24/06/02 【感想】ラウリ・クースクを探して

宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』を読みました。

本書では旧ソ連占領時代末期のエストニアに生まれたラウリ・クースクの生い立ちが幼少の頃から彼の視点で語られるパートと、現代(ロシアのウクライナ侵攻よりも後の、ほんとに現代)を舞台にジャーナリストがラウリ・クースクを探すパートが交互に語られます。

ラウリ・クースクは体制による監視が当たり前の時代に幼少を過ごしますが、技師だった父親が持ち帰った電子計算機を使ってBASIC言語によるプログラミングに触れたことでその虜になり、才能を開花させていきます。
プログラムは彼の一部となり、彼がプログラムによって作成する簡単なゲームは彼が日常の中で出会ったものがモチーフとして取り込まれ、まるで彼の日記のような性格を帯びていきます。ソ連辺境の鈍色の日々の中で、彼のプログラムしたゲームについての描写だけは色がついているように感じられます。

そしてラウリが作成したプログラムを小学校の教諭が中央のプログラミング大会に送るのですが、そこで彼はライバルと出会います。ラウリと同い年でより高い評価を受けた、もうひとりのプログラミングの天才。そして彼もまたラウリと高め合うため、同じ学校へと進学します。

ラウリはプログラムを通じて親友ともいうべき友人たちを得ることになります。しかし、時代は旧ソ連時代末期。エストニアの地にあってアイデンティティーの違いが彼らを引き裂いていくことになるのです。

本書はラウリ・クースクとその友人たち、そして彼らを取り巻くエストニアの激動を経糸に、現代に至るまでを描いています。
それと同時に、計算機やプログラムの純粋さに対する信仰のようななものが緯糸として張られています。この信仰は宮内悠介の作品でたびたび見られるものですが、本書では計算機のモチーフとして水晶を置いていることから特にその信仰を感じました。

IT業界というところは独自の言い回しの多い業界ですが、僕の好きな言い回しに「プログラムは書いたとおりにしか動かない」というものがあります。
プログラムが思ったとおりに動かずなにか誤りをおかしたとしたら、それは機械が誤ったのでなく、プログラマーが誤ったことを書いたから。
本書の中盤、独立を巡って揺れるエストニアの中でラウリをはじめとした住人たちは独立かソ連につくかという選択を迫られることになります。ハッキリ言って正解なんてありません。結果的に独立を果たしたので独立派が正しかったことになり、そうでない側が石を投げられるようになっただけです。正しいことなんてなく、まして一人の学生には決めようもないし影響力もない。そんな時代、そんな状況を描いた本書にあって、プログラムの絶対さ、純粋さという緯糸が一層美しく感じられるのです。

バルト三国は主流宗教がそれぞれ違い、リトアニアはカトリック、ラトビアはプロテスタント、そしてエストニアは国民の大半が無宗教…というのは有名な話です。
そして同時にエストニアは、ITを国家運営にいち早く取り入れたIT先進国であり、国家のアイデンティティーを電子化して第三国にバックアップするということを実現している国でもあります。
本書を読んでいるとエストニアが選んだ道は計算機科学の絶対的な純粋さ、それを司る水晶の精霊への信仰のように感じられました。

アイデンティティーの問題と特定の技術分野の論理を重ね合わせる手法はすでに宮内悠介の自家薬籠中のものとなっていますが、本書は特にエストニアを舞台にこの噛み合いがバツグンに決まっていた印象があります。
宮内悠介作品によく登場する各モチーフについて、ボードゲームテーマは『盤上の夜』、音楽テーマは『アメリカ最後の実験』に収束している印象があるのですが、計算機/プログラムテーマの収束地点はこの『ラウリ・クースクを探して』になるんじゃないか…なんて思いました。