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パレスチナ西岸地域 ジェニン難民キャンプ

ジェニン難民キャンプの住人Sに連絡したところ今日(6月27日)ジェニンに来ないか?と誘われた。ちょうどキャンプがIDFによって破壊さてたので見てほしいと言っている。

Sは1ヶ月前に難民キャンプで銃撃戦に巻き込まれ負傷したので、その後回復したのか聞くつもりで連絡を取ったのだ。最近のジェニンの様子など時々彼から聞いていた。戦争が始まってから西岸地域の検問所は閉まっていることが多い。どこが開いているかわからない。エルサレムからジェニンへの直線距離は76kmだが、片道3時間かかる。イスラエル側の高速道路6号線を使っていくと2時間半だが走行距離は155km。それでも一度彼にも会ってみたかったので、「行くよ」と答え出発した。時間は午前10時、13時にはついて16時には、帰路に向かおうと予定した。

とりあえず行きは西岸を横断する60号線を使っていくことにした。ユダヤ人の入植地用に作られた道路を使って北上、今までナブルス(聖書のシケム)に入る前に通るハワラの街を抜けるのだが、去年何度か近距離でイスラエル人入植者を撃ち殺したテロ事件があり、それが原因で入植者によるハワラ村焼き討ち事件も起こったため、今は迂回路ができてハワラ村を通る必要が無くなっていた。(反面、村での買い物などもできなくなった)

ジェニンはさらに北に位置し、ナブルスを迂回して、そこからはほぼ自治区内部(A、B地区)の道を抜ける。イスラエル登録の黄色いナンバープレートもなくなり、白地に緑文字のパレスチナナンバーのみになった。また道路のアスファルト状態もひどく、片道一車線の山道をさらに1時間走った。

ラジオで今朝ジェニン地域で、巨大な爆発物が地面に埋め込まれ、それに巻き込まれ兵士が1名死亡、16人が負傷したとのニュースが流れた。街は閉鎖されているかなと一瞬思ったが既に出発しているのでそのまま進んだ。ラジオからは戦死した家族や友人がインタビューが流れてくる。

いくつかの山を越え、ジェニンの街に入った途端、携帯電話の電波状況が悪化し、Sと連絡が急に難しくなった。なんとか通話をしジェニン中心部の商業地域で待ち合わることになった。5分で来ると言ったところ30分待ち、その間子供達が変わるがわるペットボトルの水を買ってくれとやってくる。第三世界のようだ。

夕方の市場は店じまい


中心部の商業施設には、たくさんの人々が出たり入ったり、ほぼ全ての女性がヒジャーブを被っている。これは私の知っている西岸の街、ベツレヘムやラマッラとは大きく違う。ジェニンは西岸のイスラム戦線(ジハード)の本拠地とは聞いているがやはり宗教色が強いのだろうか?

Sがやっと来て車で難民キャンプに移動した。キャンプに入る前にSが「窓を全開にして誰が乗っているかわかるようにして」といった。これは大事なことなんだとも付け加えた。暑い日で車の中は冷房で気持ちいいが、窓を全開にした。時々Sが住民と挨拶をしている。人々は侵入者に懐疑的だ。私の車はイスラエルナンバーからかもしれない。一応PRESSの看板を運転席前に置いた。

数ヶ月前に空爆された家と今朝破壊された道路

入り口付近に車を停めて、徒歩でキャンプの中を歩く。明朝3時ぐらいにイスラエル軍(IDF)のブルドーザーによって破壊されたての建物や道をSが案内してくれた。破壊はいくつかの主要道路と一本の登り道、破壊された建物もその道路沿いのいくつかだった。途中、以前の空爆で2階部分が破壊された家もあった。住人はいるようだが、日中の最も暑い時間で人影も少ない。買い物に使わされた子供か男性しかいない。Sになぜこの家が破壊されたのか?なぜこの道路だけが破壊されたのか聞いても、答えは曖昧だった。

SがここでIDFとの戦闘があったという場所には、たくさんの『殉教者』の顔写真が貼ってある。その近くで2名の若者にあった。Sが挨拶する。私も「サラームアレイクム」と挨拶するが、彼らは警戒心の強い表情のままだ。1人はライフルを下げている。話したかったがSは「行こう」を私を催促した。後でSの説明では彼らは最近パレスチナ自治政府の刑務所から最近出所したばかりだという。私からすれば10代に見えるがSは年齢は2人とも20歳と言っていた。

ライフルを持って歩く若者

その先は住宅地域のようだが、道路と隣接する建物の一階部分の破壊が激しい。また時々マンホール大の穴があり、梯子が付いているが破壊されている。Sは下水路だと言っていた。確かに坂道なので排水路は必須だが、今まで見た難民キャンプやアラブ人の街の普通の住宅地域の下水溝にしては結構きちんと作ってある。

坂を100mばかり登ったところでIDFの破壊は終わっていた。最後の家には、穴が開けてあった。以前IDFの市街地戦闘の教官は、建物に侵入する際は玄関からではなく、このように壁を壊して侵入することになっていると言っていた。なぜなら玄関や窓にはトラップや爆発物が仕掛けられていることがあるからと説明された。

家の壁に穴が開けられていた
家の中から破壊された穴の現場

その穴のある建物の玄関口に女の子が2人座っていた。知っているアラビア語を駆使して声をかけてみた。もちろんSの通訳も頼んで。聞きたかったのは、このように夜中、家を破壊された時どんな気持ちだったか?女の子は少し憂いのある顔で座っていた。小さい方の子は普通に遊んでいた。

そこに男性がやってきた。家族の親戚だという。女の子が家を開けるよう扉を叩き、叔父がやってきたと伝える。しばらく時間がかかり、男性は夜の騒動で多分寝ているのかもといった。

扉が開き、彼らが私たちも中から破壊された部屋を見ろと入れてくれた。暑い日中、コンクリートの廃墟の中、照り返しで登ってきた私たちは汗だくで建物の中の冷房は気持ちいい。薄暗い家の玄関横に破壊された穴を毛布で応急的に隠している。内部には家具はない。廊下の奥にうっすらとベットが見える。反対側にも部屋のようなものがある。

数名の女性が来たり、戻ったり、もう一度昨晩の出来事は家人にとってはどうだったか聞いてみた。親族の男性、アブ・スールが代わりに答えた。キャンプの住民たちは、IDF車両の移動を見ながらどこが狙われるかネットワークに情報をあげるので、彼はすぐにここに来て家族を自分の家に避難させた。だから破壊当時、ここには誰もいなかったと教えてくれた。最初に聞いた女の子も頷いた。

その後これをすぐに修復することは無理だろうといった。なぜなら国連(UNRWA)にはお金がないからとも付け足した。私が道路はそうかもしれないが、家は個人宅だから自分たちで修復できるのではと聞いたが返事はなかった。ガザの戦争が始まってから、ジェニンの主要雇用先である、イスラエル国内の建築現場に行くことが閉鎖されている。Sも父親が働けないので自分が稼ぎ手になっていると言っていた。

以前SからいつIDFはキャンプにやってきて攻撃するかはわからないが、夜が多いとは聞いていた。そしてキャンプを守るためにキャンプ内で自警団を作っているとも。その自警団に色々なグループが武器と資金を供与しているようだ。先ほどの若者たちもそのような自警団なのかもしれない。

今朝破壊された道、下水溝が道の真ん中にある

アブ・スールに、ガザの戦争が始まってからキャンプに対するIDFの侵入がもっとひどくなったのか?誰が住民を守るのだろうか?パレスチナ自治政府(PA)はサポートはないのか?など聞いたが、彼は政治的な話はできないといった。私が今日起こった爆発事件は、このキャンプ襲撃の前か後かと聞いたら、後だと教えてくれた。キャンプが襲撃されたからその仕返しだったそうだ。


この爆発事件の直前、ハマスが公開したビデオに地面を掘って爆発物を仕掛ける方法を紹介していた。そしてジェニンのキャンプ住民はそれを実行したのだ。イスラエルの報道では1.5mの深さに30−40kgの爆発物が仕掛けられていたと報道している。この爆発でアロン・サカジオ大尉22歳が亡くなった。

サカジオ大尉と破壊された医療車

アブ・スールはキャンプの子供たちのサッカーコーチをしている。それについてなら話せるというので、息子もサッカーが大好きでエルサレムのチームでやっているというと、ベイタルかと聞いてきた(アラブ人選手を排除したチーム)違うよ、ポエルだといった。(アラブ人とユダヤ人が一緒にプレイするチーム)

そこでイスラエルの子供達とジェニンの子供達で親善試合するのどう?って聞いてみた。すると2003年以前(分離壁ができる前)は、よくイスラエルのアラブ人チームとやっていたと懐かしそうに話た。ハイファやアッコ、サフニーンなどによく遠征したと。ユダヤ人の子供達と試合するのはどうだろ?と聞くと、また複雑な表情に戻ってインシャーラーとだけ答えた。

アブ・スールにお礼を言って次の場所に向かった。そこは元々はユースクラブで今は殉教者の葬式の場になっているところだ。IDFが落書きしたグラフティを見せてくれた。以前は青少年用のジムがあったようだ。Sも以前通っていたが途中でやめたと言った。やってくる人々と関わりたくなさそうだった。

ヘブライ語で復讐と書いてある

その次に以前電話で話してくれた墓地に向かった。Sの意見では、墓地は子供達へ『殉教』への憧れを作る場になっていると言う。彼もそれが良いとは思っていないようだ。墓地に着くと最近殉教した人々の写真が壁一面に掲げられている。新しい墓石にもその写真が飾られ植物が植えられていた。ほとんどはライフルを持って写っている写真で年齢も10代後半から20代のようだ。彼らは戦闘員だと言った。時々武器を持っていない人もいるが、巻き込まれて死んだ人々らしい。

二つの墓が並んでおり、同時期に埋葬されたようで、1人は武器を持った20代くらいの筋肉隆々の男性の写真、1人は50代ぐらいの中肉中背の男性。Sはこの50代の男性は学校の校長で、若い男性が撃たれた時、助けようと近寄って撃たれたそうだ。

新しい墓地

Sはこのキャンプの住民は48年にハイファから逃げてきた人々で、全員がハイファに戻ることを夢見ていると言った。それからキャンプ内にはPAの治安部隊は入らない。反対に彼らはIDFの作戦を援助しているとも言った。人々は政治的な信条よりも武器や金銭をサポートしてくれる組織と繋がる、それがハマスだろうが、イスラム聖戦だろうが、ファタハやPLFPだろうが自衛のためにと言う。Sが2002年のジェニンキャンプでの出来事と同じだと話したので、その出来事は知っている、私はその時ここにいたからというとSは驚いた様子だった。彼自身記憶にない時代で、伝え聞いただけだからのようだ。

私がみんなハイファに帰還できるまでこの武装抵抗を続けるのだろうか?と聞くと多分そうだろうとSは入った。多分一生ハイファに戻ることができないとしても?と聞くと続けると思うとSは答えた。そしてSは「人々はこのキャンプ生活は一時的なものだと信じている」という。私がここで新しい生活の基盤を作っていこうとは考えないの?と聞いてもそのような考えはないらしい。彼もこの考えが良いとは思っていないようで、自分は家族ができたらキャンプを出て暮らすつもりだといった。自分は生きていきたいとも。出て暮らす人もいるの?と聞いたら少しいるらしい。墓地の向かいにはUNRWAの学校があり、キャンプの中心にはUNRWAの診療所もある。彼にこのUNRWA学校で勉強したのか聞いたら違う学校に通ったそうだ。そして学校の前で子供たちの頭には『殉教』が深く根付いているとも言った。

UNRWA学校前にある墓地、壁一面に殉教者の写真

その後 私が行きたかったFreedom theaterは閉まっており、Sの叔母に会いに行った。Sは自分たちの母親はアルジェリア人と言っていた。そして少し肌が浅黒い。彼が住んでいる一角は肌の黒い人が多いので、黒い地区と呼ばれているといった。道路の真ん中に車が止まっており、厳つい人物が降りてきて、乱暴に私たちを誘導する。Sが説明してなんとか通してもらい私たちの車を駐車した。Sが私のことを厳つい人物に説明しているようだ。彼の車は窓が開いてなく、中に誰がいるのかは見えない。

叔母の家に入ると、やはり肌の浅黒い高校生ぐらいの子が出迎えてくれた。Sの妹だ。おばさんは比較的肌の白い人だった。部屋には車椅子の女の子がいて後でわかったけど彼女の娘だった。Sの説明では、彼女は女性と子供のサポート事業をしているとのことだった。

薬を仕分けて各袋にいれている、内職なのかな?と思いながら彼女の話を聞いていた。キャンプはIDFに包囲されている、毎日不安のある女性や子供たちのメンタルをサポートしてる。UNRWAは今資金もなく援助ができない。そのため仕事がない、それでも何かやるために、ボランティアでこの薬の仕分けをしている、持病がある人々への常備薬だそうだ。確かに途中で見たUNRWAの診療所は攻撃されたと聞いた。彼女の話には、彼らキャンプ住民にとってUNRWAは最も身近で重要な組織のようだ。彼らの世話はパレスチナ政府でもなく、ましてやイスラエル政府でもない。

彼女はPLFP系の団体に所属しているようで、確かオスロ合意以前のパレスチナ戦士たちはアルジェリアに亡命してた。その流れなのかもしれないなとも思った。Sも最初に自分の家族はパレスチナ人の父とアルジェリア人の母と言ってた。

彼女が訴える内容は、辛さ、悲惨さ、生活の厳しさだ。それを唯一サポートするのがUNRWAのようだ。しかし私にとって目新しい内容は残念ながらなかった。なぜか全てが他人に頼る自分たちの生活基盤に聞こえる。自分たちで切り開くことはできないのだろうか。毎回パレスチナ人にインタビューすると歯切れが悪い。大事な確信となる自分の考えを話してくれない。現状を嘆くが、それに対して何ができるのか?誰の責任なのか?どのようにしたら解決できるだろうか?聞いてもはぐらかさせる。言わないより言えないのかもしれないが、パレスチナ人自身の考えはイスラエルの占領以外に答えはないのだろうか?反対にユダヤ人にインタビューするとたくさんの考えを話してくれる。それぞれに色々な方法で現状を変えるための意見を言ってくる。

すでに16時を過ぎ、夕方前にジェニンを出たかったので彼女にいとまを告げた。そして早く戦争が終わるといいと言うと、彼女の顔がパッと変わり、本当に早く終わって欲しいと言った。キャンプを出るまではSに案内してもらい最後にお礼を言って別れた。

私はなぜか早くイスラエルが完全に管理している地域に行きたかった。距離が長くてもアフラの街にまず出ようと向かった。ギルボア検問所と呼ばれるところは車で10分ほど。しかしゲートは閉まっていた。確かに車が全然いない。私が困っていると通りかかりのアラブ人がいろいろをアドバイスしてくれた。イスラエルの警察に連絡してみればとか、ゲートに歩いて行って説明してみればとか。全てやったがダメだった。最後に彼らがどこから入ったと言ったのでナブルスの方からと言うと、同じルートで戻ってみたらと言われ、そうすることにした。再び西岸を3時間走ることになった。

最後にイスラエル兵を見たのは、セバスティアあたりでそこまで1時間かかる。道路情報アプリで15時にはナブルスチェックポイントも閉まると書いてある。慌てて再び渋滞のジェニンの街を抜け飛ばして行った。セバステイアの基地から道路を監視している兵士に、チェックポイント空いているか聞くと大丈夫という。そしてナブルス北部のチェックポイントを無事抜けた時は安堵した。今まで何度もパレスチナ自治区に行ったが今日はなぜか居心地が悪かった。キャンプ内の殺伐とした風景なのか?疑心難儀の目を向けられていたからだろうか?初めて行った土地だからだろうか?

道路アプリでは19時すぎにエルサレムに着くと書いてある。19時半からNeve Shalom/Wahat al-Salam の村の小学校卒業式を見にゆく予定で、そのまま向かった。ここはユダヤ人とアラブ人が共に暮らし生活している村だ。村の学校前に車を止めていると向かいの車からアラブ人家族が手料理を持って、卒業式に参加するためにやってきた。そこにいるパレスチア系アラブ人とジェニンのパレスチア系アラブ人の違いがわかった。安心感だ。ここではみんな安心している。自分が誰であろうとも命の危険がない。

Sの叔母の家でトイレに入っている時、叔母がSに「イスラエル人連れてきたの」と言っていた。私は日本人の外見だが、彼らから見たらイスラエル人に見えたのだろうか?アブ・スールの家で、カバンに付いていた10.7の拉致被害者の黄色いリボンを女の子が触った時、一瞬冷んやりした自分がいた。ジェニンのキャンプでは、イスラエル人であることが危険であり、パレスチナ人であることが危険なのだろう。それが私が居心地が悪かった理由だ。

ジェニンでの体験は、憎しみ以外の方法が見つからない感じだった。その憎しみを変えることができないほど人々の心に染み付いているようだ。そしてこの状況はその憎しみを強化しているとしか言えなかった。

Neve Shalom/Wahat al-Salamでの子供たちの平和な様子と3時間前の体験に私の心がついていけない。たった80kmの距離であまりにも生活から全てが違いすぎる社会がそこにあった。

街のあちらこちらにある殉教者の看板

#ジェニン #パレスチナ西岸 #パレスチナ難民キャンプ #UNRWA










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