'そこ'にいる、わたしたちの記憶のための夜

うさぎストライプ『いないかもしれない』
作・演出 大池容子
*「観劇三昧」での配信公演を鑑賞

 この世界は残酷だ。それがありありと提示された芝居であった。これは、小学校という残酷な場所で、「ノリ」などという言葉を借りて横行していた「いじめ」を乗り越えた(ように見える)一人の女と、彼女を取り巻いた女たちの話である。
 この残酷さについて思うに、「小学生女子集団」というものには、なぜか集団の女子をひとりずつ順番に、無視していったり、仲間外れにしたりする風習がある。もちろんそんなことがなかった学校やクラスやあなた自身があると思う。けれど私自身はそういった経験をした。違うクラスになって新しい子たちと出会ってもそれは同じだった。そうして一定期間を終えると、またいつも通り、さも無視などなかったように仲間として迎え入れられる。まるでこのクラスに入るための「禊」のような、ムラ社会的しきたりである。一方で、「佳奈」が受けたものはさらにエスカレートしたいじめだ。前述の「しきたり的いじめ」とは異なる、そもそも「しきたり」を受ける資格すら剥奪された状態である。それは見た目や言動から「異質である」と認定された場合に起こる、クラスにとって最悪の反応であり、しかし容赦なく残酷な子どもたちは、「あっちがキモいのが悪い」という最低な理論でしかこの問題を認識しない。劇中、フラッシュバックを起こした佳奈の心象風景として登場した、いくつものペン(おそらく佳奈のペンケースを勝手に開けたのだろう)が刺された給食のパン、そしてボロボロになったランドセル。これらは目に見える状態で現れた悪意であり、机に乗り上げた相手から牛乳をかけられる、というのは、実際に机に乗られたわけではなくとも、いじめを受けた側が感じる「相手の強大さ」をあらわす、視覚としてとらえられない悪意である。
 この芝居には男性も女性も登場するが、物語の進行にあたり重要なキーを握っているのはすべて女性である。男性の役割というものは、せいぜいバーを経営していることと、最悪の事態になる前に止めに入ったことくらいだ。物語は、同窓会の二次会のため同級生が経営するバーを訪れた、かつて佳奈をいじめていた「とも子」から始まり、集まってくる女たちを中心に展開する。続いてやってくる佳奈は、かつていじめられていた過去を乗り越えた(かのように見える)美しさを湛えていた。とも子との距離感がつかめず気持ちがやや空回っているようだが、その小さな違和感をどんどん上塗りしていく女たちがひとり、またひとりと増えていく。常連の女は彼氏と喧嘩したと急にカラオケを始めるし、上の階にあるキャバクラの従業員はバーのトイレのドアをバケツで殴る。けれど少し話せば全員まともな大人である。彼らはみんなまともな大人だ。
 だが、突如現れた「見知らぬ女」は、彼らの表層を少しずつ剥がしていく。佳奈へのいじめを「ノリ」だと語り、火事が起こればおもしろがって見に行くとも子のこと。実は佳奈のことが好きで物語を書いていた男のこと。そして自らを取り巻いていたいろんな事柄が浮かび上がってフラッシュバックを起こす佳奈を、よくわからない「勉強会」に積極的に誘う女。この女というのは、「先生に手を出されて小学校を放火した犯人」と生徒の間でまことしやかに囁かれていた「同級生・金田の妹」であることが最終的には暗示されるが、この際に「忘れたい過去」に対する身の振り方として佳奈の対照にあることが印象的だ。すなわち、「忘れたい過去」を自らが変わることで振り切ろうとする佳奈と、「忘れたい過去」を冥界から呼び出して向かい合うことで幸せになれると信じこんでいる女。佳奈は何にも変わってないよ、と言い続ける女は、共に不幸を背負った佳奈を同じ世界に呼び込むことで、自らの思念を少しでも「分かち合える」と考えたのかもしれない。思念とはすなわち、
「わたし、この世界にい(ら)ないのかもしれない。」
といったような、'其処'であって此処ではない、自分だけが世界の'底'にでもいるかのような感覚である。自分自身が「いないかもしれない」と思うとき、世界はいかにつらく厳しいものだろうか。当事者でないわたしには計り知れぬ無常観が'そこ'にはあった。
 けれど、佳奈はどうしようもなく変わっていた。どうしていいのか分からないなりに、この場にいない噂されている誰か(=見知らぬ女)を助けるために、否、佳奈には「助ける」という感覚すらなかっただろうが、「あの」、と声を発することができるようになっていたのだ。このシーンで決定的に佳奈と女の差が明確になり、最後まで名前もわからなかった女は、とうとう佳奈の前を去る。続けて、とも子の罪滅ぼしのようなカラオケの誘いを断る佳奈の「やめとく」。この残酷な夜が終わる、痺れるような幕引きの言葉であった。
 この芝居はほとんどの時間が残酷に満ちているが、終わりが近づくにつれ一人また一人と登場人物が適切に去っていき、美しく清算されていく。自我の強い人物たちがぶつかり合っているようで、場が渋滞することもなくきちんと整理されており、見ていて苦しい、という感覚とは別に、大変見やすかった。
 ひとつだけ言うことがあるとすれば、おそらく平成生まれで、わたし(27歳)より年下であろう人々が、「卒業式でユーミンを歌う」、ということだけが、なんだか取り残された昭和感があり、それもそれで演劇らしくてよかった。(逆に東京の小学生は現代でも卒業式にユーミンを歌うのだろうか。だとすればかなりシャレている)

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