文披31題@2024
Day.1 夕涼み
昔、ジャパンという国の家にはエンガワというスペースがあったんだって。そこではフウリンというのが風に揺れて、きれいな音で鳴っていて、ナツのユウガタの涼しい時間を――ナツというキセツ? のユウガタというのは涼しいものだったらしい――過ごしたんだとか。夕涼み、って言ったかな。そう、真空ではない場所では、その場のエアが動くのを風といって、エアの振動によって音が鳴るんだ。この船も、エアがもっと潤沢だった頃は、船内で呼吸が可能で、つまり音を鳴らせる環境だったらしいけど。うん、ぼくたちがこんなにも寂しく貧しくなる、ずうっと昔の話。人類がこの船に乗り込んだ頃には、どこか別の星にそういう豊かな環境があると信じていたんだけど、そう上手くはいかなかったんだね。だからもう、フウリンが実際にどんなものかは誰も知らない。ナツとかキセツとかいうのがどういう状態を指しているのかもよくわからない。家ってのも、なんだか今の分割区画制とは違ったらしい。爺さんが、そのまた爺さんに聞いたんだって。ねえ、ぼくたちってこんな調子で、どこかに辿り着いて、それでこの船の中とは違う生き方ができると思う? だめかな、……だめかもなあ。でも、なんだか素敵な響きじゃないか。夕涼み。きっと、こういう宇宙服で内部を冷却するのとは違うんだ。……こんなことを考えて起きてるのはエアの無駄遣いかもしれないけど、もうすぐ作業だから見逃してよ。ね。これから一緒に、フウリンがどんなものだったか考えようぜ。
Day.2 喫茶店
古い本の挿絵に描かれたみたいな喫茶店だった。
深い飴色の木でできた机や、カウンターや、温かい色のソファー席。細く金色の線が引かれた、優しい手触りのティーセット。きらきらのパフェグラス。店の中を漂っているコーヒーや紅茶の香りの中に、ときどき、ふわっとなにか甘い匂いがした。なんだか懐かしい匂いだった。
ぼくはそこで、誰かと話をしていた、……誰かと。名前は聞かなかったし、教えてもくれなかった。ただ、ぼくよりもずっと年下の、たぶんハタチすぎくらいの女の子だったと思う。柔らかく目元を緩めるような笑い方をする人だった。何かに頷くとき、髪の先が少し揺れるたび、綺麗な人だと思ったよ。
それで、その人に、何かを相談した。何かって、何かだよ。これも、もうわからない。相談事は、たぶんあの人が持っていってしまった。でもその人が、わかりました、もう大丈夫ですよって言ったのだけ覚えてるんだ。どうしてか、そう言ってもらえるだけで、本当に大丈夫だって気がした。なんでだか、とても安心できる声だった気がする。ぜんぜん、根拠もなく、ただ……ああ、もういいんだ、って。
ぼくは今まで三回そんな夢を見て、それで、ずっとその喫茶店を探してる。どこかにあの店があって、あの人がいる。馬鹿みたいに、そんなふうに信じているんだ。ずっと。
Day.3 飛ぶ
これまで、夢の中で空を飛んだことがなかった。わたしにとって、空は泳ぐものだった。
前に伸ばした腕をすうっと横に開いて、そうして掻き分けた何かのぶんだけ進む。水よりもほんの少し重たい手応え。わたしの腕からゆっくりと広がっていく、風というには淡いゆらめき。
息は苦しくなかった。そこは水の中ではなかったから。なんだか薄っすらと不思議なにおいがしていた気がするけれど、それも、空を泳ぐ夢でしか嗅いだことのないにおいだった。綿あめを作るときにする、ざらめの溶ける甘いにおいをもっとずっと儚くして、そこに高い高い空の薄青を混ぜて、ちょっぴりだけ、かすかにぱちぱち弾けるような白の感触が隠れている。どんな感じだかわかるかな。鼻の奥のほうが、仄かに切なくなるような感じだよ。忘れてしまった思い出が、どこか遠くで手を振っているのに気づいたみたいに……。
そんなふうに、わたしは空を泳いでいた。ときどき。だけどつい一昨日、初めて、空を飛ぶ夢を見たんだ。うん、楽しかったよ。飛ぶのは、泳ぐよりも自由自在だった。
でも、そのたった一回で、わたしは泳ぎ方を忘れてしまったの。もう、空を泳ぐ夢は見られないだろうと思ったの。それが、とても悲しい……馬鹿みたいに。夢なのに。
Day.4 アクアリウム
水の中に住みたいと思ったことがあるし、なんなら今もそう思っている。
でも人間の肺は水の中で息ができるようにはできていないし、人間の目は水の中ではっきり物が見えるようにはできていない。たぶん髪の毛も、伸ばしていたら邪魔だろうと思う。フィクションの人魚の長い髪が美しいのは、水中で動きを止めていても、ひと筋ひと筋がもやもやと漂っていかない束になっているせいでしょう。ずっと短くしていれば別だろうけど、わたし、ベリーショートが似合わない輪郭なのよ。
わたしは水の中では生きていけない。それがずっと、とても寂しい。
それで、水槽を買ったの。砂利をひいて、水草を植えて、ちょっとした流木なんか置いてみたりして。でも、魚は入れなかった。そこで魚を飼っていたら、なんだか嫉妬してしまいそうだったから……変だと思う?
わたしはきっと、魚になりたいんじゃない。人魚みたいなものになりたいんでもない。この、水中では不便な手と足とをしたまま、わたしのまま、冷たくて透明なところで暮らしていたい。
わたしはね、わたしの作ったアクアリウムに住みたいんだ。理想のおうちってやつ。モデルルームみたいな。わたしはいつか、ああいう水の中に住むために生きているんだって、そう思って人生をやっているんだよ。なんとかかんとか、空気の中でね。
Day.5 琥珀糖
最初ね、琥珀糖って、もっと固くてぱきぱきしたものだと思っていたの。琥珀っていうくらいだから、そうね、べっこうあめみたいな、ぱりぱりしたものがもっと分厚くなっているようなイメージ。それこそ宝石にかじりつくみたいに、歯と歯の間で固いものを噛み砕いて食べるような、そういうものだと思っていたのよ。
けどまあ、実際は違ったのね。
それが悪いってわけじゃ、ぜんぜんないのよ。あれはあれで、不思議な食感で美味しいじゃない?
でも、なんだか……わたし、わたしのイメージの中にあった『琥珀糖』ってものが、どこかにはないかしらって、心の隅っこでそう思っているのね。ちょっとおしゃれっぽいお菓子屋さんなんかが目に入ると、それが洋菓子屋さんでも和菓子屋さんでも、なんとなく、目で探してしまうの。華やかにカットされていたり、原石みたいなちょっと鈍いきらきらを抱えていたりするような、固くて甘くて輝かしくて、ちょっぴり幸せなぱきぱきのこと……。
本当に、わたしの知らないだけで、そういう食べ物ってあるんじゃないかしら。たとえわたしのご近所では見つけられなくたって、世界のどこかには。……そんなものを探すのって、考えてみると、本当に宝石を探すみたいでちょっと素敵ね。
Day.6 呼吸
息をしなくても、生きていけちゃうかもしれない。
初めて好きな人とハグしたときそう思ったわよね。息ができなくて心臓がうるさくて、みたいな、少女漫画でも恋愛小説でも百億回書かれてそうなあれよ。世界が輝いて見えるような、きらきらのハッピーってやつ。
でも今は、やっぱりそうじゃないかもなって。そりゃあわたしだって、あの思い出の日があって、その喜びがあって、それで生きてきたわけだからさ、そういうものがなにか別のものより悪いとか、下だとかいうんじゃないのよ、もちろん。ずっとあんな瞬間が続いたら、それはそれで、きっと素敵よ。華々しい人生よ。
だけどねえ、わたしは今、あんたといるみたいな生活がいちばん好きだなって思っちゃったのよね。
あんたとハグしても、息が苦しくなったりしないし、心臓がぎゅうって痛くなったりしない。そのかわりに、むしろ、呼吸は穏やかになるの。胸はじんわりあったかくなって、優しい気持ちになる。あんたといるときに感じる光は、ぴかぴかきらきらの輝きってかんじじゃなくて、春の一番いい日、みたいな、柔らかくてまあるいかんじ。
そういうのが好きって、ちょっと年を食ったってことなのかなあ。……まあいいけどね。あんたと一緒なら、年を取るのだって、ちっとも怖くないから。
Day.7 ラブレター
もらったことがあるのよ、一度だけね。そう、ラブレターってやつ。
中学の、三年生の終わり頃だった。高校受験も終わって、あとはもう卒業するだけ、みたいな時期。帰り際の昇降口で、受け取ってほしい、って渡されたの。クラスメイトの男の子。きれいな薄水色の封筒だった。
だけど、わたし、その瞬間にはなんだかよくわかっていなかったというか……えっ、と思って戸惑ってたら、いつの間にか渡されてた、みたいな。今から思うと笑っちゃうけど、わたしってずいぶんぼんやりした子どもだったわ。家に帰ってから封筒を開けて、封筒とおんなじ色の便箋に書かれた手紙を読んで、ようやくそれがラブレターだってわかった。察しが悪いにもほどがあるんだけど、ほんとに。
でもねえ、そうやって、読んで初めて、あの子がわたしのことを好きなんだってわかって……すごく不思議な気分だった。彼氏とか、なんなら誰かを好きとか嫌いとかも、ぜーんぜん、考えたことなかったんだもの。彼氏のいる友達も、彼女のいる友達もいたのに、自分には関係ない気がしてたの。ぼんやりしてたから。
今になったらわかるのよ。誰かに気持ちを伝えるのがどれだけ難しいか、みたいなこと。だから、忘れられないね。わたしはあの子のことが特別には好きじゃなかったけど、たぶん、一生覚えてる。そういうものでしょう、思い出とか、人生とかって。
Day.8 雷雨
雷が怖いって思ったこと、ほとんどないなあ。ずいぶん小さかった頃から、ぜんぜん、ない。なんで平気なの、って聞かれたら、理由はわかってるんだけどさ。
昔ね、雷が鳴って雨がざんざか降ってるようなときって、お母さんとかお父さんとか、あとはたまにおばあちゃんとかが、ずっと一緒にいてくれたんだよね。うん、昔の話よ。小学校に入ってしばらく、くらいまでかな。もしかしたらもうちょっと長かったかもしれないけど。
雷が鳴りだすと、お母さんの膝の上に乗っけてもらって、大丈夫だよ、って抱きしめてもらったりしたな。夜寝るときに雷が鳴ってると、お父さんが部屋まで様子を見に来てくれて、手を握ってくれた。おばあちゃんはね、わたしを後ろから優しく捕まえて、おへそのとこを手のひらで隠してくれてたわよ。わたしのおへそが雷さまに持っていかれないように、って。
だから、今でも雷って好きなの。家族のあったかい手のひらの思い出と、雷の、ごろごろ、ぴしゃーん、って音が一緒になってるのよ。ああ、あの頃のわたしって大事にされてたんだな、って思う。
……そうだ。今夜の予報は雷雨だっていうからさ、よかったらその間、手を繋いでいようよ。君も、わたしの中の、あったかい手のひらの一員になってほしいな。ね?
Day.9 ぱちぱち
口の中でぱちぱちするものが好きだったんだよね。そういう駄菓子とか、メロンソーダとかさ。……好きだった、っていうか、まだまだ普通に好きだな。今だとほら、アイスクリームに入ってたりもするじゃない。あれ、レギュラーのフレーバーになってからずっと、いつも頼んじゃうの。だから、ダブルを頼まないと他の味がぜんぜん食べられなくて。でも、ダブルって元気なときじゃないとおなかが冷えるから、結局、半分くらいの確率でぱちぱちするやつだけ食べてる。
なんというか、それが単純に美味しいなあっていうだけとは違うのね。基本的に楽しく食べてるし、不味かったら食べないけど、やっぱり、これがすっごく美味しい! っていうほど飛び抜けて美味しいのばっかりではないよね。駄菓子なんて特にそうだし、炭酸だって、新しく出たのを買ったら結構当たり外れがあるしさ。なのに、炭酸の新商品は色々買っちゃうし、スーパーでもコンビニでも、お菓子のコーナーをチラ見するときは、パッケージに「ぱちぱち新食感!」とか書いてないかなあって考えてる。
どうしてかって……まだ小さかった頃、初めてぱちぱちする綿あめみたいなのを食べたときにねえ、「わたしはいつか絶対に、このぱちぱちを手のひらから放つことができるに違いない」……と、確信したことがあって。いや、言いたいことはわかる。わかるけど、わたしの中にはまだその確信が残っているんだよ。可愛らしいと思わないかね。
Day.10 散った
わたしが今までで一番、ああ、散るってこういうことを言うんだ、って思ったのは、ガラスね。それもただのガラスじゃなくて、ステンドグラスっていうんだっけ、ああいう綺麗に色のついたガラスよ。
子どもの頃にお姉ちゃんが、淡いピンクと水色のガラスでできた素敵な小物入れを持ってたの。童話のお姫様のドレッサーにでも置いてありそうな、可愛らしいやつ。
それをねえ、わたし、割っちゃったの。割れたっていうか、砕け散ったっていうか、そりゃあもう盛大に。
わたしとお姉ちゃんってちょっと年が離れてたからさ。その頃のわたしにガラス製品持たせるなんて絶対危ないし、それはわかってたと思うんだけど……お姉ちゃんは優しかったから、わたしにねだられて、ちょっとだけだからねって、触らせてくれたの。でも、そのときのわたし、ずいぶんはしゃいじゃって、それで……ぱーん! って。
お姉ちゃんは泣くし、親にもめちゃくちゃ怒られて、最終的にわたしも大泣きしながらお姉ちゃんに謝ったけど、お姉ちゃんはしばらく口きいてくれなかった。
今でも後悔してるし、反省もしてるんだけど……でもあの瞬間、とっても綺麗だ、って思ったのも忘れられないの。二度と取り返しのつかない瞬間の、ピンクと水色……砕けて散って、欠片になったきらきら。……これ、お姉ちゃんには言わないでね。絶対よ。
Day.11 錬金術
錬金術って、なんだかぼんやり、大釜をぐるぐるかき混ぜて……みたいなイメージがあるけど、名前からして、たぶん金属をなんやかんやするわけでしょ、実際は。そんなに大きな釜とか鍋とか、きっといらないよね。ひと抱えもあるような鍋にいっぱいの金なんて、重くて持てなくない?
……と思ったけど、大釜をかき混ぜるのはそもそも錬金術とかじゃなくて、絵本とか童話の魔女のおばあさんかもしれない。ちょっと、いやかなり、イメージが曖昧すぎるかも。曖昧というか、大味というか……雑というか。うん、そう、今わたしがイメージした中の錬金術のひと、黒くてずるずるのローブ着てたもんな。
いや、聞きかじったことはあるのよ、いろいろと。それこそ、鉛から黄金を作るための、とか、いやそれは第一の目的じゃなくて、とか、あれこれ。でも、そういうのってなんだか……へえ、面白いな、いつかちゃんと調べてみようかな、と思ったまま、ずうっと置かれてるわけ。だから、ふとしたときに出てくるイメージ図、みたいなものがフワフワなんだよね。フワフワというか、なんか別のものとごっちゃになってる。
けどそれって、よく知らないものだけのことかな。これならよく知ってる、っていうのは、本当にそうなのかな? ……そう考えると、わたしって、いつもなんとなくで生きてるな、って思うわ。そりゃもうフワフワよ。雲になって空も飛べちゃうくらいに。
Day.12 チョコミント
特別好きでも嫌いでもないんだけど、たまに食べたくなるのよね、チョコミント。たぶん、昔の友達が好きだったからなんだけど。うん、中学生の頃の友達。
あんまり一緒に遊んだことはなくて、もしかしたら、友達っていうよりただのクラスメイトだったかもしれない。でも、友達だったのよ。少なくともあの日には……。
雨の日だったの。帰り際、わたしは傘を持ってなくて、それで、前髪がひっついて邪魔だなあ、とか思いながら斜めになってせかせか歩いてたわけ。
そしたら、コンビニからその子が出てきたのね。普通に制服で、指定の鞄持ってて、わたしとおんなじくらいびたびたに濡れてた。レジ袋に入ってない、そのまんまのカップアイスと、一緒にもらえる木のスプーン持ってた。目が合って、なんか可愛げの欠片もない、うおっ、て声出されて。制服で買い食いとか禁止だったからだと思う。
なんでこの子、傘じゃなくてアイス買ってるんだろうって思って、思わず普通に聞いちゃった。そしたら、制服なんて干したらオッケーだけど、チョコミント食べたい気持ちと、コンビニでチョコミント売ってる時期が重なるのは今だけだから、だって。笑っちゃったよ。その子、大真面目なんだもん。
それでその子が、口止め料ねって言って、チョコミント奢ってくれたの。その後から、なんだかときどき、食べるようになったのよ。なんとなく、思い出したときとかにさ。
Day.13 定規
わたしのペンケースの中には、端にちょっとした飾りのついた、金属の定規があるのよ。猫の形に切り抜きが入ってて、目盛りは十センチしかないやつ。学生の時に住んでた街の、駅からちょっと行ったところの路地裏にあった雑貨屋さんで買ったのね。
本当は二本買ったの。おんなじやつを。それで、片方をね、好きだった人にあげたんだわ。
サークルのイベントの後に、ちょっとしたプレゼント交換会みたいなのがあったのよ、その頃。お世話になってる先輩とか、よく面倒見てる後輩とかに……ほんとにちょっとしたものよ、バラマキだったら二百円とかそんなもん。高くても千円しないくらい。
その定規も、はっきりした値段は忘れちゃったけど、六百円くらいだったかな。でも、こういうの好きだろうなって思って、それで、これくらいの値段なら贈っても変じゃないなっていう値段だった。仲は良かったから。
ほんとは、ただプレゼントするつもりだったのよ。そりゃあ、喜んでくれたら嬉しいなって思ってはいたけど。でも、お店のディスプレイからそれを取ったら、もう一本、おんなじのがあったのね。もう一本だけ。だから、買っちゃったの。つい。
馬鹿みたいだって思ったわ。ていうか、普通に気持ち悪いかなと思った。今でもそう思う。けど、未だに捨てられないのよ。もう十年以上前の話なのにね。
Day.14 さやかな
昔連れてってもらったんだ。地図でいったらそんなに遠くないところだけど、車でぐねぐねした細い道をずうっと行って、森の中に川が流れててその脇にちっちゃい小屋みたいなのがあって、そこを借りて泊まれて、みたいなやつ。
そこで古風に蚊取り線香とか焚いてさ、河原でぼんやり過ごしてみたわけよ。
いやあ、良かったね。川の音がすごく良かった。せせらぎっていうんだっけ、ああいうのって。水の流れていく音。さああっ、ていう速い音の中に、水の滴が転がるみたいな軽い音がいっぱい踊ってるかんじがした。
ほんとは、いやあ言っても川の音なんて動画サイトで安眠用とか作業用にいくらでもあるんだから、そんなもんでしょって、ちょっと思ってたんだよ。正直なとこ、遠出するの面倒くさいなっていうのもあったし。
でもやっぱり、スピーカーとかイヤホンとかとは、なんかが違うなって。奥行きとか、広がりとか、なんかそういうものなのかな? 風で木の葉が揺れたり擦れたりする音、鳥の声、そういうのが、とおーくのほうからも聞こえた。音以外にも、森とか水とか、それこそ蚊取り線香のにおいとかも……全部がなんか、ひとつになって『聞こえた』んだよ。
それを、すごく鮮やかに覚えてるんだ。
Day.15 岬
子どもの頃、友達と一緒に貝殻を埋めたんだ。貝殻ってずっと残るものだと思ってたんだよ。時間が経ったら、みんな化石になると思ってた。だから、大人になったらこれを掘り返しに来ようって、友達と約束したわけ。
頑張って探したんだよな、きれいで、大きくて、約束の証にふさわしいようなやつ。南の国にあるような巻き貝とかないかなって、めっちゃ探した。南の国ってどこだよって話なんだけど、まあ、子どもの考えることだから。残念ながら当然なことに、日本のそのへんの適当な砂浜に、きれいで大きな巻き貝はなかったし。
子どもなりの妥協の末に、見つかった中で一番大きいのを埋めることにしたんだよ。端っこはちょっと欠けてたけど、砂を落としたらそれなりにきれいに見えたやつ。
親の目を盗んで岬のほうまで行って、砂遊びするためのちゃっちい子供用スコップで、今から考えると笑っちゃうほど浅い穴を掘ってさ。そこに、そうっと貝殻を置いて、なんだかお祈りをするような気持ちで埋めた。どうかこいつともう一回、ここに来られますように、みたいな。
……うん、それから一度も会ったことはないよ。連絡先も知らない。まだ、スマホどころか携帯も、子どもに持たせるようなもんじゃなかった時期の話なんだ。あの岬がどこなのかもわからない。あの夏、偶然会っただけの子との、幻みたいな思い出だよ。
Day.16 窓越しの
窓から海が見える部屋に住みたいの。ずっと昔からそう思っているんだけど、これがなかなか難しい。
海の見える町から通える範囲で仕事を探すってのが、まず大変よ。それで暮らしていけない仕事じゃあ意味がないし、ちゃんと勤められてても、転勤があったら困るわけ。転勤先でまた海の見える部屋に住めるなんて、そんな都合のいい話ないもの。
だってねえ、よくあるネットの住まい探しサイトみたいなところで検索してみるわけよ、「海が見える」とか「オーシャンビュー」とかでね。そうすると、ほかになんにも条件をつけてないのに、千件もないのよ。北海道から沖縄まで、ぜーんぶひっくるめて八百件とか。これはもうネットでは無理だなってなるでしょう。
でも、ふっと目が覚めたときにカーテンを開けたら、朝のまだ薄暗い海が見えるのがいいの。夜眠る前に、黒ぐろした波間がちょっと怖いようなのもいい。嵐が来るのも見てみたい……そういうときって、実際には、困ることもいっぱいあるんだろうけど。
窓越しの海って、海に行くぞ、って思って海に行くのとは違うかんじがするでしょう。窓枠ってのは、額縁なの。ずっと同じ場所を切り取っていて、それが毎日少しずつ違っていて……それがいいなって思うのよね。
だからさ、どこかいい部屋とか、海辺の町の仕事とか、知らない?
Day.17 半年
うん、よく頑張った。わたし、超えらい。
なーんでこんなことしてるのかなっていつも思うけど、毎回毎回、喉元を過ぎるたびに苦労を全部忘れて次に向かっちゃうわけ。いや、全部は嘘だな。半分くらいだな。でも半分は忘れて、まあ行けるかなって思っちゃうの。しかもそのスパンが半年ごととかよ。記憶力か判断力のネジが、ひとつふたつ落っこちてるんじゃないかな、わたし。
もっと楽しいことってあるような気がするのよ。気がするっていうか、まああるじゃない、もっと気軽な趣味とか娯楽とか。それに、お金と時間を掛ければ、もっとぱあっとした遊び方だってできるわけでしょう。例えばほら、南の海でダイビング体験とかいいよね。結構やってみたい。あとはそうね、海外旅行とか。イタリアで本場のオペラを聞いてみる、みたいな。
なのに、半年に一回、まあまあお金かけて本出したりしてるの。そのためにせっせとキーボード叩いてね。
ぜんぜん有名でもなんでもない個人が、誰か一人、これを読んで楽しんでくれっ、頼むっ、みたいな気持ちでさ。もう、お祈りだよ、お祈り。でも、そうやってお祈りすることが不思議と嫌いじゃないんだなあ、わたしは。
……うん、さっき、次のが書き上がったところ。だから、これからお祈りの時間。
Day.18 蚊取り線香
昔、夏におばあちゃんの家の二階で窓を開けてると、いつもどこからか蚊取り線香のにおいがした。風が抜けると、ふうっとそれが通り過ぎていくわけ。どこかよその家が焚いてたんだろうね。
子どもの頃は、それがなんのにおいだかよくわかってなかったんだ。なんか夏におばあちゃんちでするにおい、ってだけ。ちょっと鼻の奥に引っかかるようなかんじがして、あんまり好きじゃなかった。
そのにおいの正体がわかったのって、高校に入ってからなんだよ。部活の夏の合宿で、誰かの親が差し入れしてくれたスイカ食べるときにさ、合宿所のおばさんが隅っこで焚いてくれたの、蚊取り線香。
おばあちゃんの家の夏だあ、って思った。
急に泣けてきちゃってびっくりしたよ。そう、おばあちゃん、おれが中学の間に死んじゃって、おじいちゃんは俺が生まれる前にいなかったからさ、おばあちゃんの家ってもうないわけ。だから、なんだか……ブワッ、て寂しくなった。一瞬。
別に、本当に泣いたりはしなかったよ。部活のやつらの前だったしね。でも、合宿が終わって家に帰ってきて、一息ついて……寂しいなあ、ってしみじみ思った。
それから、蚊取り線香のにおい、好きになったの。思い出のにおいになったからさ。
Day.19 トマト
人生で一回行ってみたい海外のお祭りがあって。テンション高いやつ。
いや、リオのカーニバルではなくて。たしかにテンションはめちゃくちゃ高そうだけどさ。ベネチアのカーニバル……違くて、というかカーニバルじゃないのよ。……コムローイ? コムローイって何? タイのランタンフェス? ……それは気になるけど名前は知らなかったな。
あのね、わたしが行きたいのは、トマト祭りってやつ。スペインの、ラ・トマティーナ! ほら、街なかでトマト投げまくるやつよ、知らない?
写真見ると、これがまあ、みんな頭の先からトマト色ですごいのよ。それに、トマトって皮があるからさ、色水を被ったみたいに……とはいかなくて、皮が肌とか髪にひっついて、なんだかぐしゃぐしゃしてるわけ。そういう状態の人がそりゃもういっぱいいるのよ、祭りの間。
なんていうか、めちゃくちゃよね。なんでそんなことしてるのかぜんぜんわからない。でも、そういうめちゃくちゃの中に自分を放り込んでみたいのよ。大きな声でわああって叫んでトマトをぶつけ合って、それってきっとすごく楽しい。くだらない悩みごとなんて、その瞬間にはきっと全部忘れちゃうのよ。素敵じゃない?
それで……えっ、イタリアだとオレンジ投げるの? 第二候補にしておこうかな……。
Day.20 摩天楼
摩天楼ってすごい単語よね。そりゃあもう浪漫の言葉よ。ロマンってカタカナで書くんじゃなくて、漢字で書くやつね。
昔はきっと、超高層建築なんて、本当に「天を摩するかのような」ものだったんでしょう。街の中に、ずんと聳えた高い高いビルディング……見上げた天を背景に、遥かな上階で窓ガラスがきらきらと空の青に染まっていて、その一枚一枚の内側にも人がいるだなんて信じられないような……何よ、少しくらい過去の浪漫に思いを馳せたっていいじゃない。
でも最近じゃあ、数十階の建物ってあんまり珍しくなくなっちゃったもんね。場所にもよるけど、タワーマンションとかさ。
そう、浪漫って解体されていくものなのよねえ。
夢や憧れに、現実はどんどん追いついていっちゃう。科学や技術が夢を叶えると、夢って、夢ではいられないから。夢は目的になるし、憧れは目標になる……。
それが悪いんじゃないけど、でも、やっぱりちょっとだけ切なくて寂しい。
今なら、どんなところに浪漫が眠っているかしら。海の底とか? それとも、やっぱり、宇宙かな? もしもてっぺんが宇宙空間に届く建物が建つようになったら、摩天楼って言葉が復権したりするかしらね。
Day.21 自由研究
自由研究って何やったかなあ。あ、小学生の頃の話ね。まだ工作でもなんでも、とりあえず「研究」って名前で宿題を提出してよかった頃の話。
んーと、パッチワークのティディベアを縫ったことがあるな。綺麗な色のハギレを選んで、ひとつひとつ型紙を置いて、切って、丁寧に手縫いして。結構大変だった。縫い目を揃えるのって神経使うでしょ。そういうとこ、妥協しない子どもだったのよ。
他には……たしか、製氷皿を買ってきて、家中のありとあらゆる液体を凍らせてみたりしたわね。醤油とかお酢とか、油とか? 塩水と砂糖水も作ったし、ジュースも二種類か三種類くらい……コーヒーも入れたっけ? そんなかんじ。三十分ごとくらいに冷凍庫開けて、竹串でつっついて、あれは凍った、これはまだ、みたいな記録取ったの。スッと凍るやつと、最後まで凍らないものがあるわけ。あれはなかなか面白かったな。今から考えると、いろんな液体の種類やら濃度やらによって融点の違いが云々、ってことなんだけど、そのときには、あっ、凍った! みたいなのが単純に楽しかった。
今だったら、何やるかな。大人の自由研究。大真面目にやるとしたらよ。
実験系はちょっとハードルが高いわね。先行研究が……みたいな気持ちになっちゃう。あっ、地元の植生の調査とかは楽しそうかも。フィールドワークって、もうずいぶんやってないものね。あんたも、お散歩ついでに一緒にどう?
Day.22 雨女
うちのアパートに、ものすごい雨女がいるみたいなんだよな。
実際のとこ、家にはあんまりいない様子なんだけど。夜に窓見ても、ほとんど電気ついてないから。
まあそれで、たまにそのひとを見かけると、いつも必ず、雨よけのビニール掛けたでっかいキャリーケース引いてて。その上、これまた必ず、いつも雨が降ってるわけ。
本人は別に普通の人だよ。お互い、こんにちは、どうも、って挨拶してすれ違うだけだけど、そういうときちょっとニコッとしてくれる、まあまあ感じのいい人。でも、絶対に雨の日にしか会わないの。途中でそう気づいてから、晴れの日に会わないかどうか気にしてるから間違いない。
結構ホラーだなって思うわけ。
もしあのひとがずっとアパートの部屋にいたら、もしかして俺の家の近くってそれと同じだけずっと雨が降ってるのかな、とかさ。いや、冷静に考えたらそんなはずないんだろうけど、そう思っちゃうと普通に怖い気がするんだよ。
でも、実際にあの人が雨雲を連れて歩くようなレベルの雨女だとしたら、逆に、ものすごい晴れ女とか晴れ男とかもいるのかな。そういう人たちが、いろんなところを転々としながら暮らしてたり、するのかな……お前、どう思う?
Day.23 ストロー
最近、近所のレストランでも廃止になったの。プラスチックのストロー。
プラスチックのストローはお付けいたしません、お子様用などでストローをご希望の際は紙ストローをご提供しますのでお申し出ください、って書いてあった。
なんというか、時代よねえ。
別に、特別ストローがほしいってわけじゃないのよ。あったら使うけど、アイスティーなんかにはマドラーがついてれば十分かなって思う。氷が落ちてきて、くちびるとか鼻先とかに当たるのは、ちょっとイヤかもしれないわね。でもわざわざストローくださいって言うほどじゃない。その程度のことよ。
ただ、なんとなくね。なんとなくよ? わたし、ストローで氷をからから鳴らしながら、誰かの話に、うんうん、それで? みたいな相槌を打つのが好きだったんだなって思ったの。そういうちょっとした手慰みがあると、気楽な雰囲気になるじゃない。話題にもよるけど、最近こういうことがあったのよ、へえ、それはいいわね、みたいな雑談って、何かしらの隙間があってほしいなって。なんでもかんでも、ずうっと前のめりで相手の話を聞いてたら、それはちょっと大変でしょ。
だから、いろんな場所でストローが付かなくなってきて、ちょっとだけ寂しい気がするの。からからっ、っていうあの涼しい音が作る隙間が、好きだったから。
Day.24 朝凪
夏の夜明け頃に、海の側を歩いたことがあるの。
学生時代にね、サークルの旅行で、海の近くに行ったのよ。一日目はさらさら雨が降ってた。だからかな、あんまり暑くなくて、海もそんなに荒れた感じじゃなくて……でも、誰も泳いでないから、少し寂しいような気がした。
それでまあ、みんなで室内でおしゃべりしたりカードゲームしたり。気の早いひとたちがもうお酒飲んでたりとか。麻雀のマット持ってきて打ってるひとたちもいて、だらけた大学生~っていう雰囲気だった。で、そういう雰囲気のまま夕飯食べて、お酒飲んだりしてさ……うん、楽しかったよ。わたしも夜通しだらだらおしゃべりしてた。麻雀打ってる人たちのそばで手牌覗いてウケてたり。
夏って夜明けが早いでしょ。窓が明るくなってきて、雨も止んだしちょっと酔い覚ましますかってみんなでぞろぞろ散歩に出てね。
堤防の上を、五人だか六人だかで歩いてさ。夜明けの淡い太陽がすうっと夏の光になっていって、だけど海は綺麗に凪いでて、みたいなのを、みんなで見たの。
あの日のこと、たぶんずっと忘れられないな。みんなが、示し合わせたわけでもなく揃って海を見ながら黙った少しの間のこと……あのとき、わたしたちって一緒にいるんだな、って思ったこと……。感傷的でしょ。でもそうなのよ。そうなの。
Day.25 カラカラ
わたしたちが子どもの頃って、夏もまだこんなに殺人的に暑くはなかったでしょ。
喉がカラカラ、って感覚、あの頃にはまだあったなって。今はもう、そんなに喉が渇いたらやばいなって思うじゃない。まあ、大人になったっていうのもあるけどね。
なんだかときどき、懐かしいというか、寂しいというか……なんていうの? ノスタルジック? な気持ちになるのよ。
だって、あんな夏はもう二度と来ないじゃない。
夏は暑くなり続けてるし、わたしたちは年を取り続けていくし。今はもうきっと、鬼ごっこやらどろけいみたいな、なんにも持たずに身体ひとつの遊びで何時間でも盛り上がったりできないし。たとえば自分の子どもに、一緒にやろう、って言われても、ついていけないわよ。インドア派になってもう何年経ったのって話だもん。
でも、いいなあ、とは思っちゃう。
夏休みに日差しの下で力いっぱい走り回って喉カラカラにして、校庭の水道の蛇口をひっくり返してお水じゃぶじゃぶ飲んで……それでもまだ体力が有り余ってて、さあもう一戦鬼ごっこするぞ、ってなれるような、そういう、もう手の届かない夏がさ。
そういう思い出があるっていうのは、だけど、嬉しいことよね。振り返れば、そこで、いつかの夏の日差しがきらきらしてるような……そんなのって、宝物でしょう、きっと。
Day.26 深夜二時
草木も眠るような時間に起きているわけですよ。しかも結構毎日。
たまにはそのくらいの時間に散歩に出てみたりして、思ったよりみんな、夜の間も自由に生きてるんだなあ、みたいに思うの。なんだかよくわかんない歌をご機嫌で歌いながら歩いてるおじさんとか、大学生っぽいグループが楽しげにコンビニ入っていくとことか、ぶおんぶおんでっかい音鳴らして走ってくバイクとか見てね。
子どもの頃には、深夜二時って怖い時間だった。丑三つ時って、おばけが出る時間だって聞いてたから。
だけど今になってみると、そんな時間にもひとって普通に生きてるじゃない。
コンビニは開いてるし、救急車のサイレンが聞こえることもあるし、窓に明かりのついてる家だっていっぱいある。自分だってぜんぜん起きてるしね。
でもそうしたら、わたしが昔怖がってた丑三つ時のおばけって、一体どこに行っちゃったんだろう、って。
ホラー映画で見るようなのとは違う、子どもがみんなでひそひそ「こういうおばけがいるんだって」みたいに話すようなやつよ。……うん、わたしの中からは、そういうおばけはいなくなっちゃったみたい。もしかしたら、誰か次の子どものところに引っ越していったのかな。夜更かしの大人の中じゃ、おばけって生きづらいかもしれないしね。
Day.27 鉱物
結晶の構造が違うと、同じものでできてても違う鉱物として扱うんですって。
ダイヤモンドとグラファイトとか有名よね。宝石と鉛筆の芯。両方炭素だけでできてて、すごい差だなあって思うでしょ。
原子の並びがちょっと変わると、性質ってすごく変わるのね。まあ、それって石に限らずなんだけど。
目にも見えないような何かが、ちょっとだけ違うこと。何にだってあることよ。
……そう、あの子のこと言ってるのよ。今は自慢げに左手の薬指に、ダイヤモンドの指輪光らせてるあの子。わたしの双子の妹ちゃんのことをね。
いや、妬ましいってわけじゃないんだけどね。浮かれてるなあとは思うけど。
わたしとあの子って、同じ遺伝子で出来てるわけでしょ。一卵性なんだから。でも設計図が同じなのにこんなに違うわけ。顔かたちも背格好もよく似てて、でも、何かが違う。それこそ、目には見えないものが……。
鉱物だったら、コランダムってやつかな。ルビーとサファイア、みたいな。あれも基本はおんなじもので、鉄が入るか、……ええと、なんだったかな。他の何かが入るかで、色が変わってる。そういうもんなのよ。
……何よお、別に自分が宝石だなんて思ってないわよ。たとえでしょ。笑わないでよ。
Day.28 ヘッドフォン
昔は、値段も性能もちゃちだけど見た目のかわいいヘッドフォンが結構あって、そういうのを使ってた。音質もあんまり……っていうか、ぜんぜん良くなかったけど、性能より洒落っ気だったわけ。
大学の頃にわたしのお気に入りだったのは、小ぶりでアイボリーのやつ。繋がってるところも細くて、ちょっと素敵なおもちゃ、みたいな。それを、結構いつでも、ずっと付けてた気がする。
で、まあ、思い出としてはささやかなもんよ。
なんのときだったか、もう覚えてない。でも、小さいテーブルの向こう側に、好きな先輩がいたの。別に二人っきりってわけでもなくて、みんなで奥から雑に詰めて座ったらそうなっただけ。でも、ほどほど人数がいたから、全員で同じ話してるわけでもなくて、なんとなく二人で喋ってた瞬間があったの。で、そのヘッドフォン可愛いね、って。音どう? って聞くから、まあ良くはないですね、みたいなことを言った気がする。
そうしたらその先輩が、すっ、て両手を伸ばして、わたしの首元のヘッドフォンを持ち上げて、自分のほうに持っていって。ちょっとなんか鳴らしてみて、って言って……それで、ああ確かに音は微妙だね、可愛いのにね、ってわたしに返してよこしたの。
それだけ。本当にちょっとしたことでしょ。でも、今でも覚えてるのよ。
Day.29 焦がす
砂糖の焦げるにおい。
どうしてだか、切ないにおいだと思う。甘くてほろ苦くて、ちょっぴり悲しくなるにおい。幸せなだけではいられないにおい。
いつかの日、じりりと焦がした胸の底の熱を思い出すから。お砂糖と一緒に、あの日の恋が溶けていくから。
それは、そっとしまい込まれた可愛いお砂糖だ。もう、今この時のわたしのテーブルに広がってはいない。戸棚のシュガーポットに詰め込まれた、リボン、花びら、お星さま……あるいは、ちっちゃなハートかも。指先で壊れるほど儚い、甘いもの。
ぽいと捨ててはしまえなかった。でも、いまさら、午後のお茶に入れて楽しんだりはできないな。あと二十年も経てば別かもしれないけど。
だけどときどき、何か、不意に。ぽろりとひとつこぼれて、心臓の熱で焦げてしまう。
燃え上がったりしない。焼き付いたりもしない。ただ切なく甘いにおいをさせて、溶けて消えていく。
今も、そう。
ちょっと思い出しただけ。あんなことがあったな、って、思っただけ。
でもそういうとき、ほんの一瞬、置いてきたものが手を振ってる気がするんだ。
Day.30 色相
何にでも、色合いというものがあると思う。目に見えるものだけでなく、そこにある『何か』が纏っている色が。
あの喫茶店は、真昼の冬空に似た、澄んだ水色。あのひとは、リップグロスみたいにつややかな薄紅。あの小説のワンシーンは、日が落ちきったあと、わずかに残った黄金色。あの曲は、春の木漏れ日を見上げたときの、淡く揺らぐ黄緑。
そしてあなたは、どこか懐かしく重たい、天鵞絨の赤。
あなたに触れれば、そんなふうに、なめらかであたたかいような気がする。不思議だね。あなたのことは、顔だって知らない。ただ文字の上でしかやり取りしたことがないのに、そう思うんだ。
もちろん、これは勝手な印象だよ。あなたのことを、雪のような白だって感じる人がいたって驚かない。あなたが、あなた自身のことをどう思っているかも、わからない。
どんな色を見ることができるのかも、たぶん、それぞれ違う。人の目と、他の動物の目が見ている色は違うっていうでしょう。それと同じで、人によっては、けっして捉えられない色がきっとある。世界に満ちているものを音として捉える人だって、もっと何か、想像できないようなもので世界を構成しているひとだっているでしょう。
でも、わたしにはあなたがそう見える。……あなたは、わたしをどう感じる?
Day.31 またね
きっともうあなたと会うことはないのだけれど、わたしだけじゃなくあなたもそのことをわかっているはずなのだけれど、それでも、さようならをいうのは寂しいことよ。別に、ずっと一緒にいたってわけでもないのにね。
でも、人生のいちばん大事なときに隣にいたのは、もしかしたら、いつもあなただったかもしれない。
特別、何か大きなことがあったとき、ってわけでもない――ただなんとなく毎日が息苦しいとか、反対に、なんだか浮ついちゃって落ち着かないとか。そういうちょっとした、だけど、何かが困ったことになる“かも”しれないとき。わたしが困ったことにならずに済んだのは、あなたが隣で、なんとなく優しくてあったかい目でわたしを見ていてくれたから、みたいな気がする。あなたの、ふわふわの小さな犬みたいな目。貶してるんじゃないのよ。あなた、裏表なしに、わたしのことを好きでいてくれるんだな、っていう目をしてるから。嬉しいでしょう? そんなふうに自分を好きでいてくれる誰かがいるって。
うん。いまどき、会おうと思って会えないなんてこと、ないとも思うわ。思うけど、どこかで、さよならだってわかってるの。どうしてか……どうしてか。
でも……またね。またね、って約束さえあれば、会えなくても、大丈夫。……きっと。
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