俳句のリズム考、そして多行俳句についてもすこし ――8-8-8実験句会レポート

 「俳句のリズム」という問いをたてた時点で、俳句を音楽として考えていることになる。

 定型俳句は8拍3小節のリズムを基盤としているという言説は、前川剛の「俳句定型8ビート論」をはじめとして、以前からさまざまなバリエーションとともに論じられてきたものだ。

 作曲家であり「文芸再構成師」を名乗る小野修氏は、以前から独自に「8ビート論」と同様の分析を行ったうえで、最長の定型俳句とは8拍3小節すべてを音符とした8-8-8の24音なのではないかという説を考えていたという。ある日の雑談のなかでそのお話を伺い、では実践してみてはどうだろうかと筆者から提案してみた。そして、8-8-8の24音という縛りを少し緩め、参加者各自の考える「最長音数の定型俳句」を投句してもらう句会を企画したのが「8-8-8実験句会」である。本稿では、足立区小台の珈琲店BRÜCKEにて月一度行われている「あらくれ句会」のスピンオフ企画として、2015年4月29日に実現したこの句会の様子の一部をお伝えするとともに、俳句のリズムに関する筆者の見解を述べたい。

 また、この句会をきっかけとして、多行俳句について考える新たな視点を得たので、それに関する簡単な考察を末尾に記す。

 句会当日の出席者は6名(大野円雅、小野修、加藤絵里子、杉浦俊介、中村安伸、橋本直)欠席投句者3名(三木基史、無時空、森住俊祐)見学者1名 (冨岡穂々)欠席選句者1名、あわせて参加者は11名(敬称略、五十音順)となった。

 当日参加者および見学者は並選二句、特選一句に加えて問題句一句を選出、当日欠席者は並選二句、特選一句を選出することとしたが、記事中には得点を記さない。なお、慣例として俳句を三節に分け上五、中七、下五と呼ぶことが多いが、今回のレポートでは句の読みを括弧内にひらがな表記し、小節ごとにスラッシュ(/)を適宜配置し、音数を示したうえで、各小節を1小節め、2小節め等と呼称することにする。

・虹の根を探す漂泊の民よ死者を運ぶ   三木基史(欠席投句)

(にじのねをさがす/ひょうはくのたみよ/ししゃをはこぶ 8/8/6)

杉浦:句によって想起させられる景に惹かれた。

大野:硬い語、強い語が目立つが、鎮魂の物語としてとらえたとき、読後感にふわっとした暖かさを感じられた。

加藤:俳句としてはやや重い内容だが、長さのために許容されている。3小節めの六音の不安定さが効果的。

小野:響きのよさ。また2小節めの最後の「よ」が効果的。

 小野氏の述べた「よ」の効果について議論が分かれることとなった。筆者の意見としてはこの「よ」は8/8/8の音数に近づけるために挿入されたものと思われたので、なくしてしまっても句意に大きな変化はなく、むしろ7音となって音韻としては安定するのではないかと考えた。

 大野氏が高く評価した内容面、すなわち死者の鎮魂のため虹の根をさがし彷徨う民の物語という解釈について、橋本氏は2小節めのあとの「切れ」によって句が分断されるため、必ずしもそのような解釈が確定できるわけではないという意見であった。この句にかぎらず、句の内容がどことなく物語性を帯びてくるのが、この句会に投句された句群の特徴のひとつと言えるかもしれない。

・江戸の暴れ川橋を渡ったら足立の小台 杉浦俊介

(えどのあばれがわ/はしをわたったら/あだちのおだい 8/8/7)

橋本:句の傾向をファンタジー系とリアル系にわけてリアル系の代表として採った。「暴れ川」が効いている挨拶句。

 橋本氏の選考方法はユニークだが、それだけ普段の句会に比べて「ファンタジー系」の作品が多かったということだろう。

 この句も二小節めの8音を「橋を渡れば」等と7音にすることでより良い句になる気がしてしまった。また「江戸」という地名は、江戸が江戸と呼ばれ ていた時代における江戸を指す。そうするとこの句中の川は荒川放水路が開削される前の荒川(現在の隅田川)ということになり「暴れ川」という形容 はしっくりくるが「橋」(小台橋)はまだ存在していないことになる。そんな歴史上の整合性がやや気になった。

・地虫穴を出ず(づ)回転木馬は天を回したる 森住俊祐(欠席投句)

(じむしあなをでず(いづ)/かいてんもくばは/てんをまわしたる 8/8/8)

 この句を問題句とした冨岡氏は、映像としてとらえたときにカメラの切り替わりの感覚、つまり地中を写すカメラから回転木馬から天を仰観する映像へ の切り替えという、二句一章の構造がもたらす跳躍の感覚の興味深さを指摘した。

 また橋本氏は「地虫穴を出ず回転」までを一続きとして呼んで、地虫の回転と天の回転を対立させるという読みの可能性を提示した。この表記の場合の読みは「あなをでず」つまり穴を出ないという意味であるが、筆者は「穴を出づ=あなをいづ」つまり穴を出たというように読んでいた。意味が180度変わってしまうのだが、音韻の面でも違いがある。

「穴を出づ=あなをいづ」としたうえで筆者が問題句としたのは、ネットで見た歌詞に関する記事(※1.)の影響がある。

 日本語は一般的に、モーラと呼ばれる一音が同じ時間的な長さで発音される単位に分節されており、英語などの音節(シラブル)とは構造が異なっている。一音節を一拍に当てはめることのできるからこそ日本語では音数律が可能なのであり、五音、七音を基礎とした定型詩が発達してきたのである。一方で英語などはシラブルの多彩さによって、多様な「韻(ライム)」を用いることができた。日本語のラップの発達のなかに、英語の多彩なシラブルの響きを日本語に移植するということが試みられ、それはすでにJ-pop全般に影響を与えていると思われる。

 上述の記事においては、近年のJ-popにおいて、語尾の母音を発音せず子音で終わらせることによってクローズドシラブル(子音で終わる文節)に 近い感覚を得ようとする傾向があるということを SEKAI NO OWARI の "Dragon Night" という曲を例にとって説明している。こうした手法は、日本語に英語の音韻感覚を導入する方法のひとつなのだろう。

 この句の「あなをいづ」を「あ/なをいづ」と分節し、二つ目の節を子音 "z" で終わるクローズドシラブルとして発音できないだろうか? そのように考えると、この句の1小節めは、近年のJ-popのある傾向とシンクロしつつ、日本語定型詩のモーラを基盤とした秩序に変容をもたらす可能性を秘めたものではないか。

 なお、句会後に作者の森住氏に確認したところ「穴を出ず」と表記したのはミスであり「穴を出づ」を意図していたとのことである。

・汗ばんで驟雨夏まで数えるまだらの水たち 大野円雅

(あせばんでしゅうう/なつまでかぞえる/まだらのみずたち 8/8/8)

 「まだらの水たち」というフレーズの新奇さ、汗と驟雨という二種類の水の質感の交錯。それらが夏へと連なっていく感覚のみずみずしさ。また「数える」という行為の対象は確定できないが、「水たち」という表現とあいまって、本来不可算な水というものを可算なものとして捉えなおした認識のズレの面白さを感じた。

 またリズムとしてもぎこちなさのない、自然さを感じるが、そのポイントは1小節めにあるのかもしれない。

 「驟雨」の発音は本来「シュ・ウ・ウ」という3モーラであるが、この句のなかでは「シュ・ー」という2モーラに近いものとして読める点が、この句のリズムを特徴付けている。これは冨岡氏による重要な指摘である。

・永き日の瓶より零れ結晶になる途中 加藤絵里子

(ながきひの/びんよりこぼれ/けっしょうになるとちゅう 5/7/10)

 1小節め、2小節めは5-7という俳句の最もオーソドックスな音数でスタートし、3小節めに無理やり10モーラが詰め込まれた結果、突如テンポアップする。8ビートが最終小節で16ビートになる感じ、もしくは5連譜が二つ並ぶかたちだろうか。

 これを小野氏は90年代に流行したビッグビートの楽曲にみられる、急にスピードアップするリズム、突然音を詰め込まれるような感覚と表現した。たとえば The Prodigy の "Smack My Bitch Up"(※2.)の冒頭の展開のような感じだろうか。

 橋本氏は「永き日」という季語のもつ時間の長さの感覚を水溶液の変化に託して表現したのが2、3小節目の内容であるとして、音韻と表現の二つのチャレンジを賞賛した。

 筆者としては瓶と、瓶より零れた液体(水溶液)と、それが乾燥し析出した結晶という、それぞれに質感の違う透明な物質を並列させたこと、そして、水溶液から結晶への変容という時間感覚を取りいれた点に興趣を覚えた。

 通常の5-7-5の俳句では困難な作中の時間感覚の操作と、定型感覚を崩壊させつつ纏め上げるような斬新なリズムが魔術のように「結晶」した一句ではないだろうか。

・認識深めるも行動は起こさず世界尚変わらない 小野修

(にんしきふかめるも/こうどうはおこさず/せかいなおかわらない 9/9/10)

 作者の小野氏の言によれば、8-8-8のリズムを考えるうちに、9-9-9のリズムも可能なのではないかと思ったという。2拍子を基盤とした8拍子のリズムが成立するなら、3拍子をベースとした9拍子も成立してよいだろうという発想には、なるほどと思わされた。しかし、その実例となるはずのこの句は3小節目が10音になっており、9-9-9のリズムが崩れてしまっている。

 また、条件や因果など散文的要素の強い文体のせいもあってか散漫な印象を与えてしまい、注目を集めることはなかった。なお、この句には「三島由紀夫 天人五衰より」という前書きがついている。

・灯蛾の羽音 延々と続くオブジェの氾濫 橋本直

(とうがのはおと /えんえんとつづく/おぶじぇのはんらん 7/8/8)

大野:蛾が光に誘われて瓶などに入り込み羽音をさせ続ける映像を見たことがある。そのイメージと無用のオブジェが次々に作られたり名づけられたりすることの空虚さが通じあっている。

 一字空白により一小節め末尾に一拍分の休符が指定されている。この句も整理すれば5-7-5定型に近いかたちに出来る句かもしれないが、「延々と続く」という内容と長さがマッチしているので一定の効果をおさめているとは加藤氏の意見であり、筆者も同意する。

・百合が出会うとき死をなし崩してもののけは交む 無時空(欠席投句)

(ゆりがであうとき/しをなしくずして/もののけはつるむ 8/8/8)

 橋本氏からRPGに登場する謎の呪文のような感じという感想があり、筆者も黙示録などの予言に似た雰囲気があると感じた。「○○が○○するとき○○を○○して○○は○○する」という、因果と条件を重ねた構文でありながら、述べられている内容にまったく具体性がないことが、この謎めいた雰囲気を生み出すのだろうか。

 また、このリズム的に平板な感じも定型詩ではない、呪文や予言文のような感覚をもたらすのかもしれない。

・フルフラットの風呂桶から不意に風船噴き出して 中村安伸

(ふるふらっとの/ふろおけから/ふいにふうせん/ふきだして 7/6/7/5)

 自解すると、この句には以下のようなモデルがある。 

・凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり 高濱虚子

(およそてんかに/きょらいほどの/ちいさきはかに /もうでけり 7/6/7/5)

 この句の定型感を支えているのは3、4小節目の7-5音であり、この7-5音で終止するという点が俳句の定型感覚 にとって重要なのではないかと考えた。この部分がしっかりと定まっていることにより、1小節目の音数を増やしたり、場合によっては1小節ふやして全体を4小節とすることも可能であるということである。7-6-7-5を上限と定めたいと思ったのは、虚子の句にならったということもあるが、これを一音増やして7-7-7-5とした場合、それは都都逸という別の定型詩になってしまうからである。

 さきほどの「百合が出会うとき死をなし崩してもののけは交む」という句のリズムが平板に感じられるということを述べたが、これは終止の感覚が無いためではないかと思った。たとえばシンプルなロックの曲であっても、ドラムやベースが8ビートのフレーズを単調にくりかえしたままで楽曲を終わらせることはできず、なんらかの変化を加えないと終止の感覚を得ることはできない。(ただし、録音した音源ならフェードアウト加工による終止も可能である。)「百合が」の句は、3小節がすべて音符で埋められたことにより、終止せず先に続くような感覚を読むものに与えるのだろう。

 あくまでも仮説であるが、日本語の定型詩の終止を意識させるパターンには二種類あって、今回の句会に出された句のなかで韻律に不自然さがなかったものは、そのどちらかに則っているのではないか。終止パターンのうち王道と言えるのが、短歌、長歌その他でみられる短歌の「7-7」終止であり、もうひとつが俳句や都都逸の「7-5」終止である。「7-7」終止に入るためにはその前の小節の終わりに息継ぎとしての休符が必要となる。つまり、「7-7-7」というパターンでは終止しない。

 「虹の根を探す漂泊の民よ死者を運ぶ」の8-6終止は俳句の7-5終止の変形と考えられる。また「灯蛾の羽音 延々と続くオブジェの氾濫」の8-8終止は、その前の小節が休符で終わることから、7-7終止の変形となっていると考えてよいのではないだろうか。「汗ばんで驟雨夏まで数えるまだらの水たち」の場合は「驟雨」の三音が実質二音に近くなって息継ぎが入ることで、7-7(8-8)終止を実現している。「地虫穴をづ回転木馬は天を回したる」の場合「あなをいづ」を縮めて読むことで1小節目に息継ぎの余地が生まれる。そして「永き日の瓶より零れ結晶になる途中」は7-10終止だが、これは7-5終止の最後の5音が倍速(16ビート)になるという変則的なリズムであろう。

 今回の8-8-8実験句会を通して、作品個別に見ていくと、5-7-5の定型に近いかたちにまとめたほうが良くなると思われるようなものもあった。また、内容面でも表現面でもあまりに散文的すぎるものも見られた。その一方で、音数のみによっては解決しきれないリズムについての様々な問題が浮き彫りになった。このレポートには採りあげ切れなかった発見も多い。また、音数の意識を変えることによって作者の発想も変化する(しかも、かなりの度合いで似た方向に変化する)という現象を面白く感じた。当初提示された8-8-8という音数に忠実に作られた作品は、リズム的に平板になってしまうということもまた発見であった。そして、7-8-8や8-8-6といったリズムには5-7-5とは趣の異なる定型感がある。こうした新たなリズムを持つ定型詩について、実践を続けていくことも興味深い試みではある。ただ、それを従来の意味での定型俳句と呼べるかどうかについては議論があるだろう。

 なお、俳人が俳句のリズムを話題にするとき「中八」というキーワードが議論の中心にのぼることが多い。ただ、今回の句会ではほぼ議題にならなかった。「中八」とは、具体的には5-8-5のリズムパターンがどことなく野暮ったい感じになることを問題としているのだと思うが、今回は8-8-8に近づけた音数の句、あるいはさらに長いものがほとんどであったため、この問題について考えるための材料が揃わなかった。

 俳句を音楽として考えるということ、私にとってはそれがこの句会の目的であった。俳句に限らず詩歌、文芸全般において、音楽的要素は非常に重要でありながら、表面化しにくく、論証の難しい要素である。その部分にスポットライトを当てる試みは、今後もさまざまにアプローチを変化させつつ継続していきたいと考えている。

 さて、以下は句会後に筆者が個人的に考えたことであるが、5-7-5とは異なる俳句のリズムを設定する試みに関して、たとえば高柳重信の多行俳句を、ひとつの先駆的な試みと捉えることはできないだろうか。

目醒め

がちなる

わが盡忠は

俳句かな   高柳重信(『山海集』)

(めざめ/がちなる/わがじんちゅうは/はいくかな 3/4/7/5)

 この句が一行に書かれたものであれば、7-7-5の3小節という一般的な定型俳句として読むことになるだろうが、改行を小節の区切りとして読めば、前半部に休符の多い四小節の句となり、ドラマチックな展開をはらんだリズムを演出していると見ることができる。

船焼き捨てし

船長は

泳ぐかな   高柳重信(『蕗子』)

(ふねやきすてし/せんちょうは//およぐかな 7/5//5)

 この句は三小節目を全休符とした四小節の句と解釈できるだろう。

 上記の二例から、口誦におけるリズムを表記によってコントロールしようとしていたのが、重信の多行俳句の、ひとつの重要な側面であったと思う。

 前期の句群(『蕗子』『伯爵領』など)では、改行の使われ方も多様であり、文字によって図形を描くことを意図したものや、句全体が記号のみで構成されたものなどの実験的試行が多くみられたが、後期(『山海集』『日本海軍』など)においては、四行表記が主となり、より句の音韻やリズムに重点を置き、洗練度を高めていったという印象がある。以下のような作品に、内容、表記、リズムが一体となって現前してくるような、完成度の高さを感じるのである。

飛騨の

美し朝霧

朴葉焦がしの

みことかな   高柳重信(『山海集』)

(ひだの/うましあさぎり/ほおばこがしの/みことかな 3/7/7/5)

 多行形式にせよ一行形式にせよ、表記の問題を視覚面での効果として考えがちだが、リズムという聴覚に関連する方向で考えるアプローチが必要なのではないだろうか。楽譜が記号であって音楽そのものではないように、文字によって記された俳句作品もまた記号であって「俳句そのもの」ではない。演奏されてはじめて音楽が立ち現れるように、それを読んだときにはじめて読者の内面にあらわれるものこそが俳句なのである。

※1.「SEKAI NO OWARI “Dragon Night” の子音の発音の特徴」(Lyrics Theory | 歌詞の書き方:How to start and refine your lyrics.)

※2. The Prodigy - Smack My Bitch Up

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