姉へ

姉が癌で亡くなった。42歳だった。

歳の離れた姉で私が物心ついた時には高校生くらいだったので、少し距離感があった。

姉は泣き虫だった。学校で心ない言葉をかけられた時、バイト先で意地悪なおばさんにいじめられた時、いつも泣いていた。
母や父は姉を溺愛していたものだから、いつも怒っていたのを覚えている。私には分からないが両親いわく姉は評判の美少女だったという。

姉はお笑いが好きだった。とても大人しかったのに、お笑い番組をよく録画してまで見ていたのを覚えている。
また、いつも寝ていた記憶があった。何だか、掴み所のない不思議な姉だなと、昔から思っていた。
マイペースだし、基本約束には遅れる、でもとても真面目で何事も不器用だった。

そんな姉が所謂出来ちゃった結婚で、結婚して子供を産んだ時、妙な気持ちになった。私はその時、高校生でアルバイトをしていた。ガラケーに母から電話がありバイト先であったスーパーでパンを買って自転車に跨りパンを片手運転で食べながら生温い夜の道をわくわくしながら走った道を未だに覚えている。

病院に着いた時には既に赤子は生まれていて、その子はとても旦那さんに似ていて、お世辞にも可愛いとは言えなかったが笑
初めてとも思える姉が見せた愛おしそうな顔を今でも覚えている。

その後、マイペース全開で1年間も実家に居座り、大学を目指して勉強していた私はイライラしていたが、それを感じてか1年で姉は出て行った。

旦那さんの実家に行くことになった姉はそこから苦労していた。行ってすぐに義父が亡くなり事業の借金が残り旦那さんも私的に借金していた。家の借家の家賃も滞納、波乱万丈の船出だった。

姉は箱入りで家事もあまり出来ず嫁いだため、最初はとても苦労していた。実家に帰ってくることも多かった。

今思えば、この時からとても姉は姉なりにとても頑張っていたのだと思う。

一生懸命、家事を覚え、子育てをし、家計簿をつけ、パートを始め、マイペースの姉にはとても目まぐるしい程の忙しさだっただろう。

すくすくと子供も育ち、産まれた時の旦那さんのクローンとも思える風貌はなりをひそめ、姪は凄く可愛くなった。その辺を歩いていても男の子が寄ってくる。近所の男の子も無駄に来る。
女の子にとっての容姿の価値というものを、まざまざと見せつけられた笑

そのうちに姉は2人目を妊娠した。上の子と6個も離れていたので聞いた時は驚いた。姉は太った事をやたら気にしていた。
何だか姉は知らないうちに掴み所のない人から、俗世に戻っていたらしい。人並みに気にする事を気にするようになったようだった。

この頃には姉は泣き虫だったのが嘘のように強くなっていた。
私が姉にドラッグストアに買い物を頼まれて、ポイントカードを預かっていたが、出すのを忘れて、とても怒られた笑
今思えば、そのくらい几帳面に家計を管理して頑張ってたんだなぁと思う。

それからはパートも増やし、なかなか減らない借金に業を煮やした姉は義兄の債務整理を行わせ、クレジットカードも止めさせた。

そんな中、癌が発覚した。39歳くらいの頃だったと思う。姉は何度か病院で検査を受けたが潰瘍と言われ治療も効かなかったが3ヶ月ほど潰瘍の治療を続けられ、ようやく精密検査で見つかった。ステージは既に3だった。

手術して、胃を全摘した。姉はとても元気でパワフルだった。手術後しばらくして働き始め、姪を大学までやると、息巻いていた。
あんなに泣き虫だった姉は強くなった。

でも、やはり再発してしまい最後の1年は入退院を繰り返す日々だった。
お見舞いに行く度に弱っていく姉を見るのが辛くて、頻度も減ってきた。
しかし確実に弱っていく体に対し姉は退院したら、をずっと考えていた。

姉は最後まで強かった。姉が危ないと言われたのは2時だったらしいが結局、家族全員が揃った7時から1時間後の8時に亡くなった。
きっと、みんなが揃うまで耐えていたのだろう。

本当にお疲れさま。弟はずっと頑張っている姉ちゃんを見ていたよ。姉ちゃんがずっと心配していた残された姪のこと、ちゃんと面倒見るようにします。
だから、もう頑張らなくていいから、ゆっくりしていてください。

今まで沢山の愛情と思い出をありがとう。過ごした時間は一生の宝物です。

また家族みんなで、いつか天国で団欒して過ごせる日を楽しみにしています。

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