりする自信があった。

だが、午前中の時点で、大塚さんが集合をかけた。

「今日はなにかおかしいな。回ってるけど当たらない。台がバチモンかもしれない。今日は解散しよう」

「でも大塚さん見てください、めちゃくちゃ回ってますよ」

「いや、今日は解散する」

この日で自分のパチンコ経験は人生で5-6回だろうか。
つまり大塚さんの代打ちバイトしか経験がないのに、なぜそんな自信が持てたんだろうか。

この台はヤバい。絶対に当たる。

おつかれさまでしたーと、大塚さんと解散したあと、大塚さんに内緒で、その台に戻って、一人で打ち続けてみたのである。

罪悪感と共に、興奮があった。自分のお金で打つパチンコは、人の金で打つのと、まったく感覚が違った。球が吸い込まれていくのは、身を削られているようだった。

そして、みるみるうちに、たった数時間で、昨日からの代打ちのバイト代を、すべて吸われてしまった。もともと持っていた多少のお金もすべて。

この日の徒労感、喪失感のことは忘れない。
ああ、大塚さんの言うとおり、あそこで解散して、帰ればよかった。
絶望的な気持ちで、文無しで一人、自宅まで帰った。

今でも思うのだけど、この日に、初めて自分のお金(大塚さんからのバイト代だが)で打ったこのパチンコが当たっていれば、その後の人生で、ギャンブルにハマっていたかもしれない。

後にも先にも、自分のお金でパチンコを打ったことはあれ以来無い。
あそこで負けて、よかったのかもしれないな、と。

その話を数年経ってから、大塚さんに話した。

大塚さんは静かに最後まで聞いて、笑いながら

「矢川、それはな、お前に博打の素質がないってことだよ」

と言っただけだった。


先月3月4日に、大塚さんの四十九日に参加させて頂き、お別れを言ってきた。お母様にも挨拶させて頂いた。

近年大塚さんと親しかった方の挨拶のスピーチで、大塚さんの体調がこの数年思ったより深刻だったことを知った。うつ病を患っていたことは知っていたが、身体が思うように動かず、吉祥寺のマンションから、一度実家に戻っていた期間もあったらしい。

知らなかった。自分はこの10年ほどで、ここまで大塚さんと疎遠になってしまっていたのだ。

先輩の1人が、大塚(千住鯨太)さんの『パチンコ必勝ガイド』の連載をすべて国会図書館でデータ化し、大塚さんのお母様に渡した。みんなにもデータが送られた。(ヤマゲさんありがとうございます。)

若かった大塚さんを感じられるから、たまに読み返したりしている。

(気が向いたらつづく)

https://twitter.com/yasnsk